human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

オチのない思考について

今日Veloceでふと思った話

「人は見た目」という発想が、ぽうと、浮かび上がってきました。

コミュニケーションはすれ違いが基本だと思っています。
いちおう伝えたい思いはあって、しかしまあ伝わらないと思う。
もし思い通りに伝われば、僥倖
ただその態度は、「伝えたい元々の思い」なるものを漠然とさせます。

簡単に言えば、相手が笑って欲しい時にちょうど笑ってくれる、とか。
それは形式で、しかしそれと内容とが明示的に繋がっていないような形で。
奇を衒う、のではなく、複雑な情報社会なりの、奥ゆかしさの表現です。
ある種の少女マンガに興味があるのと関係があるかもしれません。

情報ではなく情緒として、伝えたいのに伝わらないことは日常的にあります。
どれだけ強く思っていても、それが相手に伝わらなければ意味がない。
相手とのコミュニケーションの次元においてのみ、そりゃそうだと思います。
つまり、その自分の思いが自分自身の生活をどう変えるか等は別の話です。

僕は「見た目よりも中味、実質だ」と常々思っています。
ある相手に対して見かけを繕っても、関係が深まった時に化けの皮が剝離する。
そんなみじめな未来に自分から向かうことはあるまい、と思います。
ここには上っ面の付き合いを軽視する価値観が土台としてあります。

真面目なのかもしれません。
単に、相手に影響されやすいだけだと自分では思いますが。
想像力を抑制しないので、些細な振る舞いに大きな意味を見出してしまいます。
それはもうそういうものなので、自分のこの性質が前提に話が展開されます。

さて、自分はどこかで「見た目と実質の一致」を理想と考えています。
一致とは、その人の性質や、感じとして、のことです。
大まかに言えば、その一致があれば、相手が自分のことを深く知った時に、
「あなたがそんな人だとは思わなかった」と言われることがなくなります。

いや、それは単なる理想で、そんな訳ない現実があって、現実に対する狙いがある。
きっと、上に書いた相手の勘違いを、自分のせいにしたくないのだ。
「僕は君と出会った時から変わってないよ」と。
…これは、変わることを常とする自分の発言として大きな矛盾を感じます。

そう、いつも自分は何かしら変化しています。
自分一人でいても変化するのに、相手と一緒に生活して変化しないわけがない。
最初にあった相手に対する思いも、変化するのは当然で、悪いとは思わない。
ただ、「あなたと離れるために変わったわけではない」と言いたいのでしょう。

身勝手な話ですね。そして話がおそろしく飛んでいます。

今日Veloceでふと思った話(再)

なだいなだの本を読んでいて、ある箇所で色々と想念が湧き出てきて、
それらを「抽象的プラグマティズム」という言葉にまとめました。
この話は別の記事に書くと思うのでここでは省略して、
冒頭の「ぽうと浮かんだ」のはこの時なので今ちょっと読み返してみます。

「"そうである"より、"そう見える"こと?」と、その箇所にメモがありました。

ちょっと思い出しました。見た目は中味を反映するのです。
見た目を繕っても、それを続けると、中味が見た目に寄っていきます。
そのうち、繕ったものとして、見た目と中味が一致します。
それは繕う前の視点で、しかし変わった本人からすれば、もう繕いではない。

上っ面を取り繕うなどと書くと良い印象がありませんが、別に何の悪もない。
相手と仲良くなりたいと思って、不本意ながら自分を繕う。
マズい点があるとすれば、繕う行為そのものでなく、「不本意」という認識です。
自分が良しとした行為を後ろめたいと思えば、自分が分裂するのも仕方がない。

見かけを繕うのも、変化したいという欲望を発揮する形態の一つです。
変化を良いか悪いかと価値付けするのは、変化する前の主体です。
その変化が実質を伴うなら、そんな価値付けに意味などない。
情報という「無時間モデルの構成要素筆頭」をベースに考えるからそうなる。

大阪人ですが何か?

話を戻します。
…戻れなくなりました。
まあ、そういうこともあります。
オチのない話ほど、生じやすい事態といえます。

オチのない話ほど、現在進行形である、のは事実ですが、まあ言い訳ですね。