human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

SIM、不戦派日記、徒党社会の多様性

脳内BGMという表現がごわごわしているので略語を考える。
Back Ground Musicの目的をそのまま持つが、性質をその略語に取り入れる。
たとえばSynaptic Imaginative Music、SIM。
実体すなわち波動性を有さず、頭中を走る電気信号によって奏でられる。
虚数は実数空間に存在しないが、仮想的な数として数学に大きな実りを与える。
実体を持たない数、Imaginary Number。

 × × ×

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読み始める。
橋本治氏が時評でとりあげていた。文庫版の解説も氏による。

SIMは村松健「Blue」から"Komorebi"。
音数が少ないのでSIMとしての再生難度は高い。
無秩序の常で、他の曲が混ざってくるからだ。
SIMの無秩序はIではなくSに起因する。
Sの無秩序性はその大元の秩序性をカオス化する量的膨大性に起因する。
量が質に転化する一例。元は量だと言っても始まらない。
科学はそれを始めたのだが。

昭和20年1月分を読む。
B29の来襲時間が日課のように記される。そういう日常。
文語体のリズムがよく、ときどき一節を朗読する。

アダムとイブ、創世記の状景が挿入されている。
生む、産むことをもって生物の目的は達成される、が。
挿話の末尾に、一度全てゼロにすべし、とある。
戦中の、24歳にして老い医学生

 ○すべてを破壊すること、習慣、教育等有形無形のものを醸し出す幻の衣をいちどひっぺがして、「ほんとうのもの」を眺めること。
 何だかルソーみたいなれど、一ぺん全部洗い落したい。 p.36

 而してこのごろ他と情に於て交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。たいていのこと、見ざるまね、聞かざるまね、知らざるまねして通すに、習い性となり、偽次第に真となりて、ようやく老耄の気をおぼゆ。二十四歳にして耄碌せりといわば、人大いに笑うべし。 p.39

空に轟く航空機の音に、これまでにない空白を抱えて、耳を澄ます。

 × × ×

同じく『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)を読み始める。
SIMは村松健の"The Tennessee Waltz"。

「己の振る舞いが、他人がみな自分のように振る舞って支障のないものかどうか」
行動指針のひとつとして、利己主義を戒めるためのこの考え方を採っている。
世界への影響がその現状も含めて知りうる情報横溢時代には自己破綻を免れない思想。
読んでいて、日本の平和主義と、この考え方との関係に頭が混乱する。

 平和主義は多様性を認めるものである。
 憲法9条は平和主義には足りず、反軍国主義である。
 平和主義は武力を用いず、たとえば文化、教育、経済面で紛争を解決すべく介入する。
 反軍国主義は武力を用いない意思のみ掲げて、紛争解決への積極性を含まない。
加藤氏の主張を自分はそのように読んだ。
また別のところにはこうある。
 日本には徒党があって社会がない。
 ルソーのいう社会内社会の特殊意志のみがあり、一般意志がない。
自分の中で論理が錯綜している。
よじれて絡み合いダマになった思考をここでほどこうと試みてみる。


日本の平和主義は、それが徒党社会であることによって多様性を認めない。
成員のみなが「争いのない平和な社会を望む」と願う。
世界中の人々がそう願えば世界平和が実現すると思う。
おなじその成員は、そう願わないものを仲間とみなさない。消極的に排除する。
これはどういうことか。
一つ、日本の外にも平和は実現してほしいが、あくまで他人事である。
穿って考えれば、実現してほしいのは、それが情報として日本に入ってくるが由。

憲法9条が日本の徒党性を反映しているかは分からない。
それでも、今の日本が「憲法9条を世界遺産に」と思うのは筋違いだと感じる。
相手はきっと、世界中が日本人のように振る舞えば世界は平和だ、という押しつけと見る。


利己主義の戒めと多様性の容認は、どう関係するのか。
双方を十分には満たせない、トレードオフなのか。
スケールが大き過ぎて、同列に考えられるものかの判断がつかない。
日本人にとって、多様性という言葉から日本文化の外部を連想するのが難しい。
それだけ日常から遠いということ。情報としてはいくらでも入ってくるにしても。

上記「不戦派日記」の引用と共鳴した部分を引用しておく。
この引用文の全体は2009年に書かれたもの。

 いま、われわれは何をどのように考えるべきか。ここで冒頭の第一の問いに接続するのですが、非「文学」的に事柄に処し、また、根本的に、ゼロの地点から、物事を考え直す。そういうことだけが、いまある閉塞した状況から、われわれの思考と語り口を「再生」させると、僕は考えています。 p.x(はじめに)

政治的にはそう。
僕は個人レベルでは"「文学」的に事柄に処す"ことが大事に思う。
想像力の尊重という面で。
そしてこれは個人からしか始まらない。


タイトルをつけてから思う。
「徒党社会の多様性」の容認は現状、無関心によってしか実現されていない。
そこに徒党性を変える意志は微塵もない。
では積極的に多様性を認めるとはどうすることか。ことに日本において。
難しい。