human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

マイナについて

 たぶん、アンチ巨人、というか、主流派が嫌いなのですね。メジャよりマイナを支持したくなるのが基本姿勢かなって思います。
 たとえどんな正義であっても、人々が一致団結するのって、とても恐いし、戦争の前兆というか、臭いがそんなところにあると思うのです。
「さあ、今年度も残すところあと362日か。」(森博嗣ウェブ日記レプリカの使途』)

ファシズムと切り離して考えれば、一致団結は一般に良いこととされています。
もちろん切り離して考えることは不可能なので、それを込みで言い直せば、
一致団結が良いとされるのは「その状態」ではなく「その可能性」の方です。
子どもが学校で理不尽な集団行動を強制されるのもそのためです。

ルールを守ることも、集団行動と同じ性質を持っています。
社会の中に人がいる以上、その性質を完全に無視することはできません。
ただ、全ての人が同じことをずっと続けていても、社会は成り立ちません。
当然ですが、集団行動は社会の中で、時々にしか要請されないものです。

ですから、一致団結している状態は無条件で肯定されるものではありません。
その無条件の肯定がファシズムに繋がるのは歴史の教えるところです。
それを繰り返すのは、歴史の教訓に勝る魅力がそこにあるからでしょう。
その魅力の内容についてはここでは掘り下げません。

一致団結に対する恐れは、個人の客観性が失われることを指します。
個人の意志が集団の意志と一致する時、もはや個人の意志は存在しません。
自分がなくなるという経験は、快楽と恐怖の両方をもたらします。
両者の共通点は多いですが、冷静さを失わせる性質も共通でしょう。

マイナ志向は、一致団結が肯定されるほどその存在の重要性が増します。
団結する輪の中に反乱分子がいることで、その熱狂に冷水を浴びせます。
水を差されて気分を害することで、集団の構成員は自我を取り戻します。
時機良く水を差し、たまに油も差せる人はトリックスターと呼ばれます。

そしてマイナ志向に囚われない人がマトリョシカトリックスターです。

やはり閉じていないこと。来る者を拒まないことですね。マイナであること自体に意義があるのではなく、マイナであっても良いという意志に意味があります。
同上