human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「静的想像力」の涵養について

まえおき

昔、テレビで「炎のチャレンジャー」という番組があった。

たしかウッチャンナンチャンが司会で、番組が設定した課題をクリアして100万円を手に入れるための参加者の奮闘を眺めるという番組。
その課題の内容が、「電流イライラ棒」(一本道の迷路みたいに金属のフレームでうねうねと組まれたコースを、フレームに触れないように金属棒を通して進めていくゲーム)とか「ファイヤードッヂボール」(チームで参加し、番組が参集した強豪チームと対戦する)とか、子ども心に「俺もやってやる!」と思わせる挑戦的(挑発的ではなくて、挑戦心をかき立てる、という意味)なものが多かった。
(僕自身がドッヂボールにハマっていた時期にやっていたから記憶に残っているはずで、そうすると90年代後半くらいにやっていたのかな? 火曜の19時か20時から、という番組開始時間も覚えています。テレビを下宿部屋に置かなかった大学生まではかなりのテレビっ子でした)

その番組が終ったあとに、同じ枠に「しあわせ家族計画」という同趣旨の番組が始まったのだけど、これは基本的に子どものいる家族のお父さん(一家で参加する場合もあった)が家族のために課題に挑戦するもので、課題をクリアしたら数百万円相当の(家族の各々が希望した)景品がもらえた。
そしてこの番組の課題は、「48時間(72だったかな?)寝ずに意識を保つ」とか「家族で2時間の間食べ続けて20kg太る」とか、今思えばだけど挑戦者の奮闘の姿が前回よりもグロテスクになるようなものになっていた。
(いや、もっと和ましい課題もあったかもしれない。「1週間で一輪車をマスター(50mコース走破)する」とか。でもその課題挑戦期間中の家庭の暮らしが撮影されていて、母や子が「お父さん頑張れ!」と応援して父が睡眠時間を削ったり仕事の合間に練習に励んだりするシーンが放映されたのだけど、これも賞品を前回の即物的な現金から家族希望の景品に変えたように、個人の欲望に家族の物語という微笑ましさを噛ませたものであって、一般家庭が家族で眺める番組としては当事者としてイメージしやすく話題性に事欠かないとは思うが本質が覆い隠されている点で、正気で見るには、例えば独りで見るには堪えない番組であったように思う)

ところで、この次回作の番組の「48時間意識を保つ」という課題に取り組むコーナ(友人同士か家族かの何組かの参加者が合宿所に泊まり込んで挑戦していた)は今もその状景が思い出せるくらいは記憶にあって、ペアの参加者が寝ないようにひたすら会話を続けるが力尽きて落ちてしまうシーンを見て小学生の僕は「えー、俺やったらこれくらい簡単やで」と思ったことも記憶している。

ほんだい

その当時小学生の僕の感想をついさっき思い出したのだけど、それは建築設計のコンセプトブックというか写真集(この記事の最後の写真にあるLANDSCAPE ARTという洋書)を食事中に眺めていて、この本にはスタイリッシュでモダーンな家や庭の写真が沢山載っているのだけど、こういう写真集は想像の源泉という意味で自分の糧になると思っていて、例えば小説や旅行記にある風景の描写に対してパーツを組合せて想像する時のそのパーツになるということで、まあそういうことはありうる(=実際に運用上の効果がありうる)と思いつつでもこれは写真集を眺めているその時の楽しみではないのではないか。

いや、旅行していて景色を眺める時に頭では「ふーん」と思う以上のことがないのと同じことかもしれないが、風景をその場で眺めるのと写真で眺めるのとで決定的に違うことがある。
それは現場の方の肩を持って言えば臨場感ということだが、逆から見れば、写真の臨場感のなさは想像力をよりかき立てる(あるいは別種の想像力を賦活する、と言えばよいか)、ともいえる。
(あ、これはドラマや映画と小説の違いとしても言えるんではないかな?)

その「別種の想像力」の発揮をさっき写真集を眺めながら意識をして、今まで同じことを意識した時は「写真の風景に入り込めてない」とか「気が散っている」とかマイナスの評価をしていたのだけど、さっきはそれと違って「これは現場でなく写真で見ることならではの効果かもしれない」というプラス評価をしたのだった。

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たとえば廊下に面して引き戸の入口の部屋が並んだ左上の写真を眺めながら、一昨年の真鶴旅行で泊まった宿の2階の廊下*1を思い出したり、高校の修学旅行で泊まった北海道のホテル*2の廊下を思い出したり、右上の広々とした浴室の写真を見て高校時代の男友達の実家に「集団お泊まり」した時に借りた浴室*3を思い出したり、というのが「別種の想像力」の例なんですが…そのまま書き出すとなんとも陳腐ですね。

なんだろう、そのまま言葉にすると別物になってしまった。


もともと書こうとしたことに対する考察はなかったのだけど、今考えると、上で書いたことを
 現場での想像 = 動的想像
 写真での想像 = 静的想像
と分類してみると、本を書いたり読んだりする時に発揮する想像力は基本的に後者のはずで*4、後者はつまり自分の目の前にないものに対して働かせる想像で、読書世界に没頭するには静的想像力を鍛えねばならない。
もちろん静的であれ動的であれ、想像の源泉としては視覚情報オンリーの写真より五感を導入した現場の体験の方が質量ともに高いはずだが、色々なことを見聞きしてきた人が必ず読書人であるとは限らない(「百聞は一見にしかず」を地でいく旅人の中には本を嫌う人もいるだろう)。

今回の考察では動的想像の内実が不明だけれどそれはさておき、読書を充実させようとする場合に、現場の場数を踏むことだけでなく、静的想像力の涵養も同時に重要となってくるはずで、僕が写真集を眺めるのは静的想像の糧を得るだけでなく実際的な静的想像力の涵養にも繋がっている(喩えていえば、足し算やかけ算の単純な基礎問題だけでなく文章問題も解いている感じか)、というのが上に書いた「プラス評価」の意味かもしれない。

*1:廊下自体はカーペットで部屋は和室のワンルームで、引き戸はなんと襖でした。ご愛嬌レベルの鍵はついてましたが。

*2:ありきたりですが女子の部屋に忍び込んだり、なぜかそこで花札をやったり。でもそこで遊んだメンバが吹奏楽部員だったような…クラブの合宿の記憶と混ざってるかな?

*3:写真と同じようにとは言わずとも広い浴室で、浴槽のジャグジーにとても驚いた記憶がある。

*4:もちろん例外はある。『夢使い - レンタルチャイルドの新二都物語』(島田雅彦)は著者いわく「ニューヨークを歩きながら書いた」らしい。比喩かもしれないけど、僕は高橋源一郎氏が書評でそう書いてあるのを読んで、首から吊るした画板に400字詰めの原稿用紙を貼り付けて本当にニューヨークを歩きながらこりこり書いている島田氏を想像した。