human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ほしくず飲料、北斗七傷、講義前週おぼえがき

 
透明であることは、透明になることよりも、ずっとありふれている。

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 × × ×

 昨日はおぼえたての「両肩のヒンジを使って両腕をのばしたまま上のホールドをつかむ方法」(これを天秤動作*1とよぶことにします。天秤とは、僕の小学校時は理科実験ですでに上皿天秤を使っていましたがあれではなく、エジプトの絵文字にあるような棒の両端に糸を吊り下げる初期のタイプのものです。棒の両端を肩関節、重力に従って下に垂れる糸を腕にたとえます。分銅と測定物の重さに応じて棒の両端はそれぞれ上下どちらかに振れますが、糸はずっと張っています。このような理想的な、すなわち腕を全く曲げない動きだとリーチ(=両肩間距離の正弦)が短いので、ホールドを支える側の腕はいくらか曲げないと実際使えませんが、力のかけ方として天秤動作をメイン、腕の曲げつまり腕力をサブにすることで、腕への負担を減らせます。昨日はやりすぎて今は肩が張ってますが、クライミング中の消耗を考えると腕より肩の方が(筋肉の大きさに比例して)もちがいいようです)が、動きが若干窮屈と思いながらも1コース登りきったあとの腕の疲労が全然軽減されていて、それが嬉しくて前傾壁の6級コース(みなさんウォーミングアップやフォーム確認がてらに使う)を間をあけて3回も登り、そのうちの1回で左手の甲をコース上の関係ないホールドにぶつけて軽くえぐれました。天秤動作は局所的な負担がかからない反面(という言い方は不慣れな間だけでしょうが…)、ホールドから遠い位置にパワー源があるというか、力点と作用点が遠いというのか、それに頼り過ぎると手の移動位置にブレが生じやすいようです。腕を曲げないことを意識しすぎてホールドを取り損ねたり別のホールドにぶつけたりしないよう、腕と肩の使い方にバランスが求められます。

 あるいは何日か前のことですが、マウントというムーブ(ボルダリングでいう技の名前)をやる時に、体を壁にくっつけるようにしないと大きなフットホールドやハリボテ(自然岩の出っぱりを模したような大きな構造物)に乗り切れずに落ちてしまうので、踏ん張る方の足の乗せ方とか胴体を壁に寄せるための手の突っぱり方なんかに神経を集中してえいやと飛び乗るわけですが、そうすると乗せない方の足の指先を思い切り壁にぶち当てたり、膝やらすねやらをどこかにぶつけたりして、打ち身やすり傷ができます。しかも大体はムーブに集中していてそのことに気付かない(家に帰って風呂に入った時に傷口が染みて初めて気付く)ので、難しいコースでなおかつそれがこなせそうなコースだったりすると、傷は量産されることになります。実際、されています。右足で乗り込む時に左足親指を勢いよく壁に打ちつけるのがなかなかなおらないんですが(足首をぴっとのばして指の先端ではなく甲側が壁に向かうようにすればいいのでしょうが、どうもなかなか、そこまで神経がまわりません)、クライミングシューズは安全靴のようにある程度つま先が硬いので、現に当てている激しさを思えば怪我は浅いです。膝とその上下周辺のすり傷はなぜか右脚ばかりで(軸足が左足であることが多いからかな?大きく動かす時や勢いをつけて振り出す足は右足の方が頻度が高いのかもしれないし、そういうコース(右方向に展開していくようなコース)しか登れていないのかもしれない。ストレッチをしていても右脚の方が可動域が広いのが分かるし…あんまり左右差が大きくならないように左脚も使いたいものです)、打ち身は少なくほとんどがすり傷なのはまだましというかセンスのなさを示しているわけではないようには思いますが、そして同じ箇所に重ねて(=前の傷が残っている上から再度)当てていることもないのもなんだか良い兆候だという考え方もできますが(すなわち「同じ失敗を繰り返してはいない」ということ。取り組むコースを数回やってダメだったらすぐ変えているのもその理由のひとつですが、それは飽きっぽいからではなく、身体のある特定の部分に負担を蓄積させないためです。自分の腕力と手指の力のなさは、なにかしら別のスポーツをやっていたり肉体労働で身体の基礎が出来上がっていると思われる方々と比べて意識せざるを得ないと休憩中にまわりを見ていて思うんですが、体力がないだけにコースをこまめに変えてまんべんなく身体を疲労させていけるのは利点かもしれません。短期的な上達を目指す、たとえばクリアできるコースを一日に1つか2つ増やしていくというようなやり方ではなく、ちょっとずつ身体がボルダリング向けに上手く機能するようになっていって、日をまたいで何度も取り組んでいたコースがある日ひょこっとできるようになる、毎朝の漢字テストよりは日々の走り込みに近い*2「結果があとからついてくるコツコツ積み重ね型」が、頭でそれがいいと考えるより前に身体がそちらに無理なく適応しやすい、心地良いのです)、そうやってお互いに少しすきまをあけてコツコツと、まるでそれが目的であるかのように仲間を増やしていくすり傷たちが、夜空の星々に喩えられるほど詩的でありませんが、即物的配置として北斗七星を形成しつつあります。今の時点で「王手」ですが、もちろんすり傷を狙った箇所につけるなんて至難の業だし、だいたい技でもなければたぶん三重くらいに倒錯した発想であって、こんなつまらないことが登っている間に頭に上ってくることはありませんが、大けがのもとなので面白がるのは今だけにしておきます。


怪我のたえない日々ですが、おそらく頻度より程度の方が重要で、無理をすると軽傷が軽いものではなくなってくるはずなので、一日の練習時間にしても、ジムに行く日の間隔にしても、無理のないようにしているし、このペースを講習(開講はもう来週なんですね…)が始まってからも崩さないようにしたいです。司書講習は日曜休みでたしか9-16時なので、平日にもジムに行けるなら夕方からになります(ジムは22時までやっています)が、登った翌日の起床時がちとつらいので、夕方に行く時は最初は加減するようにしましょう。一日二食で朝を7時に食べるなら夜は遅くとも19時には食べたいので、行く日はジムで2時間弱動いてから、帰りにどこかに寄って夕食をとるといいかもしれません。講義尽くしの日々にはむしろ身体を動かす時間を意識的に間にはさむ方が身体が健全なリズムを刻めるはずなので、講義外の勉強も大事ですがなるべく両立させようと思います。

うん、講義にもまじめにとりくみますが、生活にもまじめにとりくみます。
思えばこういうことをできるだけの時間が有り余るほどあったはずの学生時代には、こんな発想は全くありませんでした。
なんとなくですが、サークルに入ってなくて、かつその頃に村上春樹の小説なり翻訳なりを日常的に読んでいれば*3、そういうことになっていたのかもしれません。
良いか悪いか、ではなくて。
 

*1:この動画の2:25くらいの動きがとてもわかりやすいです。

*2:学校の授業で喩えをしばらく考えたんですが、どうしても一方が学問型で他方が実技型になりますね。考えてみればあたりまえのことかもしれません。ということは、話はだいぶ飛躍しますが、あるコースが登れるようになる云々とは「便宜的なものにすぎない」ということにもなります。スポーツとしても、そうでなくとも、その「便宜的なもの」は重要ではありますが、それが目的というよりは、それは手段なのですね。いや、それを目的とすることで「スポーツ化」するのか。スポータイゼーション。…調べると、あるんですね、こんな言葉。→ Sportization - Oxford Reference

*3:内田樹氏の文章を、その文体が身体に染み込むまで読み続けてはじめて「このような意味」で村上春樹を読むようになったのですが。