human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

新書斎と『寓話』読中のこと

今日は一日部屋にいます。

昨日の疲れ、というより先週の「舌の荒れ」がまだ治ってなくて(活動していれば勝手に治る、と思って昨日は出掛けたのですが)、昨日はああだったから今日はこうしよう、というわけです。

cheechoff.hatenadiary.jp

一日部屋にいられる環境ではない、と前に↑書いたのは端的いえばに家の近所がうるさいからですが、今日は過ごし方の工夫ができて(それを思いつくまでは耳栓をしたりヘッドフォンで音楽を聴いたりしていたんですが、そういう問題ではないというか、そういう対処の仕方は今の自分には合わないと思ってすぐにやめてしまいました)、わりと居心地よく過ごせました。

ありがたいことに部屋がいくつかあって、マンションの角部屋なので外に面する方角が部屋によって違うのですが、もともと物置として(昔は本当に雑然とした物置として、今は物が少ないから書棚を全部置いた書斎(でも読書をするための机や椅子はない)として)使っていた部屋が工事現場の騒音に対して遠いと気付いたので、そこをいわゆる方の書斎にしてみたのでした。

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神奈川の部屋より収納が多くなって置くものがなくなったパイン材の棚を書斎の机にして(机にしてから気づきましたがパソコンデスクみたいですね。学生のある時期からこういうデスクを使わなくなったように記憶していますが、たぶんデスクトップPCを使わなくなったからでしょう)、引っ越しの際に捨てようと思ったけれど結局は持ってきた元々はベランダでの一服用(タバコの一服ではありません。結局ベランダで使わなかったのは神奈川についてすぐ花粉症を発症したからです)の折りたたみ椅子を書斎の椅子にしました(上の写真)。

写真ではブックスタンドとその上の本を棚の中ほどにおいていますが、そののちに棚の天板においてもいいことに気づきました。
首にあまり無理をかけたくなくて、うつむくと首に無理がかかるので、むしろちょっと上向きの方が首が楽なのです(もっとも上向きすぎるとそれはそれでつらいのでしょうが)。
また、棚の中ほどの一つしたの段は(パソコンデスクならこれや一番下の段はなくてオフィスチェアが入れるようになっているのですが)足置きになります。


というように書斎を新たに設けて、今日の午後はずっとこの部屋で『寓話』(小島信夫)を読んでいました。
この本は明日が返却期限で、明日のうちにネットで延長手続きをすればあと2週間借りられる日が延びるのですが、今日はかなり集中して読めて半分を過ぎました。

物語は滔々と続いていて、そこかしこに立ち止まって考えさせられる箇所があるのですがその物語の滔々さが先を勧めてくるので、決して追い立てられるというわけではないですが、話の筋を見失ったり思い出せそうで具体的には出てこなかったりといったことには関係なく読むこちらの方も滔々としてくるのですが、直接の内容もさることながらもっと大きな、抽象的な意味で他のこと、つまりこの本の外のこととつながることがやはり所々にあって、それが具体的でないところに「よし、ひとつ書いておこうかな」と思わせるところがこの本にはあります。

あるアパートに住むユダヤ人の女性と女性に恋をする富豪の(富豪になった)同じくユダヤ人の実業家の男性の話を実業家の男性が小説家に(自伝を書いてくれないかという依頼のもとに)話す、その実業家の男性と小説家の間の会話を大戦中に中国で育ち戦後に初めて日本にやってきた日本人女性とその夫である元米軍将校の男性夫婦が当の小説家から聞いている、その三人の会話の回想やその回想に対する意見について日本人女性が彼女の異母兄である容姿は全くアメリカ人だが日本語を話し日本人以上に如才なく日本人らしく振る舞う元日本軍二等兵の男性に宛てて書いた手紙の内容が、その兄の元上官であり戦中に北京の女子大学で暗号兵として共に米軍の通信を傍受解読していた元日本軍上等兵で今は小説家の男性に宛てて書いた手紙の中に含まれたその手紙の内容が、当の小説家が月毎(?)に連載している小説に盛り込まれたその小説の内容について、小説家が彼と親しく互いの考えていることやその姿が思い浮かぶ間柄で頻繁に電話で会話をし合う作家仲間か編集者(?)と電話で会話をしている。

と、今僕が読み進めている場面(というか状況というべきか)を説明的に書き並べてみたのですが(文中の「?」はそれにあたる記述がなかったか僕が忘れてしまったところです)、これを「重層的」とか「多層構造」とか言いたくなるんですが、僕はこの本や先だって読んだ岡潔氏の本の内容を思い浮かべながら「いや、これは波紋だな」と言いたくなりました。


岡潔氏の本(『数学に生きる』森田真生・編)の中に、たしか「最終講義」の中だったと思いますが、「人間とは木の枝に連なる一枚の葉である」という話があります。
自分は一枚の葉なのだが、枝とつながってこその葉だから「自分は葉である」と言い切るのは違う気もするし、かといって「自分は木である」と言うのも言い過ぎである。
といった──今記憶を頼りに書くと何を言っているか分からないような文になっていますが──ことが書いてあって、要するに人は他人がいて自分がいるわけで、自分と他人は同じく一枚の葉として枝や木を介してつながっている、そして葉は木が生み出す養分を枝を伝って吸収して生きている、という話だったと思います(木や枝がなんのメタファーだったかは忘れました。というかメタファーというような話ではなかったかもしれません)。

一本の大きな木と、木からいろんな方向に伸びるたくさんの枝と、それぞれの枝の根元から先端までにわたって生える小枝と、それぞれの小枝に緑色にあるいは他の色に色づきながらくっついている葉というメタファーは、一時に存在する人類といった共時的なイメージを与えます。
でも、葉の一枚一枚には、あるいは小枝や枝のそれぞれについても若さや老いがあって、芽を出し始めてこれから緑色に輝く葉があれば今にも枝の先から離れてしまいそうな付け根がぐらぐらした枯れかかった葉もあって、そのことは同時期に存在する若さと老いだけでなく、時間を通して存在するあるいは現れる若さと老い、もっと言えば同じ一枚の葉における若さと老いだって表しているはずなのです。

そういった意味で、上に書いた「波紋」というのも、時間を含んでいると思ったのでした。

小島信夫長篇集成〈8〉寓話

小島信夫長篇集成〈8〉寓話


p.s.
真似たわけではなく自然とですが、本記事は小島信夫氏風に(あくまで僕が『寓話』を読みながら感じたものとして)書いてみました。
保坂和志氏に言わせれば「ただ書く(書き続ける)」という意志(流れ)が源にあります。
保坂氏のエッセイは毎朝ちびちび読んでいますが、小島信夫氏の文章と強く共鳴するところがあるのを『寓話』を読み始めてひしひしと感じています。
ちなみに保坂氏はエッセイの中で「小説を小説でなく(小説であるという形式を気にせずに)書いたのはカフカ小島信夫しかいない」と書いています。