human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

夢を見るために生きているのです/時間の死骸

だったか、

「朝、目を覚ますのは夢を見るためです」

という言い方だった気もしますが、
確か村上春樹がそんなことをエッセイに書いていました。
(本のタイトルだったかもしれません)

 × × ×

「不変は死である」という考え方にはもともと親しいのですが、
turumuraさんの下の記事を読んで、
様々な抽象レベルでの生と死が頭の中でごっちゃになりました。
kurahate22.hatenablog.com
タイトルもその混乱した頭が連想したのですが、
脳と身体の相反性が人間にはあって、
脳が不変性、自己同一性を志向する(昨日の自分は今日の自分とイコールである)ことが死への親和性を意味するとすれば身体活動全般を生とみなせます。

そのような関係における夢の位置付けを考える時、
夢の生成に関わるのが脳だけなのかは分かりませんが、夢を見る主体は脳だと思いますが、
夢は「脳が生を志向する(体現する)数少ない活動」とみなせる気がします。

脳の通常運転における「死のにおい」を脳自身が嗅ぎ取っている場合において、
夢は、身体のようでいて、かつ自分(脳のことです)の中で起こる神秘的な生の現象である、
と脳の目には映るのではないでしょうか。

 × × ×

この話に関連すると思ったのは、
過去に書いた「覚醒」についての文章です。

今読んでいる『ムーンパレス』(ポール・オースター)にはこんな場面があります。
盲目と思しき老人の横で、歩く街並の要素を逐一言葉にして「景色を立ち上げる」青年。
彼は老人の叱咤を浴びながら、聴き手の想像力を刺激する描写法を会得していきます。

表現手段や細微な出力の試行錯誤に没頭すると、当初の目的を忘れることがあります。
ふと気付けば、キャンバスはぐちゃぐちゃになっている、老人は拗ねてそっぽを向いている。
その「我に返る一瞬」の感覚には、カタルシスがあります。
失認していた目的が意識にせり上がり青ざめる、その前の一瞬です


それ自体決して目的にはできない「覚醒」が、集中の、ひいては生命の醍醐味でしょう

見つめる為に写生する(2011/9/24) - ユルい井戸コアラ鳩詣

最初に書いたようなことを考えながら抜粋部を読んでいると、
この「覚醒」が、連綿と広がる死の海原に一瞬きらめく生の質点に思えてきます。
「それ自体けっして目的にはできない」性質は、夢と同じく無意識の作用だからです。

抜粋元の最後に森博嗣氏のエッセイを引いていますが、
そこにある無心になること、没頭することも、夢のようなものでしょう。

 × × ×

先週金曜に読んでから書こうと思っていたことを時間がとれずにずっと溜めていたんですが、
ことの発端はもしかしてこれかもしれません。
以下に抜粋する部分を読んだ時に開口一番「これやりたい」と思いました。
(もちろん口を開けてなんかいませんが)

それを言うなら「状態の志向」になるのでしょうが、
意識してやる(そうある)ことではないことを知りつつも、
読んでいて奇妙に強度のある魅力を感じたのでした。
もちろん小説としても面白いのですが、おそらくそれとは異なる次元で、
自分の生活、価値観にグイグイと食い込んでくるのです。

 彼女は道端のベンチに腰をおろしてシャツのポケットから煙草を出して吸った。セイラムの青い箱は汗でくしゃっと柔らかくなっていた。いつもの鳥がいつもの複雑な音階で鳴いていた。
 アメはそのままずっと黙って煙草を吸っていた。もっとも実際に煙を吸ったのは二口か三口で、あとは全部彼女の指の間でただの灰になってぼろぼろと芝生の上に落ちた。それは僕に時間の死骸のようなものを想起させた。彼女の手の中で時間が次々に死んで焼かれて白い灰になっていくのだ。(…)彼女は半袖のダンガリ・シャツを着て(仕事をしている時彼女は大抵その同じシャツを着ていた、胸のポケットにボールペンとフェルト・ペンとライターと煙草を入れて)、サングラスをかけずに強い日差しの中に座っていた。彼女は眩しさも暑さもとくに気にならないようだった。たぶん暑いのだろうとは思う。その証拠に首筋を汗が幾筋か流れ、シャツのところどころに黒い染みができていた。でも感じないのだ。それが精神の集中のせいなのか、精神の拡散のせいなのか、僕には判断できなかった。でもとにかくそんな風にして十分が経った。

村上春樹ダンス・ダンス・ダンス(下)』


本記事にぱらぱらと書いたことは全て繋がっているのですが、
敢えてまとめないでおきます。


ただ(という繫ぎ方に意味はありません)最後まで書いてみて、
アメはやはり雨なのだなあ」
と思いました。
アメの娘はユキというのですが、ユキもやはり雪なのですね。
金田一蓮十郎の『ジャングルはいつもハレのちグゥ』)を思い起こすネーミングですが、
 こちらのマンガの方が新しいですね。小説が出たのは88年。僕とあんまり変わらない…)

元夫の牧村拓は母子のことを「天気予報じゃないんだから」と言っていましたが、
この認識は半分当たっており(彼女らはまさに天気のようなものだからです)、
そして半分外れています(しかし予報という概念で捉えることはできない)。

ハルキ本(小説、エッセイ)の中で恐らく『ダンス・ダンス・ダンス』が最も、
「雪かき仕事」という表現の登場頻度が高いのですが、
本書の主人公(ユキいわく「変な名前」らしいです)は、
彼の仕事においてだけでなく、
この小説全体を通して「雪かき仕事」に精を出しているのだと気付きました。
(この「雪かき仕事」にもバリエーションがいろいろあって、
 その中の「官能的雪かき」なんかはまさに言葉通りですね)

楽しい雪かき。
かっこう。