human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

道徳の動特性について ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (2)

それゆえ、これを認識すれば、もはや道徳の規範を固定した不動の規則とはみなさず、その更新のために働くことを絶えず人間に要求する動的な均衡とみなすようになる。無意識に獲得される反復の傾向を個人の性格のせいにして、その性格に反復の責任を取らせたりする考え方を、偏狭な見方だと次第に理解するようになる。内部と外部の相互作用が認識されるようになる。そして、まさにこの人間の非個人性を理解することで、個人的なものを、人間の基本的で簡単な行動様式を、つまり、鳥の営巣本能にも似て、ほんのわずかな方法と多様な材料で自我を作りあげる自我建設本能を、新たに探る手がかりを得たことになるのである。

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』(Robert Musil著、加藤二郎訳)p.307-308

抜粋の下線部に、妙に心を捕らわれた。

「道徳が人間に要求する」。
この擬人化に何の意味があろうのだろう?
ここから見出せることを考える。
そして、それはあるかもしれないがそういうことではなく、
まさにこういう場を自分が経験したことに思い当たった。

自分の経験に、ある意味で的確な言葉が与えられた、と思った。


道徳、いや常識でもよいが、
それは集団に属する個人同士の関係を円滑にする機能をもつ。
共通認識という面もあるし、教育という面もある。
それは、集団の状況によって変化する。
時代、文化、技術、他集団との関係、等々。
それは個人が取り決めることではなく、
自然発生的にゆるやかに形をなしていくものであり、
完全に固まることはなく、変形を続ける不定形のものである。

その道徳を、個人は所有する。
個人なりの解釈で、また経験のもとで、ある一定の形で内に留める。
そして個人は、それに頼ることで社会生活を営む。

個人が所有する道徳は、変形の圧力を、内から外から受ける。
外から受けることの例は上に書いた。
内からとは、変形がその個人の経験に起因することを指す。
自分が常識(ここではこの方が通じるので言い換える)だと思って、
相手にした行為が、関係の亀裂を生み、問題が円満に解決しなかった。
こういうことがあると、彼は選択肢の一つとして、自分の常識を疑う。
理由は、今後のために「使える常識」に修正すべき可能性があるからだ。
そのために彼は、常識の実行形態とその周辺状況について考察を重ねる。


道徳は、その使用によって円満な人間関係の維持を人々が目指すものだ。
この「維持」という表現は、道徳の不変性を示唆するように見える
不変性は、安定性でもある。
しかし、上に書いた通り、道徳は変わりうる。
よって、道徳は「利用」したり「依拠」するものでは、本来ない。
「使用」と書いたが、「生かす」がよいかもしれない。
変化することを本質とする生物のように。

だが、「それは"個人の考え方"のようなものではないか」と思えるかもしれない。
それは、違う、とここでは言い切る。
みながもつと想定してこそ効果を発揮する道徳、
そのようにして「想定される道徳」と、個人が培う内なる道徳の関係が、
ここで問題になる。
個人の考え方に、この内なる道徳は、近い。
近いが、あるいは後者は前者の一部かもしれないが、違う。
内なる道徳は、それが変わることで「想定される道徳」も変わるからだ。
個人の考え方の中でそういう効果をもつもの(部分)が内なる道徳だ、
と言ってもよいかもしれない。

道徳の存在の肯定は、その信頼へとつながる。
道徳への信頼は、社会的な人間関係をより円滑にする。
しかし、その道徳は変化しうる。
その性質を忘れると、道徳は形骸化する。

(教育とは別に)道徳は押しつけるものではないことも、これと関係する。
道徳の変化を前提することで、道徳の発揮状況を常に観察することになるからだ。
それは、相手をよく見るということ、
もっと言えば、相手の内なる道徳をよく見るということでもある。
この時点で、内なる道徳が個人の考え方と異なることが明確になる。
なぜなら、深く自覚的でなければ、個人は内なる道徳に責任を感じないからだ。

個人が責任を負わなくてよいように、人は道徳や常識に委託している。
思考の責任、あるいは意思の責任を。
このことも、道徳や常識の機能の一つであり、
つまり人間関係を円滑にすることに貢献している。
ただ、ここでいう円滑は「上滑り」と言ってもよく、
つまり表面的なやりとりで事が済む人間関係を前提としている。
集団においては、そういう関係が圧倒的に多いことは確かだが。


話は唐突に逸れるが、
文学はこの"責任"を個人が負う営みである
と定義できるかもしれない。
思考の責任、
意思の責任、
あるいは、
夢の責任を。

「夢の責任」と書いたのは、イェーツの詩の一節を思い出したからだ。
村上春樹は『海辺のカフカ』の中で、この一節を以下のように訳した。

  "In dreams begin the responsibilities"
 「僕らの責任は想像力の中から始まる」

 

「横文字」的現象について(ホントなんだっけな…)

一つ前の記事を書いてる途中なんですが、
(途中でもう投稿しちゃいましたが)
「タイムリー」の話になったので寄り道します。

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

漸く落ち着いて - human in book bouquet

ちょっと前に書いたこの「横文字」がなんなのかが相変わらず思い出せなくて、
こういう事態が過去に何度もあった記憶もあってけっこう「かゆい」んですが、
そんな中またこの「横文字」についての文章を見つけて、何重にか驚きました。

ウチダ氏のこの「横文字」の使い方としてはたとえば、
自分が考えているあるテーマを氏の友人(たとえば平川克美氏とか名越康文氏)も
特にそのテーマで喋ったわけでもないのに同じ時期にそのテーマに関心を持っていて、
対談なんかをしてそのテーマの話になった時にお互い「おお!」とびっくりする、
といったもの。

僕が上の記事で使ったのは、
自分がちょうど今関心をもっているテーマが偶然手に取って読んだ本に書かれていて、
まるで本が自分を呼び寄せたのではないかという気持ちになる、
といった意味でです。

 『図書館の主』(篠原ウミハル)の児童図書館司書の御子柴は、
 悩みを抱えた子どもや時には大人に「まさに今自分が読むべき本」だと
 その人が思える、自覚するような本を手渡せるスーパー司書ですが、
 もちろん時々はハズレを薦めたりもして、まあそれはいいんですが、
 そんな時に御子柴氏はこう言う。

 「お前が本を選ぶんじゃない。本がお前を選ぶんだ

 いいですね。
 これは事実ではもちろんなく自覚のレベルの話で、
 だから御子柴氏のような司書がいるかどうかとか、
 そんな司書がいたらいいとかなれるかどうかではなく、
 人と本がいればそういうことが起こりうるし、
 図書館がそういう出会いを生み出せるのなら、
 図書館は司書であり、御子柴氏なのですね。

話をもとに戻して、
今日出会った「横文字」的現象について書かれた文章を抜粋しておきます。
何重にか驚いた、の意味は…
あれ、なんだったかな、話がそれた間に忘れちゃいました。
入れ子構造」というキーワードだけ覚えてるんですが…
あ、この言葉もこの本↓の中に出てきます。

(…)けれど、何だろう、この一致は。
 こういうことは棚には比較的よく起こる。棚の周囲を織りなすそれぞれ独立した流れであったはずのものたちが、いっせいに何かの符号[ママ]のように同じ合図を送ってよこすのだ。だからといって、すべてに意味があるわけではない。何十年も自分を生きてきたのだから、そんなことは分かっていた。そこに必要以上の意味を読み込もうとするのは野暮だ。楽しめばいいのだ、すべてを面白い偶然の一致として。今まではそう思ってきたが、さすがに今回はちょっと、眩暈がするような気がして、棚はしばらく目を閉じた。

梨木香歩『ピスタチオ』(筑摩書房、2010、[913.6/ナシ])

「棚」というのは主人公の女性ライターのペンネームで、つまり人名です。

この小説冒頭でその説明があって、画家のターナーが由来らしいのですが、
その画家の画風について、
何か明確でないものを明確でないままに描こうとしていた人だったな」
と書かれてあるのを図書館で立ち読みで目にして、
これを読もう、と僕は手に取ったのでした。

と、「横文字」的現象に出くわすとついその偶然性を説明したくなるんですが、
抜粋にある通り、ある程度の傾向とその「面白い偶然の一致」によるもので、
説明し過ぎると意味を見出す姿勢になってきて「野暮」になります。

そうだ、抜粋して気づきましたが、「符号」はきっと「符合」の誤植ですね。
…いや、どっちでも意味通るのかな。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (2)

前回の続きです。

だが興奮状態や興奮した行為の状態にあっても、彼の態度は情熱的であると同時に無関心だったのである。彼はかなりいろいろな経験をしてきたし、かならずしも自分には意味のないことでも、それが彼の行動意欲を刺戟さえすれば、いつでも身を挺しかねない、と感じていた。したがって、ほとんど誇張なしに、彼の人生におけるすべてのことは、彼自身によるというよりは、むしろ相互の関係で起こったものだ、といってもよかったのである。(…)それゆえ彼は、このようにして獲得した個人的な特性も、彼のものというよりはむしろ相互の関連によるものだと信じるほかなかったし、くわしく調べてみると、個々の彼の特性は、それをもっていると思われる他の人たちよりも、彼とより親密な関係にあったわけではなかったのである。
p.180「30 特性のない男は男のない特性で構成されているということ」

今もう一度これを打ちながら読んでみて、これは「前科学的自己認識」だと思いました。
ここでいう科学とは、要素還元主義の別名です。
あるいはレヴィ=ストロースの「構造主義」と共通するところもありそうです。
鷲田清一氏の臨床哲学的に言えば、個の境界を曖昧にしていく方向性をもった思考。

すごく共感して、「主体的か受動的かどちらかなんてのはなくて、発生を考えれば人間はみんな受け身に決まってる」という生活の逐一の判断に適応するにはすごく大枠の認識と同様に「これは"そう考えればそういうことになる"話だよな」と最初に読んだときに思って、このすぐあとに僕がこう思ったことがそのまま書いてあるのを見て「やっぱり」と思いました。
「このすぐあと」を以下に抜粋します。

だが確かに彼は、常に自力を信じている人間だった。いまでも彼は、自分独自の体験と特性をもつということと、こういうものとは無縁だということとの相違は、ただ態度の上での相違にすぎないことを──これは在る意味では、一般性と個人性の間でなされる意志決定、ないしはその間で選択される度合いに過ぎないことを──少しも疑っていなかった。平たくいえば、人の身に起こったり、人がする事柄に対して、人はより一般的な態度もとれるし、より個人的な態度もとれる、ということだ。
p.181

この章にはとても重要なことが書いてあって、この本を読んでしばらくして「ああ、ウルリヒって自分みたいだな」と思ったことは前の記事に書きましたが、そう思った理由はウルリヒの問題意識の対象に僕自身とても興味を持っていること、それと関連して本記事の上に抜粋したような個人的性質(考え方)を僕も「もっている」(これと「興味がある」との違いはそう大きくない)ことなんですが、話を戻してその重要なこととは、本書のタイトルでありウルリヒと名の与えられている「特性のない男」とは現代人の別名である、ということ。

これに反して今日では、責任の重心は人間の中にあるのではなく、事物関係の中にある。体験が人間から独立したことに、人は気づかなかったのだろうか。体験は劇場へ移ってしまった。また書物の中へ、研究所の報告書や研究旅行の報告書の中へ、社会的実験の試みに見られるような、他を犠牲にして何か特別な体験を育成する思想団体や宗教団体の中へ、移ってしまった。そして体験がかならずしも稼動しているとはいえないかぎり、それはただ宙に浮いたものとなる。今日のように、じつに多くの人たちが容喙して、怒っている当人以上にその怒りについてよく知っている場合、自分の怒りが事実ほんとうに自分の怒りだといいうる人がいるだろうか?! 男のない特性の世界、つまり人間を抜きにした特性の世界が、体験するもののいない体験の世界が、出現したのである
p.182

 

 彼は腹が立った。
 自我の薄暗い領域から発生して根深くはびこり、病的にもつれて体にはよくないものを、解きほぐして取り除くという、医者たちが発見した有名な思考の能力は、おそらく個人を他の人や物と結びつけるという社会的で対外的な思考の特質によるものだと言って過言ではあるまい。だが残念なことに、思考にこのような治癒の力を授けるものは、思考の個人的体験性を減少するものと同一物らしい。鼻についた一本の髪の毛についてちょっと言及することの方が、最も重要な思想よりはるかに重みがあるし、行為や感情や感動は、たとえそれがどんなにありきたりで非個人的なものであろうとも、それが繰り返されると、一つの事件に、多少なりと個人的な大きな出来事に立ち会ったという印象を与えるのである。
 「ばからしい」とウルリヒは考えた。「だが、事実そうなるのだ」。それは、自分の肌の臭いを嗅いだときに感じる、刺戟的でじかに自我に触れる、ばかばかしいほど深い印象を思い出させた。
p.137 「28 思考の仕事に格別意見をもたない人なら、読み飛ばしてよい章」

面白い章タイトルです。
そしてウルリヒには「自覚」があります。

ウルリヒが怒っているのは、偉大な思考が「取るに足りない現実」より取るに足りないという現実にちょうど居合わせたからで、それで「残念なことに」という表現にここではなっていますが、もちろん「思考の個人的体験性を減少するもの」が思考にあってこその思考の抽象性で、「だが、事実そうなるのだ」とは何かというと、つまりは「やれやれ」と。


改めて抜粋のために読み直して、非常に僕にタイムリーな箇所だと気づきました。
なにしろ、しようがないものは、しようがないのだから。
 

『孤独の価値』(森博嗣)を読んで

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

以下、抜粋とコメント。

小説を呼んだり、ドラマを見たり、といったフィクションの世界に浸ることもできるし、また、現実を基にして、自分が想像した虚構を楽しむこともできる。(…)
 虚構が崩れるのは、その虚構が現実の他者に支えられている構造を持っているときだ。すべてが自分の内にあれば、簡単には崩れない。他者に依存しているため、その他者の行動が自分のイメージに反していれば、虚構が成り立たなくなる。(…)
 大事なことは、そのダメージを受けたとき、つまり、寂しいとか孤独だなと感じたときに、自分がどんな虚構の「楽しさ」を失ったのか、と考えてみることである。場合によっては、それがった一つの特定できる原因であり、また別の場合では、よくわからない沢山のものの積み重ねのように感じられるだろう。
 (…)
 考えることは、基本的に自身を救うものである。考えすぎて落ち込んでしまう人に、「あまり考えすぎるのはよくない」なんてアドバイスをすることがあるけれど、僕はそうは思わない。「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう

「第1章 何故孤独は寂しいのか」p.50-52

虚構についての思考は、とても参考になります。
虚構の構築に生きがいを感じるのであれば、同様に虚構の崩落に致命的なダメージを受ける。
じゃあ虚構に深入りするなということではなく、虚構についてよく考えよう、と。
すべての人が、「虚構の当事者」なのだから。
 

すなわち、「寂しい」のが悪いという理由は、「死」を連想させるものだから、というだけのことで、「死」そのものではない。その正体がわかってしまえば、さほど恐くはない。たとえば、多くの人は、人が何人も死ぬドラマや映画を平気で見ることができる。恐ろしい場面が頻出するスリラものも、「楽しむ」ことができるではないか。
 いや、フィクションの寂しさと自分に降りかかった寂しさは全然違う、と言う人もいるかもしれないが、自分に降りかかったその寂しさの根源は、貴方が頭の中でただぼんやりとイメージした夢のような「死」への予感にすぎないのである。これは、まちがいなくフィクションだろう。
 寂しさを紛らすために、なにか手を打たなければならないし、そのための苦労が面倒だ、これは実害ではないか、と主張するかもしれない。しかし、その寂しさがフィクションだと考えれば、気持ちを切り換えるだけの「面倒」で済む問題なのである。
 このように物事を突き詰めて考えることで、自分が囚われている得体の知れない感情を克服することができる。考えれば考えるほど、気持ちは楽になり、自分を自由にすることができる。これが、たぶん本書で僕が書きたい最も大切なテーマだ、と思われる

「第2章 何故寂しいといけないのか」p.74-75

長々と抜粋をしました。
 

 現代人は、あまりにも他者とつながりたがっている。人とつながることに必死だ。これは、つながることを売り物にする商売にのせられている結果である。金を払ってつながるのは、金を払って食べ続けるのと同じ。空腹は異常であって、食べ続けなければならない、と思い込まされているようなものだ。だから、現代人は「絆の肥満」になっているといっても良いだろう。
 つながりすぎの肥満が、身動きのできない思考や行動の原因になっていることに気づくべきである。ときどきは、断食でもしてダイエットした方が健康にも良い。つまり、ときどき孤独になった方が健康的だし、思考や行動も軽やかになる。

「第3章 人間には孤独が必要である」p.128-129

下線部の比喩は、今の僕にはとても身近に感じられます。
空腹に慣れすぎて空腹感がよくわからなくなっている気もしますが、適度な空腹時の方がそれ以外の状態の時よりも、身体もよく動くし頭もよく回ります。
「脳が時々感じる不安が空腹を不健康にしている」という実感もあったので、なるほど、です。
 

 人はいずれは死ぬ。それは究極の「寂しさ」だろう。孤独とは、つまりは死への連想でもある。死ねばもう誰とも話ができない。誰にも会えない。この世から自分だけが隔離され、なにも見えなくなり、誰にも認められない状態になることだ。しかも、何人もそれを免れることはできない。拒絶しても、必ず訪れる。
 そういったものから目を逸らすのではなく、逆に目を向け、そこに美を見出す精神というのは、この人類最大の難題を克服する唯一の手法だろう。芸術とは、最大の不幸を価値あるものへと変換するものだ、という逆転は、ここにその極致を見ることができる

「第4章 孤独から生まれる美意識」p.138-139

この少し前では日本の「わびさび」について述べられています。
わびさびは古さを尊ぶ、古さとは過去、もうなくなった人やものに導く。
直接こう書かれてはいませんが、「わびさびは死に目を向け、美を見出す」という考えにはじめて触れました。
武士道の腹切りも美の表現かもしれませんが、あれは「死の実践による美の表現」で、ここでいうわびさびとは異なる。
古さは、それが極まると人の生の短さの表現、つまり死を連想させるもので、しかしその古さそのものに、長い時間の経過によってこそ獲得される古さに美しさを感じることで、死と美しさを結びつける。
骨董趣味の動機はここにあるのでしょうか。
 

 友情も愛情も、相手に向かう気持ちのことであって、相手から恵みを期待するものではない。もし、自分が相手からなにかを受けたいと期待しているなら、それは本当の友情、真の愛情ではなく、単なる妄想である。したがって、友情や愛情に満ち足りた人生もまた、自分自身が孤独であることには変わりないはずだ。孤独を知っている者だけが、友情や愛情に満たされる、と言い換えても良いだろう。

「あとがき」p.182

うまく言えませんが、非常にタイムリーな指摘に思えました。
つまり、岡氏のいう「無私」と関係がありそうだ、という。


自覚は大事で、
その徹底はしかし自己を濃密にすることではなく、
むしろ自己を透明にするものである

最初の抜粋で下線を引いた「考えることは、基本的に自身を救うものである」というのも、
これと同じことを言っている。

そういうことではないか。

記憶の供養、「観念の遊戯」でない知性 ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (1)

、言いましたが、やはり書かねばならないようです*1

ではまず、たぶん、そのまえおきから。

 × × ×

 何かについて述べた意見を人がよく聞いてくれそうになったり、書物を書いてよく売れたりしたときに、朝ふと目がさめて自分のいっていることに不安を感じる。この不安な気持が理性と呼ばれるものの実体ではないだろうか。ところがその不安、心配、疑惑を取り去ってしかも理性らしい頭の働かせ方をすると観念の遊戯といったものになる。近ごろ、本を出すといったことはかなり流行しているが、それらはかなり前から観念の遊戯になっているのではないかと思えるふしがある。

「一番心配なこと」p.89-90(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

いつもと同じことをしていて、ふと、あることが頭をよぎる。
文章を読んでいて、ふと、あることとの関連を見出そうとしている。

これは、もう終わったあることの余波だと思い、
時間が経てばこういう、ある種無意識的な反応も薄れると思い、
それが自然な流れであると思い、
そのような中で岡氏の文章に出会い、
終わった後しばらくの間は思いもしなかったことだが、
これは不安なのかと思い、
理性の発動を促す不安なのだと思った。

時が経てば、という認識も間違いではないが、
いまだ頭の中で生きている「あること」は、
役目を終えたはずだがまだ生きているその理由を知らせるために、
つまりは、変化したいという「流れ」があることを自分に教えている。
いや、記憶に意志はなく、あるとすればそれを部分とする秩序の当為で、
言い直せばそれは「変化するものであるという流れ」。

自分にとってみれば、その変化を促すことは、
昇華と呼べば一般的には話が通る。
ただ、思いついたことには、
むしろこれは、供養と呼んだ方がいいのかもしれない。

 有機的な生においてだが、命の尽き果てた生は、
 生前の外形を失うかたちで死に迎えられる。
 意識の介在しない自然界においては、
 この根本的な外形の変化そのものが供養であると、
 意識を持った人間は考えることができるかもしれない。
 そして、意識を持った人間が死者の供養をするのは、
 死者のためではなく生き残った人間たちのためであるが、
 生前から変わり果てたその姿を目に留めた経験とは別に、
 それでも変わらず生き残った人間たちの中に生き続ける
 その死者の記憶の変化を促すためではないか。


ある関係に終わりが告げられ、流れが生じ、
それをまっとうな形で終わらせるために、
自分の意志で「流れを変えた」。
唐突に曲げられた流れは、角にぶち当たってはじけ、
その先で急流となり、当事者たちをのみ込んだ。

しかし、その流れは比喩であり、精神的な流れであり、
もっと言えば「気分とか気持ちみたいな流れ」であり、
抵抗できずにそのまま流されてしまった者がいて、
足場を築いてしがみつき踏みとどまった者がいた。
この足場ももちろん比喩であり、精神的な足場であり、
すなわちそれは「知性」であった。

そのようにして、
情念の、あるいは憎悪の渦巻くさなかで発動し、
確固として姿勢を崩さない知性の存在感を、
初めて経験した。


まっとうさ、あるいは常識は、人に押しつけるものではない。
責任と同じく、集団に属する個人が自ら負うものだ。
このことは、無私にも通じる。
今唐突にこう書いてみて、
知性の発動も無私に通じるのではないかと思った。
岡氏のいう「観念の遊戯」ではない知性の発動。

そうだとすれば、最初に触れた不安も、
「変化するものである記憶」のはたらきかけも、
自分の外からやってくるものかもしれない。

もし、そうだとすれば、
今、自分の内側を掘り進めようとしているその先は、
自分の外側に通じている。
見方を変えれば、
わずかだがすでに外側に通じた穴から、
自分の内側に向かって風が吹いている。

その風が、この文章を生み出す源流なのかもしれない。
 

*1:注釈:タイトルにある通り、おそらく「ある関係の始終」そのことについては書かれないと思います。それゆえ非常にわかりにくい文章となることが予想されますが、もし琴線に触れるようなフレーズが見出されるとすれば、それが読む方にとっての価値の一つになると思われます。僕自身が、僕がこれから書く文章をあとから読むことにおいて見出せる価値も、それと同じです。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (1)

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』を読了しました。
面白い。
引き続き第2巻も図書館で借りて読むつもりです。
以下、抜粋とコメント、下線と太字は引用者。

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

 × × ×

人は、正確を旨とする精神状態の方が、審美を旨とするそれよりも、根本的には神を信ずるものだということを忘れてはならない。なぜなら、正確を旨とする精神状態は、それが神の審美性を認めるために定めた条件下で、神が顕現し給うときには、たちまちにして「神」に屈服するのだから。だがこれに反して、われらの審美的精神の持ち主の方は、たとえ神が顕現しても、神の才能は十分に独創的なものではなく、その世界観は充分はっきりしたものでもないのだから、神を真に神の恵みを受けた天才たちと同列に置くことはできないと、みなすだけだろうからだ
p.312

「天才」と聞くと真賀田四季を思い浮かべることが多いのですが、
これを読んだ時にも多分にもれず、そして思ったのは、
犀川創平は「審美的精神の持ち主」なのかな、と。

もちろん誰もがどちらの精神もいくらかもっているもので、
彼も普段は正確性が表に出ていますが、
根本のところで審美性が行動源(判断基準)になっている。

真理を欲するものは学者となり、おのれの主観をおもむくがままにしようと欲するものは、おそらく作家になろう。だが、その中間にあるものを欲するものは、何をなすべきか? ところで、この「中間」にあるものの例は、どの道徳的命令もこれを提供しているが、たとえばかの有名にして簡潔な「汝殺すなかれ」がそれである。一見してわかることだが、この命題は真理でもなく、また主観でもない。われわれ人間がかなり多くの場合には厳格にこの教えを守っていることは知られているが、他の場合には、ある種の、そして非常に多数の、しかし厳密に限られた例外が許されている。(…)この真理でもなく主観でもないものは、往々にして要請と呼ばれている
p.310

要請!
なるほど、な訳ですね。
原語(ドイツ語)のニュアンスはどんなだろう。

「要請のいたずら」なんて軽薄なシャレ、いや、
別種であれ「要請」も「妖精」と同じく、ある神秘性を帯びている。

ウルリヒの本性には、論理的体系化、偏狭な意志、決まりきった方向に向けられる野心の衝動に対して、とりとめなくはあるが相手をすくませて無力にさせるような何かがあった。そしてこれは、当時彼の選んだエッセイズムという名称とも関係があった(…)従来行われてきたように、エッセイという言葉を試論と訳すだけでは、この文学上の原型に対して、ただ不正確にその本質をほのめかすに過ぎない。(…)エッセイとは、決定的な思考が人間の内面生活にとらせる一回限りの揺がしがたい形態である。主観と呼ばれている思いつきがもつ無責任さや生半可なものほど、エッセイと縁遠いものはないのであるが、しかし真と偽、賢と愚といった概念は、このような思想には当てはめられないものである。
p.309

「特性のない男」である主人公ウルリヒにはこういう魅力がある。
ステキですね。
このこととか、一つ上の抜粋部にあるようなテーマが、本書に通底していると読みました。
非常に興味深いテーマです。

エッセイの定義、高尚ですね。
毎週読んでいる「ア・ピース・オブ・警句」(小田嶋隆)を、これを念頭に読むことにします。

 ウルリヒが、自分のことで知っていることといえば、自分はあらゆる特性の近くにいると同様にそれから遠く離れているということ、そしてそれらの特性が彼のものになっていようといまいと、奇妙なことにどれも彼には興味がないということだけだったにせよ──この三十二歳の男の輪郭を描くことはさして困難なことではない。
p.183「40 あらゆる特性をもつ男、だが彼には特性などは興味がないということ。精神の王侯が逮捕されて、平行運動が名誉秘書を獲得すること」

長い章タイトルですが、この章で起こる出来事によってウルリヒが高等遊民から、
平行運動というプロシアに対抗したオーストリアの愛国運動の中央委員会の秘書になります。
(たしか20世紀初頭の「カカニア」という現オーストリアに位置する仮想国が小説の舞台です)

この章でウルリヒの思考が長々と開陳されるのですが(無論それはこの章に限りませんが)、
この抜粋部は「仕事してないとそうなるよね」と同意したくなります。
そして先に高等遊民と書いたせいかこの抜粋を読み返して、
「可能が可能のままであったころ」という夏目漱石の言葉を思い出しました。

漸く落ち着いて

前に書いた「流れ」についてですが、
これには乗らないことになりました。
まあ、しかたないですね。

この件についての感想は、
「自分もまっとうに成長したなあ」
という一言だけにしておきます。

 × × ×

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます。
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

さっき読んだ小田嶋隆氏の日経BO連載の最新記事もそうで、
「そうなんでしょうね」と思わず溜め息をついた箇所を抜粋しておきます。

われわれが政治の話を嫌っている理由は、権力の陰謀だとか、そういう話ではなくて、おそらく、単に、わたくしども日本人が、他人と論争するタイプのコミュニケーションに慣れていないからだ。それほど、われわれは揉め事がきらいなのだ。
(…)
私たちは、異なった意見が互いに対立することになる現場を恐れ、論争を恐れ、もしかしたら、生身の人間が真面目に対話することにすら、生理的な恐怖を抱いている

business.nikkeibp.co.jp

今回の挿絵内コメントには吹きました。
「にげだした」とひらがなで書かれると、
挿絵のゴーシ氏がポケモンみたいです。


p.s.
しかしこのゴーシ氏、高校で同じクラスやった「ぽ氏」にそっくりやなあ。
理数科のメンツやったらわかってくれると思います。