human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

新しい仕事(0):本と自覚

仕事についてちゃんと考えておかなくてはと思い、その一方で直近にやる必要のあること(引っ越し準備など)が確定されてそちらに意識がとられていました。
やることが具体的なほど動きやすいけれど、抱えるタスクが具体的であるほど、それと同時に対面している抽象的な問題にはとっつきにくくなる

ここ何日か、引っ越し準備を少しずつ進めながら、それ以外の時間が「息抜き」というか、気が抜けた感じになっていました。
そんな時にturumuraさんの記事を読んで、頭が緊張状態を要求しているように思われたので、これを機会に考えるべきことを考えておこうと思いました。
タイトルの「イリイチ」に惹かれて読んでみて、自分がこれからしていきたいことに深く関わることが書いてありました。

kurahate22.hatenablog.com

新しい仕事の当面の主体は「機械設計」です。
大学時代の友人の助力を得ながら、個人事業として食べていけるようになることが第一目標。
このことについては別途詳しく書きます。
ここで考えたいのは、直接的にはその主体(設計業)と関わりのないこと。

自分がこれまでしてきた、あるいは考えてきたことを、自分の中で仕事に活かすだけでなく、可能ならばそのこと自体を仕事として取り組みたいという思いが、個人事業をする決意に伴ってはじめて生まれてきました。
それはたぶん、仕事の依頼者と「一人の人」として関わることになるから。
もちろん、人から依頼された仕事の内容をこなす、満たすことが求められる第一のことです。
でも、まだ想像の段階ではあれ明らかに思えるのは、組織の中で整然と分担された仕事を行う場合よりも、個人事業では人間性が問われる


「自分が好きなことを仕事にするな」とはよく言われます。
相手の依頼や要求があって始めて成立する仕事では、自分の好みを押し通すことが難しい。
自分の意に沿わない妥協が、自分の中で曲げられないこだわりと重なってしまうと、他者の期待に応える充実以上の苦しみが、時に生まれることになる。
僕が今書こうとしていることは、この格言に抵触するのかもしれません。
でも、しないのかもしれない。
…前置きばかりでは話が進みませんね。

「自分がこれまでしてきた、考えてきたこと」。
単語で言えば、それは本と、それから身体性。
どちらもかなり漠然としているのですが、まだましな方だと思える前者について書きます。


本は、自覚を目覚めさせます。
自覚することを知り、「スタート地点」に立つことができます。

物事の判断に際して、自分の頭で考え、納得したうえで行う。
いつもそういう進め方ができれば、理想的でしょう。
でももちろん、そうはいかない。
人一人の頭では到底追いつかないシステムが、現代社会を回しています。
自分の身の回りのことですら、そうです。
自覚とは、それを知ることです。

「自分の知らないことがたくさんあること」を知ること。
「自分の知らない多くのことによって自分の生活が成り立っていること」を知ること。
「自分の知らない多くのことのうちどれが自分が知るべきことか分からないこと」を知ること。
「知るべきことを知らないまま生活が回っている状態が好ましいかどうかも分からないこと」を知ること。

「自分の知らないこと」には果てがありません。
でも、それを知っていく。
物事を知り、考え方を知ることで、知っていく。
分かることが増えると、それ以上に、分からないことが増えていく。
これは、自覚に果てがないことと同じです。
自覚は安定状態を保ち得ない。
これでは十分ではない、という不安と渇望が、自覚を活性化させます。

上に張ったturumuraさんの記事、そしてその中から抜粋した以下は「人と人との出会い」について書かれていますが、僕は「人と本との出会い」についても同じことが言えるだろうと思います。

人が人たりうる状態が保たれるには、出来上がってしまったらまた過程の状態にもどすことを自分で気づいて自分で繰り返せることが必要だ。そうしないと腐る。

既知のもの(=利用対象になってしまったもの)になってしまった世界や他人との関係性が一新される事態が「出会い」であり、この「出会い」を繰り返すことによって人が人たる状態をもつことができる。

「本のことを仕事にする」。
正直言って、なにも具体的なことは想像していません。

司書講座の同期の人(卒業後、大阪の小学校で半年間臨時の学校司書をしていた)が、「一定予算で、依頼者の人となりに基づいて本を選定する」という書店員が実際に行っているビジネスがあることを教えてくれました。
おそらく、仕事や趣味やこれまで読んできた本など、読書に関係しそうなパーソナルな情報をアンケートに書いてもらったものをベースにして選書を行うのでしょう。
依頼者に、その人が読みたいと思うかもしれない、かつ選者が読んでほしいと思う本を渡すことができる、そしてそのことによって報酬が得られる。
うまく回れば、本好きな書店員には大きなやり甲斐が伴う仕事だと思います。
ただ同期の彼は、現実的なことも言っていました。
「自分(彼自身)の狭い趣味の範疇での選書だととてもビジネスにはならない。そもそも自分が読んだことのない本を薦めるわけにはいかないから、多様な依頼者の期待に応えるためには、自分が普段読みたいとは思わないような本を読まなくてはならない。そうは言っても、イヤイヤ読んだ本をオススメするのもあり得ない。単に本好きだからといって誰にでもできるビジネスではない」
これは、その通りだと思います。


自覚の話に戻ります。
人に自覚が芽生えることは、僕には希望になります。
ひとつは「非連帯的仲間意識」ともいえるものです。
そして、主体的に生きていく活力の源でもあります。

自分には何が足りないのか、何が必要なのか。
それを独自に探る人には、独特の生命力が宿ります

そういう人のそばにいると、自分の中の創造力が刺激されます。
あるいはそういう人がいると知っただけで、自分ももっと頑張りたいと思う。

これは、逆にもいえることです。
いや、むしろ「逆の経験の濃さ」が、僕に自覚への希望をつのらせた。
自覚を悉く喪失した人の傍らにいる、これは紛れもない「絶望」です


ちょうどさっき『三月のライオン(2)』(羽海野チカ)を読みましたが、
21話、安井六段との対局のあとの桐山零の叫びにグッときました。

零のように、何か(将棋)に「全てを懸けている」わけではない。
でも、こうも思う。
何もないからこそ、それに、その時に「全てが懸かって」いる。


 「生きたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「生きたい」と思う。
 「死にたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「死にたい」と思う。

前者はそう、でも後者はよくない、なんて言われそうだけれど、本来これは表裏一体のもの。
人として当たり前のこの感覚を、僕は殺さずに生きていければ、と思う。

今考えてみて、個人事業を始めることは僕自身、この点でとても前向きなことだと思えます。

 しかし、或いは遂に終りないかも知れぬ人類の前史にあっては、小さきものは常にこのような残酷を甘受せねばならぬ運命にさらされている。バラ色の歴史法則が何ら彼らが陥らねばならぬ残酷の運命を救うものではない以上、彼らにもし救いがあるのなら、それはただ彼らの主体における自覚のうちになければならぬ。願わくは、われわれがいかなる理不尽な抹殺の運命に襲われても、それの徹底的な否認、それとの休みの無い戦いによってその理不尽さを超えたいものだ。あの冬の夜の母娘のように死にたくはない。その思いは、今私が怠惰な自己を鞭うって何がしかの文章を書き連ねることの底にもつながっている。

「小さきものの死」p.13(渡辺京二『民衆という幻像』)

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3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)

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