human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

司書講習が終わりました

いつからか忘れましたが、2ヶ月超にわたる司書講習がつい3日前に終わりを迎えました。

ボルダリングのおかげで体調不良もなく全出席で、4日ごとのテストもほどほどにできて、おそらくは単位を落とさず、資格取得できているはずです。
週6で大学に通っていた生活がいきなりまた完全フリーの要自律生活に戻り(ちょうど1年前に会社を辞めてからだいたいそんな感じです)、ひとつの転機が訪れています。

まず仕事は近隣図書館の司書を探すことになります(とりあえず講習が終わった翌日から動き始めています)。
決して暮らせるほどの給与にすぐ恵まれるわけではなく、また募集自体も少ないのでここは運次第です(「勢い」も大事かもしれませんが)。

そしてもうひとつ、講習中にそれとは別の大きな流れが生じ、今はその流れをじっくり見極める立ち位置にいます。
自分の人生でこれまで経験したことがないことが起き、驚いてはいますが、この事態を冷静に眺めていられる自分にも驚いています。
歳をとったということでしょうか。
この点はほんとうに流れまかせの風まかせ、なるようにしかならないので特に書くことはありません。

 × × ×

仕事探しも大事ですが、生活思想の軸をはっきりさせておくことも重要です。
生産的でないことをする時に、その生産性のなさに気を取られないために、とても重要です。
そのことについて、ここでは簡単に触れておきます。

 人のために生きる。

まさにこれです。
具体的な人であれ、もっと漠然とした人々であれ(たとえば図書館の利用者全体)、あるいは現在は存在しない人々(過去に生きていた人、これから未来に生まれてくる人)であれ。
図書館法の「図書館奉仕」という言葉が気に入っています。

これさえおさえておけば、束縛のない生活が堕落していくことはないでしょう。

また詳しく書ければ書きます。

未来の詩は

 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は ただ未来のみが 語るだろう

ふたたび "Keeping Things Whole" について

『犬の人生』(マーク・ストランド)を数年前に単行本で購入して読みましたが、近所の図書館に新書判(「村上春樹 翻訳ライブラリー」)で見つけたので、あらためて借りて読みました。

この本でいちばん記憶に残っているのはハルキ氏のあとがきに引用されている著者の詩("Keeping Things Whole"「物事を崩さぬために」)です。
今回また読んで、しみじみと思うところがあって、過去に自分がこの詩に対してなにを考えたかを知りたくなって、読みかえしてみました。

cheechoff.hatenadiary.jp
cheechoff.hatenadiary.jp

過去の自分が書いたことは、読み返せば「自分が書いたな」という記憶はよみがえりますが、どこか他人風なところもあって、言わずもがなではなく「なるほどな」と思えるところが、当時と今とでなにかしら変わったことを物語っています。

詩の受け取り方、向き合い方も昔と今とで違っているなと思い、それは具体的には「今の自分はこんな論理的には書けないな」という思いです。

そこは掘り下げませんが、二年と半年ほど前に書いた中で言葉になっていない部分が目に留まったので、これを足がかりにしてなにか書いてみようと思います。

そこに価値判断はなくて、だから何だということもない。
ないのだけど、何もなく通り過ぎるのではなく、「……」。
何か、頭を空っぽにさせる魔力のようなものがある。
思索が深まるでもなく、他に意識がそれるでもなく、「……?」。

「野原の不在」について - human in book bouquet

野原に立つ自分は、その身体のぶんだけ、野原の不在である。
今こう書いて、このことを想像していると、
「宇宙カンヅメ」(@赤瀬川原平)のような、空間が裏返る感覚になりました。

 × × ×

自分が野原の不在だと感じている今、彼(自分)の時の感覚はどうなっているのだろう?

感じる、と今書いたが、これは頭のことだろうか、それとも身体のことだろうか?

野原の不在は、悲しむべきことなのだろうか?
もしそうだとして、それでは、自分の存在も悲しむべきだろうか?
あるいは、もともとすべてが、悲しいのかもしれない。
生の基調が悲しみにあるからこそ、死は安らかに到来する。

野原の不在は、死者の不在と、どんな関係があるだろうか?
野原の不在の回復は、ひとりの死者の存在を生む。
死者の不在とは彼がもはや野原にはいないことを言うのであって、
死者の存在とは彼が野原ではないところにいることを言う。

どうして死者の不在と死者の存在が同じなのだろう?

未来の詩は…

 
 過去の詩は 昏々と 眠っていた

 昨日の詩は 思うまま 昨日を語った
 今日の詩は ただ黙して 待ち続ける
 明日の詩は 明日を 語れるだろうか

 未来の詩は…

 × × × 

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

無題13

『クマと仙人』
ジョン・ヨーマン作、クェンティン・ブレイク絵
のら書店

この本を選んだ理由:
 ほんわかした挿絵に惹かれた。

紹介文:
 森の中でクマとばったり出会ったら、みなさんはどうするでしょうか? 全力で逃げますか? 死んだふりをしますか? そんなことが実際にあったら、こわいですね。でもだいじょうぶ、この本に出てくるクマは出会った人をおそったりはしません。ちょっと不器用ですが、やさしくて力持ちで、しかも向上心があるのです!
 この本は、不器用で頭のあまりよくないクマが、森に一人で住む仙人のもとで、いろんなことを学んでいくおはなしです。
 仙人の家の門には、家庭教師の生徒を募集する看板がぶら下がっています。クマはその看板の文字が読めないのですが、運がよいことに、仙人が看板をなおしているところにちょうど通りかかります。仙人が独り言をつぶやくと、クマは自分が話し掛けられたと思って返事をする、と、ここから二人の会話が始まります。人にものを教えたい仙人と、頭がよくなりたいクマのおもわくが一致して、仙人がクマの家庭教師となって、一緒に生活をしながら様々な科目を教えることになります。
 クマは「科目の合格証書」をもらうために、仙人の出す課題に熱心に取り組みます。その科目は、舟をこいだり、料理をしたり、トランプに応急手当まで、さまざまです。ところが不器用なクマは、すぐに目移りするし、加減を知らないので失敗ばかりします。( (1):p122)いかだの上でトンボを追いかけていかだをひっくり返したり、( (2):p.57)料理するためのたき火に空気を送ろうとして勢いよく吹き消してしまったり。でも、( (3):p43)釣りの科目では釣りざおをあやつる仙人の横で、前足で魚を放りあげてたくさんとったり、( (4):p126)川に落ちた仙人を背泳ぎで助けたりと、得意な分野では大活躍します。授業の中で予想外のことばかりが起こって、仙人は大変な思いをしますが、クマが熱心に授業を受けてくれることが嬉しくて、どの科目にも結局は合格を出します。
 この本の面白さは、仙人の優しくて寛容なところとクマの素直さがとてもよくマッチしているところにあります。クマがどれだけ失敗しても仙人は怒らず、クマがしょげている時は元気になるような言葉をかけてあげます。一方で、クマは目の前のことに夢中になってもともとの科目をめちゃめちゃにしてしまいますが、機転のきいた仙人のほめ言葉に気をよくして、次の科目はなんだろうと興味津々になります。仙人が失敗した時でさえ、それを自分への指導だと思って機嫌よく助けてしまうのです。
 二人が仲の良い友だち同士のように、気分よく毎日を過ごしていくのを読んで、こんな日がいつまでも続けばいいなあと思ってしまいます。でも、先生に学んだ生徒は、いずれは卒業しなければなりません。教える科目が少なくなってくると、仙人はこのことを考えて少し悲しくなりますが、ある朝にとってもよい案が思い浮かびます。クマへの思いやりに満ちたその素敵なアイデアは、ぜひこの本を読んで、確認してみてください。

クマと仙人

無題12

みなさま、長丁場の講習お疲れさまです。

花巻はよい町ですね。
夏の時期は関東以西とは比較にならないくらい過ごしやすいです。

この地でみなさまと共に勉強できたことを光栄に思います。
そして、図書館概論の担当教員がH先生であったことも。

「考え続けることをやめない、あきらめない」

先生のこの励ましは、講習の間だけのことではなく、
また司書として働く人に限られず、
本の可能性を信じる人すべてに向けられていると感じました。

近く取得されるはずの司書資格の活用如何は様々でありましょうが、
短期集中で机を並べて学んだ我々の間には、
ある共通の意思が芽生えたことと思います。
そんな我々にうってつけの言葉を紹介しておきます。

「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」
               (梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』)

みなさまの今後がより充実したものとなるよう、陰ながら祈念いたします。

025 N.S.

崖っぷち系3級クリア

前回↓
cheechoff.hatenadiary.jp

週3で通い、毎回どこかしらでちょっとずつ進歩があります。
進歩と思えない時でも、同じコースで、今までにない動き方をしていたりする。

2週間くらい取り組んでいた、3級(赤)のいちばん簡単そうなコースを、昨日はじめてゴールまでたどり着きました。
人に手本を見せてもらっても体がついて来ず、進歩はじわじわといった感じでしたが、山場を越えるとその後の3手はするっと進めました。
傾斜のいちばんゆるい壁で、両手を離して片足でホールドに立てるところもあるのですが、ホールドの小ささと位置関係によって、可能な限り壁にべったりくっついて手足を動かす場面が2,3手続きます。しかもその中の初手が「両手は何ももたず右足でホールドに乗って右側を向いたまま左足を前(右)に出す」(右足を左側にある壁からなるべく離さずかつその右足と壁の間から左足を抜き出す)というなかなかの体幹を要する動きです。このような足場がわずかしかない崖にへばりついて横移動する様から、「崖っぷち系」と命名しました。
腕力でなく体幹(バランス)で登るコースについては、中級の入口に立てたかな、という手応えがあります。

講習は相変わらず忙しいですが(明日で開始後3週間になります)、ボルダリングとうまく両立できています。
登った翌日の回復度も早くなってきたようで、その翌日の疲労度も今日はとくに「全身的な疲れ」で、講義中に眠くなるというより倒れそうになったりしましたが、頭は正常に回るし(身体の疲労で多少なげやりな気分になりますが)、なんというのか疲労の質はわりといいんじゃないかと思っています。
さらに慣れていけば毎日ジムに行けるかもしれません。

前傾壁のコース、ぶら下がり系(いちばん傾斜がきつい150°の壁)コースも着々と進歩しています。
腕の筋肉は一月前とたいして変わらないように見えますが、たぶん肩や背中をいくらか使えるようになって、腕力のなさをカバーできているようです。
背中や肩甲骨の使い方について、基礎トレーニングをしながら色々気づいたこともあるので、時間のあるときにまた書きたいと思います。