すり足感覚とハクセキレイのこと
和歩の話です。
最近はまたちょっと寒いですが、暖かくてだんだん薄着になってきました。
それに伴い、歩いている間の「鷹取の手」をあまりやらなくなりました。
ジャンパで隠れている間はよかったのですが、袖から出ると少し引け目を感じます。
ただ手の緊張があるとやはり和歩が引き締まるのは確かです。
それで、最近は親指だけ掌に折り込むようにしています。
ポイントは親指を折り込む時に、人差し指の付け根側面の肉を掌に寄せること。
こうすると残りの四指も自然と段階的に軽く曲がる(人差し指が一番曲がりが大きい)。
『バガボンド』で武蔵が右手で剣を振るう時の左手が、たしかこんな感じでした。
また、歩いている間に重心が上下しないことも意識しています。
足が地を蹴る時に重心が上がらないように、着地する時に重心が下がらないように。
そうすると、地を蹴る動きが跳ねる感じではなくなってきます。
また着地する時の足裏の角度が、だんだんと寝てきます(着地は踵からですが)。
これを意識すると歩幅は狭くなり、回転数(ストローク数?)が増えてきます。
なんだかすり足に近い動きのような気もします。
ふつうの靴だと靴底のクッションが効いていて、すり足はエネルギィロスが大きい。
硬ければそんなことはない、と思うのは裸足や下駄だと前足部から着地できるからです。
すり足といえば、最近内田樹氏のブログ記事で興味深い話がありました。
昔の日本人がすり足で歩いていたのは日本の気候に起因する、という説があるようです。
また「すり足が大地とのコミュニケーションである」という話には魅力を感じます。
ちょっと長いですが、関連部を抜粋します。
温帯モンスーンの湿潤な気候と生い茂る照葉樹林という豊穣で、宥和的な生態学的環境は、そこに住む人々にある種の身体運用の「傾向」を作り出しはしなかったであろうか。「すり足」は言い方を換えれば、足裏の感度を最大化して、地面とのゆるやかな、親しみ深い交流を享受する歩行法である。
(…)
能楽には「拍子を踏む」という動作がある。強く踏みならす場合もあるし、かたちだけで音を立てない場合もあるが、いずれにせよ「地の神霊への挨拶」であることに違いはない。(…)足拍子もまた、神社の拝殿で鈴を鳴らすのと同じく、地霊を呼び起こすための合図であったのだと思う。それは逆から言えば、足拍子を踏むとき以外、人間は地霊が目覚めぬように、静かに、音を立てず、振動を起こさぬように、滑るように地面を歩まねばならぬという身体運用上の「しばり」をも意味している。「すり足」とはこの地霊・地祇の住まいする大地との慎み深い交流を、かたちとして示したものではあるまいか。一歩進むごとに大地との親しみを味わい、自然の恵みへの感謝を告げ、ときには大地からの祝福を促すような歩き方を、日本列島の住民たちはその自然との固有なかかわり方の中で選択したのではあるまいか。
世阿弥の身体論 (内田樹の研究室)
この中の「静かに、音を立てず歩く」イメージは、今はだいぶ違うように思います。
「忍び足」といえば、泥棒だとか、卑屈な人間だとか、ネガティブな印象があります。
殊更音を立てて歩く(踵を引きずって鳴らす、とか)のはこの反動かもしれません。
ハイヒールにも似た印象を抱きますが、なんだか「地面に対抗している」ように思える。
ただそれは地面がアスファルトやコンクリートばかりだから、とも考えられます。
無機質で硬くて響かないコンクリートを裸足で歩くと「所在なさ」を感じると思います。
(単に水泳が苦手というだけかもですが、プールサイドをぺちぺち歩くのは嫌いでした)
足裏感覚が希薄で、地面の応答もなければ、音を鳴らして存在感をアピールしたくなる。
すり足ちっくな和歩は、たしかに足裏の抵抗という点では西洋歩きより希薄です。
芝生とか泥の上とかを裸足で歩けば、もしかすると気持よいのかもしれない。
とは、内田氏の記事を読んでの想像ですが、さておき、この点は気にしないことにします。
大雑把に書きますが、足裏だけでなく、身体の全体の動きを感じながら歩きたいです。
あと、これは半分妄想ですが、「動物が逃げない歩き方」も目指しています。
土曜は田んぼのそばを歩くので、スズメやハクセキレイと毎度のように出会います。
スズメに比べるとハクセキレイは敏感で、近づいたと思ったらすぐ遠くへ逃げます。
単に気配を消すのでない「平穏な歩き方」があるはず、と逃げられる度に思っています。
ちなみにハクセキレイ、という名はさっき調べて初めて知りました。
googleの画像検索はこういう時に便利ですね(「鳥 図鑑」で検索しました)。
いつも見ている姿形からたぶんこの鳥↓だと思うのですが…。
随分身軽な鳥で、羽ばたくと同時に「ピピッ」と鳴きます。guitarbird9arcs.naturum.ne.jp