human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

2日目(前):雨の軍勢、宇宙服的生活、自然な不自然 2017.3.2

 " Think of nothing things, think of wind. "

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 昨日は正面から入ってきた同じ門を右に出て、塀沿いに新たな道を進む。家が密に並んだ細い生活道が続く。雨はぽつりぽつりと降っている。色みはあるが分厚い雲で空は全く見えない。ザックは撥水だが防水ではない。バイク乗りが使う黒のザックカバーが別にある。トップのポケットに財布を入れているので雨の具合に敏感になる。下駄の防備も同様で、つま先から鼻緒をほぼすっぽり覆う「つめかけ」をいつ使おうかと待ち構える。今日の雨模様は知っていたので、昨日の夜にザックの中身を配置変えして、ザックカバーもつめかけも上の方にある。
 ぽつりぽつり、ぽつぽつ、ぽっぽっ、ぽぽ、ぽぽぽぽぽ……。
 雨雲は配下の落下傘師団を着々と送り込み、地上では立ったまま雨具を出す面倒さがぼくの中でしぼんできた頃、右手に神社が現れる。屋根つきで柱廊のような参道に石畳が整った矩形状に敷き詰められ、奥の祭壇の手前で4,5段ほどのコンクリートの階段がある。これはありがたい。参道に入り、階段にすわって荷を解き始める。初めての雨対応のために慣れない手つきで、時間がかかる。ごそごそとやっている間に何人か、さっきの道を遍路が通りすぎていく。昨日同じ寺に泊まった人だ。みんな出発前から準備済みなのだ。ぼくも当然そうするべきだったが、必要が生じるぎりぎりまで雨具をつけたくないと思って躊躇してしまったのだった。つめかけを装着して長いあいだ歩くと、小指がその合成皮革の内側とこすれて痛くなるのだ。だが実際に降ってくればそんなことは言っていられない。なんとかせねば。

 悪化すると思われた空模様は7番でお参りしている間に回復してくる。門からはじまって中の道も階段も建物も、やたらとごつごつした感じを与える。順路の石畳のまわりは砂利で敷き詰められている。敷地内に緑や土が少ない。それはすなわち「清められている」ということでもあるのだが、どうも居心地があまりよくない。
 毎年初詣に行っている大阪との府境近くにある京都の神社で、柵で囲われた一面が砂利の本殿の敷地内でかがんで何かを拾い上げている巫女たちを見たことがある。手にしたそれは落ち葉や木切れなどにも、周囲の砂利に対して不揃いな石ころのようにも見えた。敷地は森で囲まれていて、丈の高い広葉樹がすぐそばで旺盛に枝葉を茂らせているのだから、途方もないというか甲斐のない作業だと思っていた。でもあれはたぶん清めを意味する作務のひとつで、いったんその行為を甲斐がないという目で見てしまうと、神社の存在そのものに甲斐がないのだった。
 清めの行為やそれによって清められた空間というのは、不浄の手が伸びてくる可能性によって意味をもつ。家の掃除と同じで、ほこりが食器棚の上やフローリングのすみっこに溜まるから、はたきで落として掃除機をかける。食事のあとは、ご飯つぶや醤油でよごれたテーブルを水拭きする。いかなる汚れも存在せずまた生じ得ない家は、家事に追われて育児がお粗末な主婦が願わずにいられない理想の家かもしれない。でもそんな家はありっこないし、それに限りなく近い環境が実現できたとして、そんな無重力空間で宇宙服を着て生活しているような家族の子どもは、バラエティ豊富なアレルギ症状に日々悩まされることだろう。清められた空間に生気のなさや胡散臭さを感じるとすれば、それはその場所があまりにもきれいすぎるからではなくて、バーチャルリアリティ空間のように清めの過程がまったく想像できないからかもしれない。

 商店街ほどではないが、両脇のところどころに店が並び、その中には遍路用品店や民宿がある。この道から寺まではまだしばらくかかるが、どうやらこの道が寺へ通じる主要な道らしく、参道なのかもしれない。一度大きな車道を横切って道をさらに上って行くと、寺から下りてきた遍路のおじさんが立ち止まってこちらを見ている。
「ほお、珍しいので歩いてるね。ちょっと写真撮っていいかい? いい記念になる。顔は写らないようにするから、後ろ姿でいいよ。あと足もとのアップも一枚いいかな」
 こういうこともあるだろう、それも多々あるだろうと心積もりはしていたので、とくに疎ましいとも思わず相手の言うに任せる。話しかけられる機会が多いと、自分から話し掛けたり、こちらから積極的に話を始める意欲があまり起こらなくなる。話の流れにも悪い予感さえしなければ乗り続ける。話が弾めば話題に構わず盛り上げるし、おひらきの口上が述べられれば別れの挨拶で応える。相手に何かを求めてない以上はそれがもっとも自然なように思われる。ただ出会った人に好奇心旺盛にからんで行く人がその相手に何かを期待するからこそそうしていて、それが不自然であるというわけではない。自分の思う自然さが広く一般化できるとは思っていないし、みんながみんなそれが自然だということになればぼくもつまらなくなるに違いない。あるいはぼくが並々ならぬ興味を示して自ら関係を深めようとする人や物にこの先出会うかもしれない。それならそれで面白い。そういう事態が自然なかたちで起こることをぼくは望んでいる。つまり、身体に従って動けるようでありたい。この意志は、頭のほうからしてみれば、不自然なことだろうけれど。

(続く)

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