human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

「透明感」について

その宇宙的世界のイメージを語るなら、両手で親指と人差し指を立ててL字型を作り、それらを合わせることに依って長方形の窓を作り、星空に向けて覗いた時に感じる感覚である。輝く星がそこに入り込み、限りない奥行きを秘めた透明な世界が実感できる。ここでいう透明な世界とは、限りない奥行きがなければ感じられない世界である。というのも奥行きが深くなればなる程、透明度が増してくるとイメージ出来るからである
「第1章-[2] 空間的世界あるいは宇宙的世界の考察」p.44(矢萩喜従郎『平面 空間 身体』)

本の文脈からは離れるのですが、抜粋部を読んだ時に、人の性質を連想しました。
主にマンガで得た印象ですが、「透明感のある人」に憧れを持っています。
ここでいう「透明度」は人の性質にも当てはまるだろうか、と思ったのでした。
奥が深くて底を見通せない人を、透明度の高い人、と言うことがあるのでしょうか。


それは後回しにして、先に「透明感のある人」の僕のイメージを書いてみます。
例えば、いつも無茶をして危なげなく、また、ふといなくなってしまいそうな人。
例えば、どれだけ構っても手応えがなく、でもそれはその人の無関心のためではなく、
ひどく優しいが同時に儚げで、事情は分からないがとても遠くを見つめている人。

ある面において極めて一途なマンガの登場人物は、時にそのような透明感を帯びます。
小説でなくマンガと書くのは、透明のイメージが表情に出るからかもしれません。
実生活で顔を合わせる人で、そのように見える人はもちろんいません。
が、過去に出会った人で、思い返した時にそう感じる人は、いないことはない。

透明感、というイメージ自体が想像の領域のような気がします。
想像でないイメージなんてあるのか、と言われるとちょっと困りますが、
つまり多分(?)、透明感は「生身から遠い感覚」のことだからです。
だから、それをもし面と向かって(生身で)感じたとしたら、とてむ切ないはずです。


さて、話を戻しまして「透明度の高い人」の言い方ですが、ないような気がします。
大器で底知れないポテンシャルを秘めた人は、透明というには存在感があり過ぎる。
何を考えているか分からず、かつ影の薄い人の方が、透明という言葉に合う。
しかし、影が薄いとは、奥行きが「限りない」のではなく「薄い」ことではないか。

何においても表面をなぞるような薄っぺらい人間は、透明と言えるかもしれません。
いてもいなくても同じ、とまでは言わずとも、いなくなった余韻が全く残らない。
最初に書いた僕の「透明感のある人」のイメージはこれとは真逆で、
いつも気にかけてないと危なっかしいと心配してしまう、余韻(想像)の存在感がある。


抜粋部を読んだ時に、この「透明」の意味の不思議さは何だろうと思ったのでした。
ものすごく薄くて透明に見える一方、奥行きが見通せないほど深くて透明を感じる
存在感のない透明と、存在感のある透明、と分けて考えられるのでしょうか。
あるいは、二次元性の極限と、三次元性の極限、と捉えられるかもしれない。

後者に「透明」という言葉を使うのが、そもそも僕にとって新鮮でした。
空間を均一に満たす気体がある時、奥行きが深いほど光の透過率は下がります。
が、多分そうではなく、奥まで見えるということは気体の密度が低いのだ、と考える。
透明度もやはり主観的な感覚ではないでしょうか。


また、透明感は(意図を超えた)自然のイメージとも繋がっている気がします。
上で表情について少し触れましたが、無表情はひとつの透明のイメージです。
あるいは、コミュニケーションをする相手の表情の、その内容とのわずかなズレ。
そのズレが、自分をとてもちっぽけな存在に感じさせてしまうことがあります。

それは卑下ではなく、つまり同じ土俵には乗っておらず、なにか超越している。
それも、意図があろうがなかろうが、自然のイメージなのかもしれません。
脳化社会の自然とはその前者、意図が常人の理解を超えて透明化したものです。
真賀田四季は、ほんの一部の人間を除いて、透明な存在と言ってよいでしょう。

連想が意外な所に飛びました。次に読む予定の小説がGシリーズだからかな…。