human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「視野の広い必然」について(前)

勝負を度外視するわけではないですけれど、自分の納得できる将棋を指せたときには、たとえ負けても満足できるんです。私の将棋の理想は、一局の将棋が初手から終わりの一手まで、一本の線のようになっていることなんです。この手を指されたら次の手はこうなる。そこには自然の流れと理論的な必然性があって、本来つながっている一本の線があるはずで、その一本の線を極力見つけたいと思ってやっています
「もう一人の自分に判断を委ねる」p.116


棋譜にしても、毎月増えていきますからとても全部見ていくわけにはいきませんから、どれを見るかが大事になる。さらにいうなら、山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が重要なことだろうと思います。実際の対局でも、この局面でどの手を指すかは、いくつかの手の中から選んでいるのではなく、この手はありえない、この駒を動かすこともありえないと、瞬間的に消していっているようなところがありますね。ですから、手は浮かぶものではなくて、どんどん消していった後に残ったものなんですね、きっと
「情報は『選ぶ』より『いかに捨てるか』」p.124


羽生善治『簡単に、単純に考える』PHP文庫

本書は対談集で、抜粋した章は羽生氏と平尾誠二氏との対談です。

僕はあまり自己啓発本は買いませんが、理由の一つの帯の仰々しさがあります。
書いてあることはまともなはずですが、エッセンスだけ取り出すと虚ろに見える。
それが本の中身まで決め言葉で埋め尽くされていたりすると、もうどうしようもない。
大事なことは分野に限らず殆ど違わないはずで、それが出てくる背景をこそ知りたい。

その背景とは、例えば著者の専門に即した経験知です。
エッセンスの深みは「エッセンスが経験知から取り出される過程」にあります。
漠然とした決め言葉が肉付けされると同時に、言外の含みを取り出すこともできる。
羽生氏が語る時、将棋そのものの話でも読み手は想像を膨らませることができる。


抜粋部の「必然」という言葉に反応しました。
羽生氏は必然を「つくり出す」のではなく「見つける」と言っています。
盤面は二人の対局者の創作のはずですが、展開の必然は二人がつくり出すのではない。
必然の出所は不明で、しかしどこかの段階で「これしかない」という思いが去来する。

というのは想像ですが、僕が自分に引き寄せて考えたいと思ったのは後半の抜粋です。
抜粋部の文脈とは異なりますが、僕はここで「視野の広い必然」を連想しました。
僕のイメージでは、この必然ともう一つ「盲目的な(視野狭窄の)必然」があります。
後者は、自分のいる状況をしっかり把握できていないがゆえの確信の感覚です。

情報過多の現代は、いかにそつなく後者の必然を見出すかが問われている気がします。
入手可能な情報が膨大で、それらに目を通すだけで生活の実際部分が成立しなくなる。
だから情報収集と有用性の判断に効率性が求められ、「捨てる力」も必要とされる。
が、生活での効率追求を諦めた僕は、その価値観と距離をおく生き方を模索しています。

ここまで書いて、僕は「視野の広い必然」を見つけていきたいと思いました。
自分が「知った(考えた)方がいい」と思ったことには、手間を惜しまない。
思考に埋もれて生活が不安定になっても、それはそれで必然なのかもしれない。
必然の「一本の線」は、盤面パターンが無数にあると同じく、数限りなくあるはず。

そして選択肢を捨てる(=一つを選ぶ)のを「もう一人の自分」に委ねたいとも思う。