human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

消費生活の「業縁」とその解放

まえおき

前↓に書いた話の続きのようで違う話になりそうな話です。

cheechoff.hatenadiary.jp

釣り銭に五円玉が出るように買い物をしている、と前に書いたんですが、当時は平日仕事していたので買い物が土曜の1回だけだったのが今はプールに行く日はだいたい1回以上買い物をしていて(スーパーのほかに水分補給ドリンクを買う100円shopとか泳いだ後の肉分(?)=ex.ファミチキを買うコンビニとか、多い日は一日に3回)、五円玉が溜まる(こちらの方が「貯まる」よりニュアンスが近い)スピードが猛烈に速くなっています。

で、前の記事の写真にある小銭入れ(前回の時点でもう蓋は閉まらない)から溢れ始めた(五円が溢れる、ご縁が溢れる…聞いたことない言葉ですね。どういう状況なんだろう。なにやら恐ろしい)ので貯金箱を買ってもよいなあと思いつつ、この「続々と溜まる五円の群れ」をじっと見つめ、前とはちょっと違う考えを思いつきました。

その考えを端的に表す写真を1枚撮ってみました。

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と言って見ただけでわかるはずもないですが…

五円 = 業 + 縁

消費者の散財によって経済が回る現代は消費社会で、一般市民の生活イコール消費生活になるわけですが、消費しないで生活することが(自給自足する気はまだないので)不可能にも関わらず"消費者"としてのアイデンティティに僕はわだかまりをもっています。
そのあたりのことは本ブログで「消費者」で検索してもらえればたくさん書かれていると思いますが、今ここで少し書くとすれば、「理想的な消費者」(「賢い消費者」の究極版と考えて差し支えないです)なるものがおぞましい存在であると内田樹氏の著書(一冊挙げるなら『下流志向』)を読んで思い、程度の問題だと分かっていても仕事やら何やらに追われて余裕がなければ何も考えずにその「理想的な消費者」を目指しかねないので(という一面もあり、ウチダ氏のブログや著書を読み続けて自然と流れができたという一面もあり)、消費者の純粋な消費欲が機能する消費をしないようにしよう、必要な消費とは何かを常に考えようと思いながら生活しています。

つまり、必要なものを買うのはもうしょうがないんですが、それも含め…るとまずいかな、まあその辺は曖昧にしといて、お金を使ってものやサービスを買う行為全般を全肯定はしていません。
言い方を変えると、食糧など必要なものはしょうがないとして(しつこい)、娯楽のためのもの、特に生活の文脈なく店頭やネットショップHPその場で欲しくなったものを買おうと思った時には必ず、ある後ろめたさが伴います。
その後ろめたさは決断に対する迷いにつながりますが、「迷ったら買わない」を基本姿勢にしつつあんまり厳密にルールで縛るのも不健全なので時々よくわからない即断をして失敗したりもして、必要品以外の買い物は経験値が低いというか熟達する気がなくて結果的に贅沢やら放逸からどんどん遠のいて生活は質素になっていき、頭の悪い消費者と書けばあまり喜べない表現ですが僕にとってそれは望ましい状態でもあります。

話が進まないので要点を言えば、前の記事では溜まっていく五円玉を「ご縁」として何がしかよい印象をもっていたわけですが、気がつけば溜まり過ぎている(そしてこれからもどんどん増えていく)それを今日あらためて見て、「これは消費社会の、消費生活の"業"なんじゃないか」と思ったのでした。
たとえば、店頭で一度お金のやりとりをするごとに、買った物が何であるかとは関係なく「何か」が溜まっていく、それを形にしたものが釣り銭に混ざった五円玉である、と(僕はその五円玉が敢えて混ざるような払い方をしているわけですが、これを「自覚の証」(何の?)と見立てることもできます)。

そういえば、どんな文脈で言っていたか忘れましたが、その「何か」は甲野善紀氏の言う「カルマ」のようなものかもしれません。
確か、人のためにお金を使うことを「カルマ落とし」と表現していたような。


で、写真の話になりますが、なんだか恐ろしいので数えてはいませんが、現時点で溜まった五円たちで何かオブジェをつくろうと思い、五円玉が(形而上的に)どう溜まるかを考え、螺旋形としました。
消費活動は繰り返しだが同じではない、僕らは繰り返しを通じてどこかへ進んでいる、その進む方向は個々の消費活動の向きと次元が異なる、といった意味が螺旋に込められています。
螺旋五円の先端にいるうしくんは「著者近影」というやつです。

それで前の記事とどうつながるかなんですが、前に四国遍路の話を書きましたが、今思ったのは、四国遍路でこの五円を供養することで「業縁」が一度チャラになると考えてみてはどうか、と。
五円群は今でもけっこうな重さになっていますが(怖いのでもちろん計りませんが)、このまま消費活動を続けていくと五円はますます増えていき、どんどん重くなっていくわけです。
そしてその重さは、四国遍路の道中で僕の背中にのしかかってくることになるわけで、これぞまさに業の実体化、そして縁の実体化にほかなりません
遍路で寺を一つ訪れるたびに五円の一部が解き放たれ、身が軽くなっていき、一回り終えた頃にはキレイスッキリ!(何が?)

これは遍路に旅立つ十分な理由になるのではないでしょうか。


あとは一本歯で行く必然性を導くだけですね。




p.s.
そういえば「八十八文」タグ記事をこの頃書いていませんね。
ストレスがないと書けないのかもしれません。