会社の夏期休暇中に、毎年一冊の本を集中して読みます。
夏休みに「どこに行くか」という命題を「何を読むか」にすり替えました。
行動の選択肢の一つが読書なのではなく、読書は行動を包含するのですね。
「人は物語を生きる」という認識のもとでは、まあ真と言えないこともない。
それはいいのですが、夏期休暇中には普段と違う本を読みます。
一息で読むべき本、社会人としての日常生活と相容れない本など。
別に反社会的というわけではなく、あくまで漠然とした読む前の印象です。
過去4年はこんな本を読みました。
'10 『解明される意識』(ダニエル・デネット)
'11 『菊と刀』(ルース・ベネディクト)
'12 『言葉と物』(ミシェル・フーコー)
'13 『アウトサイダー』(コリン・ウィルソン)
まあ一言で言えば哲学系で、普段から考えるような話ではない。
休暇中に読み終わらなかった10年度は、結局12月までかかりました。
また、気が向いた11年度は書評らしきものを書いたりしました。
そして今年はどこか異色な選択をし、こうして何かを書こうとしています。
本書は地下鉄サリン事件の被害者の方々のインタビュー集です。
著者のある信念のもとに、春樹氏自身がインタビューを行っています。
事件の再構成ではなく、事件に居合わせた「一人ひとりに何が起こったのか」。
そして当時の再現を目指しながら、それが「記憶」であることを重要視する。
先に書きますが、僕は形の整った書評を書くのは苦手です。
その本を読み、自分が何を思い、どこに注目したかを書きたい。
それは時に、内容の本筋とは全く関係のない話題になる。
書評サイトに投稿したものも、形式を外れていると自認しています。
何より、ある本について書いた文章は、自分が読みたくて書くのです。
だから自分の趣向によっては、自分以外の人には全く面白くない話になりうる。
ただ、自分が面白いと思った文章を人が面白いと言ってくれれば嬉しい。
いや、前置きで言いたかったのは一言だけです。これは書評ではない。
連休中の平日休みの5日間で読む予定でしたが、3日で読了しました。
3日目は少し無理をしましたが、だいたい30時間かかったようです。
その間はいつもの併読書をほとんど読みませんでした。
昼食時のスパゲティ本(→1)と、寝る前の息抜き本(→2)だけです。
1 『村上朝日堂 はいほー!』(村上春樹・安西水丸)
2 『こいつらが日本語をダメにした』(赤瀬川源平・ねじめ正一・南伸坊)
ではその3日間は1995年3月20日にスリップしていたかといえばそうでもない。
確かに何度も地下鉄駅の付近図を眺め、数え切れないくらい路線図を参照した。
犯人が傘で袋を刺す。乗客が咳き込む。ドアが開いた瞬間に何人も倒れ込む。
事件の場面を思い浮かべ、事件に遭遇した乗客の人となりを想像した。
「そうでもない」と書いたのは、僕は「人となり」の方に惹かれたからです。
事件に遭遇した方々は、一人ひとりが、その状況に応じて行動した。
乗客を助けて重症になった駅員も、すっと難を逃れて軽症で済んだ人もいる。
読み始めて途中まで気付かなかったが、その行動の是非が問題なのではない。
話が飛びますが、それは実行犯を裁けばそれで済むのかという問題に通じます。
人を助けるにせよ素通りするにせよ、その行動を導いた「状況」があります。
これは、当人の状況(健康状態や価値観)と周囲の状況に限られない。
都心の地下鉄通勤という状況、個人主義という状況、あるいは時代という状況。
それら様々な位相の状況が「人となり」という生身から浮かび上がるのです。
僕は最初、本書の記述を「事件を再構成するための情報」として読んでいました。
また、当事者の話から汲み取れる価値観と、自分の価値観を比較してもいました。
「犯人は死刑だと言うが、憎しみが生むのは憎しみしかないのに」とか。
けれど、途中で気付いたのです。これは評論に対する読み方で、これは違う、と。
ある意見が正しいか正しくないかを判断する基準は、もちろんあります。
ただ、その正しさとは別に、ある意見を持つ、信じる人がいます。
その意見を持つ、信じるに至る「人となり」が、そこにはあります。
その「人となり」は時に(という以上に)正しさより大きく人に影響を与える。
例えば時代の状況という大きな認識も、単に抽象的に留まらないことがある。
その認識が「人となり」の生身の集積であれば、そこには実感がある。
あるいは、それを知ってこそ、抽象的な言葉から実感を引き出せる。
それはきっと「実感をそのまま託す」言葉の起源を垣間みることにもなる。
700ページ超の辞書級の本書には、その厚さだけの「人となり」が詰まっている。
私は取材に当たって「人々の語る話は、その個々の話の文脈の中で、紛れもない真実なのだ」という基本的な姿勢を常に維持したし、今でもはっきりと維持している。その結果、同じ現場を同時的に体験した人々の話が細部で食い違いを見せることもあるが、それはいささかの矛盾を含んだままここに提示した。おそらく食い違いや矛盾が、それ自体として何かを語っているはずだと考えたからだ。この多面的な我々の世界にあって、ときとして不整合は整合に劣らないくらい雄弁になる。
あとがき「目印のない悪夢」(村上春樹『アンダーグラウンド』)