見えない雨と言葉、シルクハットと記憶
「見なさい、晴れているのに傘をさした男がいます」
探偵の視線の先を追うと、確かにそのとおり、蝙蝠傘を開いた髭の男が、悠然としてこちらに向かって歩いてくるのが見えた。何やらオレンジ色の包み紙を小脇に抱え、よく見れば、全身が雨に打たれたかのように、たっぷり水をしたたらせている。
「私は詩人です」
(…)
そう言いながらも、詩人はみるみる雨に染まってゆく。それでいて降っている雨そのものはどこにも見えない。不思議な光景であった。そもそも本日は晴天なのである。
「分からない」
探偵は不満げにそうつぶやき、眉間に皺を寄せたまま怖い顔をしていた。
「あなたには、あなたに降りそそいでいる、その雨が見えているのでしょうか?」
「むろん、見えています」
詩人は、すでにずぶ濡れになりつつあった。
「9 いま、ここにだけ降る雨」(クラフト・エヴィング商會『クラウド・コレクター[手帖版]』
傘をさした男の上からだけ、雨が降っている。
その雨は、他の人には見えない。
この場面から光景を思い浮かべようとして、
そのような光景があまりにはっきり想像できたことを不思議に思い、
それからそれが連想であることに気付きました。
それは、寝しなに時々ぽつぽつと読み継いで数ヶ月以上、
ようやく終盤にさしかかった『海図と航海日誌』(池澤夏樹)の表紙の写真です。
傘を差した男が、あいた手で本を開いて持っている。
正装でシルクハットを被り、俯き気味で思索的に佇んでいる。
本が傘の下から外れているのが気にかかる。
僕は初めてこの写真を見た時に、「本が濡れてしまう」と思ったのでした。
男はそんなことは気にかけないのか、敢えてそうしているのか、
どちらにせよ男が本を支える左手には、強い意志が感じられます。
傘の下で時間が停止した全身をよそに、深い思索の奔流がその手から放たれているように。
そしてしばらく経って、上に抜粋した詩人のことを思い返す場面を読んだ時に、
その写真とは別の光景がちらりと頭をよぎりました。
前に似たような光景を見た覚えがある、と。
本の表紙が思い浮かび、著者に次いで書名が浮かび、そして本をしまった場所が浮かび、
台所のシンク下の棚(ざるやフライパンと一緒に本を詰め込んでいます)にその本を見つけました。
『「聴く」ことの力』(鷲田清一)の表紙にも、正装にシルクハットの男が立っています。
表紙をめくると、この写真は植田正治という人のものだとありました。
(カバー写真:植田正治「風船を持った自画像」1948年頃)
たしかこの本にはこの人の写真が多く載せられていたはずだと思い、
ぱらぱらと写真を辿りながらめくっていると、池澤氏の本の表紙と同じ写真もありました。
(植田正治「本を持つボク」1949年頃)
鷲田氏のこの本を読んだのは読書記録によれば4年前でしたが、
こうして過去の記憶が浮かび上がってくる経験は奇妙なものです。
時計的時間とは違う、もちろん身体的時間とも違う時間が、不意に流れ始めます。
それは主に、記憶の作用によるものと思われます。
物理学では時間が様々な現象を表す関数の変数として出てきますが、
(もちろんこの時間は「時計的時間」です)
人間においては記憶が、時間という現象を表す変数であるといえます。
『クラウド・コレクター』には、記憶と言葉にまつわる不思議なエピソードが綴られています。