human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

和歩実践一ヶ月目進捗報告

和歩を始めてひと月ちょっとが経ちました。(きっかけは長いですがこちら↓)

2時間も和歩で歩くと、毎週何かしら発見があります。
でも歩き方を考えながら歩く時間は減っていて、安定しつつある。
何かに気を取られた時にフォームが崩れるのも減ってきた。
ふらつきがない、という意味ではやはり西洋歩きよりこちらが安定する。

養老 今は茶道も肩の凝るものになってきたみたいですが、あれはもともと日本の日常生活から立ち上がってきたものですから、本来あの型は無理がないはずなんですよ。女房が言ってましたが、十九歳くらいの時にお手前をやっていて、後で気がついたんだけど、やっている間中の意識がないって。意識がないっていうことは、ほんと自然でできるっていうことですよね。本人が好きだっていうこともあるでしょうが。何かそういう意味で日本人の感覚にそのままぴったり合っているところがあるのかもしれない。
甲野 確かにより有効で効率が良い動きというのは、普通の動きのレベルでやりやすい動きとは異なることが多いですね。ですから研ぎ澄まして、より効率良くした動きを習う場合にそれを習う過程っていうのは、やりやすいっていうのとは違うんですよ
(…)最も効率のいい動きというのは安易に思いつく動きではなくて、その安易に思いつく動きを解体して最も無理がなく有効に使える方法というのをあらためて作り上げていかないと難しいと思うのです。
 そして、そういう動きの材料になるのが、今言った体を捻じらない、つまり歩く時に現代のように左手と右足がいっしょに前に出るような動きではない身体操作法です。
「第四章 一歩間合いをとって日本を見る」p.201-203(養老孟司甲野善紀『自分の頭と身体で考える』)

そういえば、というのでちょっと抜粋してみました。
手前味噌ですが、効率の良い動きが最初からそうとは限らない、とあります。
和歩の実践研究もこの言葉を頼りに、拙さを気にせず始められたようなものです。
だから最初は拙かった動きの質が良くなってくると、とても嬉しい。

もちろん僕の目指す歩き方が甲野氏の「より効率良く」に当てはまるかは分からない。
僕が考えているのは、全身を偏りなくバランス良く使って歩く方法を見出すことです。
それを追求する過程でいろいろ派生してくればそれはそれで面白い。
ただ「私の術技にスランプはない」と豪語する甲野氏と同じ気持ちでいたいとは思う。

つまり歩き方にしろ身体操作にしろ、変わり続けることができればいい。


話を戻しまして、とりあえず僕自身の認識として、和歩に慣れてきました。
まず前に書いた「ふともも歩き」は前傾姿勢による加速に応用できると気付きました。
つまり平地を「上り坂を上るように」歩くことで、姿勢の安定と加速が両立する。
これをやると太腿への負担は大きいですが、足が勝手に前に出るように歩ける。

次に、「ふともも歩き」も関係しますが、和歩の歩行スピードが上がりました。
これは外部の要請(と僕が認識したもの)によって推進されたようです。
土曜の徒歩コースは大体が閑静な住宅街か田んぼのそばでゆるゆる歩けます。
が、駅前の歩道は特に夕方・夜の人通りが多いので、スピードを要求されます。

とはいえ要求しているのは自分で、単に人の後ろを歩きたくないだけのことです。
ただその要求がとても強いので、外部の要請に昇華できるという話です(逆説多いな)。
それで和歩のスピードを上げると、身体のいろいろな部分に負担を感じるのです。
どこかの部位で力が葛藤(相殺?)している感じもあって、効率が良いとは思えない。

それでもまあ上の抜粋の話もあるので、しばらく実践を続けるつもりです。
力の葛藤がありながらスピードが上がっているのを、動きの質の変化と捉えておきます。
そして最初に書きたかったことですが、今日は特にスピードがのったらしく、
今まで経験したことのない部分の痛み(凝り)を帰ってきてから感じています。

どこかといえば、足の中指の付け根の、もう少し内側の部分が凝っています。
指も含めた足裏の平面を前後に二等分した時の、前半分の中心にあたる位置です。
地面を蹴る時に(踵を高めに上げて)指を使ったからかもしれません。
それをやると丹田が浮くと思って、和歩を始めたころはやっていなかったのでした。

ただ足指も地面を蹴るのに動員する歩き方は西洋歩きでは今まで散々やってきました。
それでも今回の部分が痛んだことはなかったので、他の部位との関連があるのでしょう。
該当部位の使い方が同じでも、別の部位の動きによって該当部位への負担が変わる。
「動きを限定すると研ぎ澄まされる」という甲野氏の言葉はその可能性を指しているはず。

このことは前にも書いた「買い物袋を両手に提げている時の和歩」にも感じます。
腕を振る自由がある場合よりもない方が、和歩の姿勢が安定する(丹田がブレない)。
これは西洋歩きで腕を振って歩く時に、腕とは別の部位が自覚なく連動していて、
その連動部分の動きを抑えることで和歩が安定した、と考えることもできます。

ちょっとオチが見当たりませんが、まあこんなところで。