human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

一億総「ナカタさん」説

4ヶ月くらい前から再読している『海辺のカフカ』(村上春樹)がまだ読中で、そんな中久しぶりに自分が昔書いた書評もどきを読んでいて閃いたのでその内容をタイトルに込めました。

カフカを読みながら「今の僕ってナカタさんみたいだなあ」と思っていたんですが、そうか、僕だけのことでもないのかな、と。

日本文化っていうのは、自分の中には自分がなくて、自分を探したかったら自分の周りの風景にさわれっていう、初めっからアイデンティティーなんてものを無視してる文化なんですね。言ってみれば、自分という”肉体”はなくて、”自分”を知りたかったら、感じたかったら、自分にふさわしい“衣装”をまとえという、そういう文化ですね。
 自分というものは平気で”空洞”になってるから楽だけど、でも探そうとするとどこにもないから苦しい──日本が”伝統的日本”を捨てて”西洋近代”っていうのを求めたのは、この後者”自分が見つからなくて苦しい”からの脱却をはかりたかったからですね。

橋本治『風雅の虎の巻』p.152-153

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あとついでに思いついたのは、いま朝食時にちびちび読んでいる『緑の資本論』(中沢新一)所収の「モノとの同盟」の中に、容れものとしてのモノにタマシヒが(外から)入って充実してきてカヒ(貝?殻のことですかね)を破って出てくるのがモノ(=よきもの)であったりモノノケ(=あしきもの)だったりするという話があって(←すいません相当うろおぼえです)、日本人の頭というか思考の源は容れものとしてのモノなのかな、とか。

歴史を重く見れば日本人は「身体が主で頭が従」の方が向いていて、頭をその実現のために回すのが健全なのかなと思いました。