human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

神社と堂と連想の話

今、週末のVeloceでこの本を読んでいます。

原始の神社をもとめて―日本・琉球・済州島 (平凡社新書)

原始の神社をもとめて―日本・琉球・済州島 (平凡社新書)

ながいまえおき

評論の本が好きで、いつも併読する本のうち数冊が評論関係です。
評論とは政治的、社会的出来事や著者の日常を素材に分析を加えることだと思っていて、一般的な評論本・社会批評本以外にも、エッセイの多くが含まれるだろうし、一般向けの専門(科学でも文学でも)解説読み物もそれに入る気がします。
で、そういう本は素材と分析(解釈)がセットで含まれているので、本に書いてある通りに読み込めば一通りの充実感が得られます。
もちろん、その分析が僕(読み手)の生活と繋がって身につまされるというか、ためになることもあります。

が、なんというか、すぐ上に書いたことと矛盾して見えますが、そういう本ばかり読んでいると僕の日常が遊離してくる(浮き足立つのではなく、漂流する?)ことがあります。
本の分析が自分の日常に解釈を与えるのは、その本の内容が実感されるということで悪い読み方ではないはずなのですが、自分が普段生活する中で自分が日常に行う解釈がそっちのけにされると、そうなるのだと思います。
「地に足を付ける」という表現がイメージする以上に実際の感覚は複雑で、たとえば今の文脈に沿って書くと、「浮き足立った世間に対して独り地に足付けようと奮闘する姿勢は(時に)沈んでしまう」ことがあるのです。
世間が「地」であれば、それを浮いてるとみなした人は沈むのであって、安定するのかもしれませんが身動きがとれなくなる。

話を戻しまして。
つまり読書によって自分の価値観が広がるのはいいのですが、広がった一部の価値観の濫用によって自分自身の行動・経験に対する解釈が狭まってしまうことがある。
それは知識を詰め込んだ頭でっかちになっているということで、「価値観が広がった」と考えたのは図式的というか領土を広げたみたいなイメージで言っているに過ぎず、実地で活用できる価値観の幅は狭まり多様性が失われた状態でもある。
で、その頭でっかちの状態で日常生活を送るとつらくなるのは、変化を感じられなくなるからですね。
本を読めば変われる、それは事実としても、それに重きをおき過ぎるとそれ以外の変化が見えなくなる。
毎日同じことをしていても変化が感じられるのは、本を読むから(だけ)ではなく、生活の小さな出来事にその都度対応し、解釈を与え、あるいは身体で感じるからで、読書で得た価値観を「自分を広げる」ものとして吸収するためには、本を読んだらそれで完了ではいけない。
読書を趣味を超えて生活の一部とする人にとってこの作業が難しいのは、本の圧倒的な情報量(それは読むそばから自分にどんどん関連づけられていくだけに簡単に切り捨てられない)に飲み込まれず、自分を保つことだと思う。

ほんだい(と思いきや…)

話を最初に戻しまして。
評論本ばかり読んでいると日常がぎこちなくなるということで、たまに「生データばかりが詰め込まれた本」を読みたくなるのでした。
そういう本は専門的なものが多くて、その分野に特別関わっていない人にはハードルが高い。
そしてなにかその分野に興味をもつきっかけがあって意を決して読み始めるも、分からない単語が頻出してすらすらとは読めない。
ので、気分転換といっても気楽になるわけではなく、むしろ評論の方が(内容が薄いというのでなく)前準備もいらず、その本だけを読んで(=いちいち他の解説書を参照する必要なく)納得できてしまうから簡単に読める。

と、ここまで書いたことのほんのわずかな部分だけが頭をよぎったことにより、『原始の神社をもとめて』(岡谷公二)を先週から読み始めました。

その内容については専門的過ぎてとても書けませんが、いくつか連想があって、面白いなと思ったものを一つ書いておこうと思います(これが本記事で最初に書こうと思ったことで、いつもながら前置きでバテますね…)

 朝鮮半島の人たちは、日本への渡来以前、故地でどのような神の祀り方をしていたのであろうか。それが、神社の場合とそれほどかけ離れたものでなかったとは、容易に想像できることである。(…)半島にあって、神社に相当するのは堂である。堂は、神社同様、各洞[トン](ほぼ村に相当する行政単位)にあって、洞民たちが洞の安寧や豊穣、豊漁を神に祈願するため、一年に何度か、共同して堂祭を行う場所である。
 堂の名は地域によって異なる。国師堂、山神堂、ソナン堂はほぼ全国的に分布するが、(…)村を見下ろす山の頂きに立地し、村を見まもり、守護してくれると考えられている堂で、中部地方では、山頂に国師堂、山腹に山神堂、村の入口にソナン堂と、三つの堂をセットにして祀っていることが多いという(金泰坤『洞神堂』)。
p.156-157

専門用語ばかり、というのは引用の後半を見てもらえれば分かると思います。
朝鮮の言葉はパッと見で意味がよく分からず、また日本の古い神様の名前(たとえば「能登の久麻加夫都阿良志比古[くまかぶとあらしひこ]神社」p.156)なんかも何度も読み返してやっと全体が把握できるくらいで、さらりと読み飛ばしたくなるところをじっくり眺めているといろいろ思い浮かぶこともあるのですがその興味深さはまた機会(というか根気)があれば書くとします。
引用したのは、日本では神社に相当する朝鮮の「堂」についての説明が続くところです。

そして本題へ…

 ソナン堂は、また城隍堂とも表記される。城隍[ソンハン]とは、城の池であり、池を掘った土を積み上げ、その上に神を祀って城の守護神とする、という中国の城隍神の信仰が高麗時代、朝鮮半島に入り、ソンハンとソナンの音が似ているところから、古来からあったソナン神信仰と習合したのだと説明されている。
(…)
 慶尚南道・北に多いコルメギ堂のコルメギとは、「コルすなわち谷、村であり、それにメギすなわち防禦、守護が複合したことば」(朴桂弘『韓国の村祭り』)であって、コルメギ城隍堂という言い方もする
p.159

ここでやっと本題で、ある世代の人にはキャッチーな話のはずなんですが、
この下線部を読んだ時に、僕はすぐ「ある街」を連想しました。


街といって実在する街ではなく、ゲームの中の話です。
DQ1(ドラゴンクエストⅠ)に「城塞都市メルキド」という街が出てきます
ゴーレム(というモンスター)が街を襲うので、ゴーレムから街を守るために頑丈な高い塀で街を囲ったために城塞都市と呼ばれています。
攻撃力がめっぽう強いのですが、ロトの勇者(主人公)はどこかの森で手に入れた妖精の笛(だったかな…)を奏でることでゴーレムを眠らせて倒すのです。

DQ1をやったのは発売日(だと思って調べたら発売年は僕が生まれた年でした…そんな訳ないですね)…ではなく、たぶん小学校低学年の頃だと思うんですが、やはり覚えているものですね。
さておき、「トーマス・マンとトマト・ソース」の話よりは難易度が低いと思いますが、DQ1をやった人ならまず連想するのではと思います。
何せアナグラム的にも近いし(3文字が共通)、意味なんてまさに一緒ですからね。
街の名前を考えたDQ1の開発者がここからもじったのでは、とすら思います。
(そういえば昔スーファミをやっていた頃から思っていたのは、ドラクエに出てくる言葉は日本語由来、FF(ファイナルファンタジー)は英語由来だということ。呪文がわかりやすいですが、DQならメラ・ギラ(炎系の攻撃呪文)←メラメラ、ギラギラ(擬音)、FFならファイア・ブリザド・サンダー(まんまです)、等々。朝鮮も日本に近いので本記事の連想もこれに符合します)


長くなっちゃいました。(3300字)
もともと書きたかった内容の10倍以上膨らんでますね。
久しぶりだから、ちょっと頑張っちゃいました。
オチはありません。ははは