human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

象徴は 小腸巡りて 昇華せむ

(…)理論構築は、贈与交換と、次に言うようなおそらく象徴的労働の全体との本源にある制度的に組織され保証されている誤認の可能性の諸条件を消滅させるのだ。その象徴的労働とは、利益にとらわれない交換という、本気で思い込んでいるフィクションによって、親族や隣人関係や労働が課してくる不可避で不可避的に利益を含んだ関係を選択的な互酬性の関係へと変換する方へと向かい、より深層においては、恣意的な(男による女の、長子による第二子の、年長者による若年者の)搾取関係を、自然において設立されるがゆえに耐久性をもつ関係に変形するのを目指す労働である。ところが、交換の機能を隠蔽するのに必要な労働は、交換機能を果たすのに要請される労働に比べても劣らぬ重要性をもって再生産労働に、つまり集団の存在のための経済的基礎の再生産と同程度に集団の存在には不可欠の確立した諸関係の再生産労働──祭り、儀式、贈与交換、訪問や礼儀、そして何よりも婚姻──に参入するのである。
「第一部 第七章 象徴資本」p.185-186(P・ブルデュ『実践感覚1』)

まず抜粋の後半ですが、3つの異なる次元の労働が並んでいます。
前半下線の「象徴的労働」は、この3つのうちの最初を指しています。
「誤認」は「フィクション」と対応し、価値判断を挟まない機能を指しています。
「理論構築」によって、「象徴的労働」は暴露され、その機能が消滅する、と。

今でこそ言えますが、実は消滅するのではなく、次元が繰り上がる。
まず象徴(幻想)なしに人間は意味を扱えないし、目的を持てない。
そして象徴は、その機能が明示化されない限りで象徴として機能する。
つまり象徴を明示化すると、新たに機能すべき象徴は次数が上がり後景に退く。

という見方はもしかすると楽観的かもしれなくて、別の言い方をすれば、
人間が象徴を手放す時とは、人間が人間でなくなる時でもある。
豊かさとは、人間が人間でなくとも生きていける状態なのかもしれない。
ただ、幸福感は幻想が集団で共有できてこその主観のはずなのだけど。

いくつ次元が繰り上がって複雑化しようが、象徴は追い続けるしかありません。
たぶん繰り上がりのイメージは「螺旋状」です。
全く別の所に向かうのではなく、雲をいくつか突き抜ければ見慣れた風景が広がる。
高度の増加分だけ俯瞰する量は増えるが、そこにはなぜか懐かしい感覚もある。

つまり、脳化の方向性によっては身体に辿り着ける(戻れる)ということです。