human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

元同僚と会う、魚心の第二十四歩

今日は北大路ビブレで元の会社の同期Iくんと食事してきました。
京都で知人とまともに話をするのは初めてですね*1
そのこと自体はどうということもなくなってしまいましたが。

辞めた者同士が別天地で再会するというのもなかなかなものです。
本当は僕が京都に来る前に連絡していて、引っ越し後落ち着いたら会うつもりだったんですが、ちょうど子どもが生まれたということだったので彼が落ち着いてからの今日となったのでした。

まず元気そうで何よりでした。
自分にとって興味深い話(奥さんが大学の時に四国遍路をまわったこと、彼の東北旅行や長崎、小倉(福岡)、弘前の話など)もたくさん聞けました。
この冬に北海道(か東北)に行ってみるよ、という話もしたのでした。

またご飯食べにいきましょう。

 × × ×

今日も高野川へ。

最近は歩き始めにあった鼻緒の締め付けによる痛みがほとんどなくなりました。
鼻緒の締め具合を微調整することもしなくてよくなり、このあたりは安定してきた感があります。


今日はだいたい空を見ながら歩いていました。


歩いている間は何も考えないのがいいのではと今日思いました。
修行なのでフィードバックが必要な部分もありますが、反省や分析は少なくとも歩いている間はしなくてもいいのではないか。
反省や分析の材料が生じれば(「材料が生じる」なんて言い方するのは初めてですね)、それは脇に寄せておいて歩き終わってから再び手に取ればよい。
(実際の遍路の)道中でいろいろと考えることがきっとあるにしても、それは歩いている時以外の時間のことで、というかそうである方がよいのではないか。
「ただ歩く」あるいは「歩かざるを得ないから歩く」というのはそういうことではないのか。
歩きながら考えることはもはや当たり前のこととして僕の中で定着はしているし、じっとしている時よりもある意味で健全な思考ができていることも間違いはなく、それはそれで「生活の中で歩くこと」として相応の意味があるとは思います。
でもそれは「ただ歩く」とは異なる歩き方である。

今日も昨日思いついた歩き方のシフトをやってみて「なかなかいいかも」と思ったりしたんですが、後半の下りの途中で、眠くなるというか「眠くなってもいいかも」と思いました
靴で歩く時はけっこう当たり前にしていて、最近一本歯で歩く時も安全を確認してから時々やるんですが、目を瞑りながら歩く経験はわりと長くあるのですが、その目の瞑り方というのが、精神統一の時のそれというのか、力の入ったというか「若干眉間に皺が寄る感じ」なのですね。
「眠くなっていいかも」と書いたのは、こういうのではなく「脱力に伴って目が閉じられる」あるいは「脱力を誘うように目を閉じる」というようなもので、もちろん本格的な脱力だと困るんですが局所的な力みを緩めるような効果がその目の閉じることにはあるようだと感じました。
このことのさわりをさっき(というのはプールで泳いでからシャワーを浴びている間ですが)考えた時に連想したのが『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』という保坂和志氏のエッセイの謎めいたタイトルで、前に似たようなことを書いた記憶があるんですがたぶんちょっと違っていて、魚は水の中で泳ぐ時と同じ姿勢で寝られるわけですが、これを思った時に「目指すべきは魚だ!」と直感しました

 「魚心あれば歩心」

でどうでしょうか。
「歩」は「かち」と読みます。

魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない

魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない

*1:そういえば先月あたりには大阪で大学院の研究室仲間(ゴウ君)の家に遊びに行ったのでした。長男、長女と会うのは初めてで、元気いっぱい高感度のレオくんも貫禄たっぷり志村喬似のルリちゃんも良い子でした。ちなみに志村喬は『七人の侍』(黒澤明)で野武士から村を守る侍集団のリーダ役をやった人です。きっと大物になるよ。女の子だけど。