human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

選択の後ろめたさについて

ある主張の正しさの証明は、別の主張の誤りの証明である──つまり「生まれ」の勝利は「育ち」の敗北のみを意味し、その逆も言える──という、偽りの定式化に陥った人が多すぎた。「もちろん、両方だ」という決まり文句もよく聞くが、多くの人は、戦争のようにゼロサムの視点で見る誘惑に逆らえないでいる。私は、本書でそれが誤りであることを明らかにできていればいいと願っている。行動に影響する遺伝子が見つかれば見つかるほど、それらが環境を通して発現するとわかり、動物も学習することが判明すればするほど、学習が遺伝子を通してなされるのだとわかる。それが示せているのならうれしく思う。
「エピローグ 麦わら人形」(マット・リドレー『やわらかな遺伝子』)

本書は太字で示した命題を、豊富な実例でもって納得させてくれる良書です。
「もちろん,両方だ」の一言は正しいですが、正しさ以外に何も得られない。
遺伝子と経験の関係性のメカニズムが複雑で精緻なことが本書で実感できる。
ただ、今回抜粋したかったのはそれと内容的には関係のない下線部なのです。

下線部に「なるほど」とまず思い、そしてこの問題の一般性を考えました。
二項対立なる図式(ゼルサム・ゲーム)においては、これは真です。
ただ、現実の複雑さにそのまま当てはめると「偽りの定式化に陥」ります。
なぜそんなに頻繁に偽る(誤る、のはその後です)のかは、それほど難しくない。

一言でいえば、「偽らないこと」に対する価値が低くなったからです。
その価値を低くした要因はいくつかあります。
マスコミ的な価値観の蔓延(日常化)、消費至上主義の普及などです。
それはいいのですが、この話と自分の関心がリンクしたことを以下に書きます。


あるものを誉めると、その意図がなくとも、別のものをけなしたとみなされる。
そのような空気が、日常生活に、特にネットにおいて流れているように思う。
あるいは日常生活で僕がそう感じるのは、ネットの雰囲気の余波かもしれない。
政治的な話題では昔もそうだったかもしれませんが、今は政治に限らない。

ネットでは相手の顔が見えないことが一つ関係しています。
赤の他人の気軽な一言には、ニュアンスなどのメタ情報が含まれない。
匿名性が、メッセージに対して受け手がニュアンスを構築する特殊な状況を生む。
ここは掘り下げませんが、これはある意味でセクハラの成立条件と似ています。

もう一つ、以前に書きましたが「常識の合理性の強化」が関係しています。
人は意味のない無駄なことはしない、自分の利益にならないことはしない。
これを当たり前に思う人が、無意味を愛する好事家の行動をどう見るか。
彼もやはり、私利私欲に走る現実主義者とみなされてしまいます。

これは「世知辛い世の中」になったからそうなったのではありません。
本当に生存競争が厳しければ、そんな単純な人間理解をする人は淘汰されます。
上で書いた消費至上主義の普及、「広告の文法」が消費者に浸透したからです。
広告の本義は、広告対象とそれ以外の差別化を図ることです。

消費者として人格形成期を経た人は、この「広告の文法」を体得します。
それは価値観の一部となりますが、個人の中でその割合が大きいとどうなるか。
これは想像ですが、日常生活で目にする主張が全て広告的に見えるのではないか。
良し悪し以前に、現代社会にそのような人を育てるメカニズムが埋設されている。


話が深刻な方に行きましたが、最初はもっと気楽な話がしたかったのでした。
僕が「これはいい」と疾しさのかけらもなく断言するにはどうすればよいか、と。
「みんな違って、みんないい。」みたいなことを個々別々に言えればいいですが、
似たような別のものを否定して誉めたいものを持ち上げる安直さも逃れ難い。

本来は、個人があるものを否定することは、別に疾しいことではないはずです。
見ず知らずの他人が一人なんか言ってるよ、くらいの軽さがあったはずです。
それは、物事に対するこだわりが個人の感覚に根を張っていたからでしょうか?
現代人が甘やかされて育てられ、傷つきやすいからでしょうか?

ここで「食べログ」の仕組みを連想しました。
匿名の、不特定多数の投票による評価点の大小で、店の「良し悪し」が決まる。
その評価点の妥当性はおいても、客足には大きな影響を与えます。
食べログ」的価値観を拡大すると、ネット上の全ての情報が「票」になる。

こんなことを想像すると、ブログに無邪気に好きな事を書くのが憚られてくる。
ネット上の自分の発言の何が「営業妨害」になるか分からないからです。
もちろん程度の問題もあり考え過ぎなのですが、筋の通った話ではある。
つまり僕は、このことを加味したうえで、気楽にものを書きたいのでしょうか?

と、疑問系で書くのは、考えながら書いて、まとまっていないからです。
すぐにまとまるような話ではないのかもしれません。
深刻なテーマにも思えますが、上で気楽と書いたのは切迫していないからです。
何か思い付くか、感じるかした時に、少しずつ書いて行けばいい。

ゴールに至るというより、スタートを増やすような話なのだから。