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引っ越して落ち着いたらタイトル考えます(仮)

本格的に本と関わっていきます。

図書館の本いろいろ/「本」を守る

とりあえず司書資格取得を目指します。

 × × ×

初期投資として司書の仕事や資格のことが分かりそうな最近出版の本(1)を新品で買って読み、1冊目からの数珠繋ぎで気になった本(2)(3)を図書館で借りて読み、図書館の棚を巡る中で興味が湧いた本(4)(5)(6)を借りて読み、ついでに綺麗な写真集(7)も借りて読んでいます(1~7は最後にまとめてリンクを張りました)。


(1)を読んで司書にもいろいろあること(司書として勤務する図書館にもいろいろあるし、学校司書が勤める学校もいろいろある)、募集が極端に少なく雇用条件が不芳のわりに応募が多い職種であることを知りました。

(2)はランダナカンという図書館学では有名な人の「図書館の五法則」についての本の抄訳・解説書です。図書館はあくまで利用者の目的達成を援助するものだ、という基本思想に親和性を感じました。五法則とは、記憶を頼りに列挙すると以下のものです。自分の頭に刻まれたことを整理するためなので細かくは(あるいは大きく)違っていると思います。
  1. 本は利用に供するものである
  2. あらゆる読者に、その人の本を
  3. あらゆる本に、その本の読者を
  4. 読者の時間を節約するべし
  5. 図書館は成長する有機体である
「五法則」の原書では各法則が人格を持ち(人、それも女性に喩えられ)、彼女らが図書館運営に関わる人々(館長や司書だけでなく、行政や教育の担当者なども含む)に法則の意味するところを、優しくかつ粘り強く示唆していきます。この優しさと粘り強さがそのまま司書(図書館)の望ましい性質となっていて、僕がいいなと思ったのはそれらの性質は「自覚」を大事にするからです。…これを「司書が利用者の自覚を促す」とそのまま言い換えるとなんだか偉そうに見えますがそうではなく、司書は利用者の主体性を最大限発揮できるように手助けをする。本や資料の推薦はしても押しつけはせず、説得もしない。選択肢の提示ではあるけれど、無闇やたらではない。無闇やたらではないのは利用者の「人を見る」からで、検索結果の列挙とはその点が異なる。図書館で本と出会う人は匿名ではありえないのです

(3)では学校司書が先生や生徒と、そして授業とどう関わっているかの実践例が豊富に書かれています。学校司書は教員免許を持つ司書教諭とは違いますが、図書室のカウンタにいたり、また調べもの学習等の授業にアシスタントとして参加することで教員としての役割を要求される場面があります。
この本を読み終えた頃に小学校の頃の担任と深く喋る機会がありました。大人になった今でこそ聞ける担任の教育方針や陰に陽に努力されたことを聞き、稀有な先生に出会えたものだなと改めて思いました。僕はその先生に多大な影響を受けたと昔から自覚しており、それが「教育者なんていう責任の重い職業には就くまい」という認識に繫がっていたので、(3)の本を読んで「学校司書だと教員免許がなくても教育に関われるのか…いいなぁ」と素直な感想を抱けたことに最初はびっくりしました。けれど先生に久しぶりに会って、「そうか、先生と出会えたからこそか」と気付きました。
過去の出来事は全て良い思い出で、けれどそれを振り返るのはいつも「今」なのですね。

(4)では図書館というハードを持たない、書籍の全データ化に加えて貸出返却もネット上で行う電子図書館の実現のためにいろいろな想定が展開されています。本文はインターネットが本格的に普及する前に書かれており、多少古い技術を前提して書かれているため現代から見れば大袈裟な記述がわずかに見られます(書籍のデータ化は大変だからそれ用の工場が必要だ、など)。がそれは別に大したことはなく(記憶として最初に思い浮かんだだけ)、レファレンスもネット上で、しかもなるべく人手をかけず、つまりプログラムを組んで自動で行う方法の検討などは興味深い内容でした。今でいうとネット検索のノウハウに近いです(いや、そのものかな)。

(5)は図書館の建築面に光を当てた本でした(借りる前の立ち読みでは気付きませんでしたが)。本を借りる場所か勉強する場所として主に利用されてきた図書館が近年は「人が集まって何かをする場所」として注目されていて、新しい図書館ほどコモンスペースが取り入れられているようです。また地域の活性化を担う使命を帯びて新設される図書館の例として、建物として周囲の自然環境に溶け込む工夫が紹介されています。
ところでこの本の中で紹介されていた「.03」という椅子がステキで、商品HPの紹介写真の中で「椅子を台にして乗っている人の足の重みで台座が凹んでいる写真」に一目惚れしました。高価ですが、今は吝嗇モードが限定的に(主に家具に対して)解除されているので買っちゃうかもしれません。

(6)は今日読み終えたところで、記憶が一番新しい…のですが、いろいろ書いてみたいトピックはあれど力量不足で書き始めると収拾がつかなくなりそうなので感覚的な感想だけにします。
図書館は公共施設だとか、利用は原則無料だとかいう常識は60年以上前の図書館法に根ざしていて、図書館の利用のされ方は当時とはだいぶ違っているからそれらの常識も見直すべきだといった話がこの本の最後の方に書いてあって、また電子媒体の資料の扱いとか出版業界との兼ね合い(「ベストセラー問題」)とかホットな課題もあって、これはランダナカン五法則の5のことだと思えば人間味が湧く…というか知の在り方、とどのつまりは「人間の在り方」の問題であって、こういう見方をすれば僕にもこの問題全体に興味が持てます。
「持てます」なんて言い方をするのは、僕はものづくりの会社で働いていたわりに最先端技術に対する能動的興味が薄くて、それは身体性に拘りだした頃から「身体性賦活と技術革新は相容れない」という認識をもったせいだと思うんですが、とはいえ人間は身体と脳のバランスで生きているので(いくら現代社会が脳偏重とはいえ)身体だけでなく脳のことも考える必要があって、上に書いた「人間の在り方」というのはもちろんこの両方に関わるからです。

どれだけ技術が発達しても本はなくならない、という著者の言に僕も賛成です。


↓(1)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

図書館員をめざす人へ (ライブラリーぶっくす)

↓(2)

↓(3)

学校司書って、こんな仕事

学校司書って、こんな仕事

↓(4)

電子図書館 新装版

電子図書館 新装版

↓(5)

ほんものづくり

ほんものづくり

↓(6)

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

理想の図書館とは何か: 知の公共性をめぐって

↓(7)

世界の美しい図書館

世界の美しい図書館


 × × ×

本に関係する仕事をしようと思ったきっかけはいくつかあって(いくつかは一つ前の記事に書いたような)、その中の小さな一つが、「本はなくならない」とさっき書いたことと矛盾するなあと思うことで連想されたので、書いてみます。

前に『竜の学校は山の上』(九井諒子)のレビューみたいなものを書きました。
cheechoff.hatenadiary.jp

この短編に出てくる竜学部の部長はこんなことを言います。

「 世の中には二種類のものしかない
  何かの役に立つものと
  これから何かの役に立つかもしれないもの だっ 」

そして、役に立たないものを見捨ててしまったらもう二度と戻って来ない、役に立つかもしれないものを「狐の葡萄*1」にしちゃいけない、と。

この部分を何度目かに読んだ時に、「よし、じゃあ僕は本を守ろう」と思いました。
もちろん本が役立たずなはずはないのですが、単純な連想では「電子書籍に席巻されて消えゆく本を守る」という文脈で、そう思い込めば納得できなくもないですが、(1~6の本に感化された物言いかもしれませんが)冷静に考えれば、本がなくなるはずはありません。

大局的に見ればそうで、では、というか、そもそも僕は何をもって「”本"を守ろう」などと言ったのか?」


うまく言えませんが、それは「本自体」ではなく「本と人との関わり方」ではないか。
そして司書としての仕事の中でそれを人に伝える事ができたら、それこそ「冥利に尽きる」というやつだろうな、と。

*1:「すっぱい葡萄」のことだと思います。 すっぱい葡萄 - Wikipedia

岩手へ

突然ですが、決めました。
今は引っ越し準備の真っ最中です。
事情など詳しくはまた書きますが、5月末には移ります。

少し前に現地(岩手県花巻市)へ2泊で行って家を決めてきました。
一度住んでみたかった一戸建てです。
賃貸です。


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新幹線の駅、新花巻駅から降り立つと空の広さにびっくりしました。
レンタカー屋以外、何もない。
空気がおいしい。
静かな街に、ひょっこり佇む彼らもよく馴染んでいました。
(何だっけな…銀河鉄道?)


f:id:cheechoff:20170518213756j:plain
家探しのついでに玉川温泉へ行って元気になってきました。
7泊8日の、ついでの方が長期滞在。
今年はまだ雪が残っていました。
歩き遍路で酷使した足首はまあまあ良好です。
ついでに治ればと思っていた左手首の腱鞘炎は悪化しました。
炎症には良くないですね、考えてみれば当たり前かもしれません*1


今はまだ皮膚炎が残っていて若干疲労していますが元気になりました。
特に食欲増進が良い傾向で*2、ここ数年は食べると体調を崩していたラーメンを京都に戻ってきてから毎晩食べています。
京都を発つまでにこちらのラーメンの味を身体に染み込ませておきましょう。


遍路中の習慣だった1日2食(朝・晩)が、戻ってきてしばらくは(日中動かないために)夕食までの空腹がきつかったのですが、慣れると朝晩共もりもり食べられてよいです。
香川で出会った四国病のおじいさん*3は「1日1食で十分。18時間胃を休ませると”超健康”になれる」と仙人じみたことを言っていました。
新陳代謝の程度もあると思うので若者にはそこまでは酷ですが、間でちょこっとエネルギー補給*4すれば2食でいけそうです。


話が飛んでいますが、お菓子作りに目覚めそうな予感があります。
遊休状態のヘルシオ(2005年製)がついに活躍する、のか?

*1:温泉にいる間に気付いたんですが、小指側の手首の骨の出方が左右で大きく違っています。まさか骨同士がこすれて痛んでるんでは…手術ものかもしれません。一度は医者に行ってみましょうか。

*2:おいしく食べられるように身体を整えるのはいいのですが、「腹が減ってりゃなんでも美味い」が悪くすると食べ物に気を遣わなくなるだけになってしまいます。その状態から「食べたいものを食べよう」と思えるようになったのは回復したのでしょう。

*3:定年後に毎年歩き始めて7回目だそう。病気だと自称していました。

*4:ビスケット1枚とか、stick sugarとか。

仕事のこと、住処のこと、ブログのこと

新たな生活の準備を少しずつ始めています。

 × × ×

とりあえず仕事は「本に関わること」を考えています。
思考を深める魅力を本に教わったので、その恩返しができればいい。
少しだけ具体的にいえば、「本を守る」仕事ができればいい。
すぐに就職するのではなく、その分野の知識をつけ、歴史と現状と展望に触れるところから。

行動から始めないと現状維持に留まってしまうので動きますが*1、ゆっくりと、余裕をもってやります。
一度働いた経験のある余裕、すぐにはお金に困らない余裕、そして人を個人として見られる余裕


やりたい仕事を限定して邁進するタイプではない。
場があり、必要とされる仕事があれば、その内容に関わらずある程度はこなせる。
ただ「どこでもそこそこ働ける」が「その仕事をずっと続けられる」とは限らない。
それを決めるのは仕事の内容だけでなく、その場の空気も重要であると、働いてから気付きました。

すぐには巡り会えずとも、「ずっとその場で働きたいと思える場」を求めていきます。
そこはたぶん僕にとって「人を個人として見ることに留保なく価値をおける場」です。
その方が仕事が捗るからとか、効率がよいからとか、そういう留保なく*2

そして望ましくは、その場が本と関わっているような場所。

 × × ×

住むところもがらりと変えようと思っています*3
とにかくまずは、静かなところ。

旅の中で「身体が開かれていること」の大切さを、頭でなく身体で実感してきました。
その身体が開かれた状態は、頭の回転の具合と全く別物であることも。

どうなるかは想像がつきませんが、これもまずは動きます。
頭は瞬間的な*4判断をしたがりますが、余裕をもつとはその判断を留保できること

頭が空っぽの今の僕には言い聞かせないといけないのですが、可能性が広いことはとても楽しく、魅力的なことです。

 × × ×

そして身体を開きつつ、頭も回るように生活を整えていきます。
本ブログにもまた、いろいろ書いていくことになると思います。

タイトル*5も変えた方がよいので、考えておきます。

*1:保守的な人間でも動き始めれば、「動いているという動的な状況」に適応することができます。

*2:留保があると、その手段と目的はいとも簡単に反転します。「なぜ生きるのか?」という根本的な問いの前にはこの反転があります。問いとして浮かび上がる状況にあれば、それは大切な問いです。

*3:今までは「今あるもの、持っているものを利用しなければもったいない」という思いが強すぎました。

*4:=無時間的な。未確定な将来を現在に変えて既知としてしまうような。

*5:「緩い井戸コアラ鳩詣」は「あらゆることはどうでもいい」のアナグラムです。本当は、どうでもよくなんかないのです。

旅を終えての所感(一本歯歩行について諸々)

4/27に全行程58日の四国歩き遍路旅を終え、無事に戻ってきました。
実家に戻ったり昔お世話になった人に会ったりして、家にいる間は旅日記と地図を眺めて旅を振り返り、今後の仕事について考えています。

日記を読むと毎日いろんなことが起こって、多くの縁が生まれたことがまざまざと脳内に浮かんでくるのですが、頻繁に色々起こりすぎて記憶の時系列はめちゃくちゃで、会った人、起こった出来事は、「歩きの記憶」を核とした身体記憶として身体に刻まれています。
(「います」と脳が断定できることではありませんが…)

人や出来事については日記に書いてあるのでまた気が向けば載せるとして、「歩きの記憶」と「歩きの記録」についてここでは書いておきます。

 × × ×

一本歯下駄(天狗下駄)で約1200kmを踏破するという思い付きから生まれた酔狂な挑戦は、足を怪我することなく戻ってこれたことでまず成功したと言っていい。
(足指の付け根や足首の疲労はまだ取れていなくていつも通りの歩き方ができません。今はしばらく毎日歩く生活を続けてクールダウンしつつ、徐々に治していく過程にあります)

「歩きの記憶」とは、
 (1)どこの道をどんな調子(体調や気分、天気など)で歩いたか
 (2)どこの道でどう転倒した(躓いた)か
と大別してみますが、(2)は本当にインパクトがあって、日記にも記述はありますが、地図を見ただけで記憶が甦ります。
(1)がとても広くて、会った人やお寺の記憶の多くもこれと結びついていて、記憶が頭の中の記憶というよりは「身体記憶」だと言っているのはこのことによります。

歩く間は基本的に頭の中は空っぽで(考え事をすると歩調が乱れるし、山道=自然道では本当に面白いくらい考え事をした途端に(足下への注意を同じように向けていても)こけるのです)、宿に落ち着いてから行程の計画を立てる間を除けば旅はほとんど「身体との対話の時間」でした。
この時間は今まで脳主体で生活してきた自分にとっては本当に貴重な時間であり、経験でした。

この経験が僕を新たな生き方に誘っているのですが、それはまた別の話になります。



「歩きの記録」について、恐らく(過去に先駆者がいたとしても)ウェブ上に「一本歯で四国を歩いた記録」はなかろうと思うので、自分もやってみようという酔狂な後進のために(僕は歩きながらその種をいくつか蒔いてきました)少しばかり残しておきます。

一本歯で歩くことは、ちょっと練習すれば平地なら誰でもできます。
見た目のインパクトで不安定な印象が強いのですが、二本歯より歩きやすいのは確かです。
ただ山道を歩くとなった時に、不用意に歩くと簡単に怪我をします。
躓いたり地面を踏み損ねるのは日常茶飯事、転ぶのも当たり前という認識を持ち、「躓いても(転んでも)怪我をしない躓き方(転び方)」を体得する必要があります。
これは頭で考えながらできるものではなく(実際躓いている間にそんな時間はありません)、反射的に身体が動くようにしなければなりません。
僕は今回の旅中で躓いたり転倒した時、正確にいえば「その最中」では頭の中が真っ白になって、我に返ると無事に立っていた、あるいは無事に地面に転がっていました。
頭がその過程を把握できないというのはすごく不安なことで、ひどく荒れた山道を歩いていてふと冷静になると「なぜ自分はこんな道を歩けているのだろう」と不思議に思ったりしました(そのままこのことを考えて続けていると足が前に出ないので、「まあ歩けてるんだからいいか」と棚上げすることになります。「今日まで太陽が昇り続けてるんだから明日も日は昇る」というのと同じですね)。

(主に)山道における一本歯歩行について、注意すべきものを思いつくまま挙げてみます。

石ころ、岩

石ころを踏むと、下駄が左右にぐらつきます。
それが大きい石だと下駄が横倒しになり、足首をひねることになる。
なのであるサイズ以上のものは基本避けて歩きます。

石畳

これは山道に限られず、寺の参道や敷地内にも多い。
滑ります。
表面がつるつるしていたり丸かったりするとさらに滑ります。
雨が降っていたり濡れていると「もう勘弁してくれ」というくらい滑ります。
可能なら避けて歩きます(道の端で石畳が途切れている場合など)がそれが無理なら、ざらざらした表面を狙うか、石と石の隙間を狙って歩きます。

板橋、丸太橋、木の根

木も石畳に劣らず滑ります。
板状の橋も侮れず、濡れていたり斜面になっていると簡単に滑ります(なんとなく大丈夫そうに見えるので僕は油断して何度も転倒しました)。
木橋は、もうどうすればいいんでしょう、渡す方向に踏むと間違いなく左右にぐらつくし、カニ歩きの方がまだマシでしょうか。丸太と丸太の隙間がなければ利用できますが、スカスカだと大変です。
根っこは踏んだ時にどうこけるかの予測が難しいのでやはり避けます。

砂利

寺の敷地内では砂利石が細かいのでまだいいですが、山道によっては駐車場のような粒の大きい砂利が敷いてあるところがあります。
これも踏んだ時の下駄の傾き方が予測できないし、マシなところを選ぶにも限界があるので、手探りならぬ足探りで歩きます。

やわらかい土、腐葉土、ぬかるみ

雨降りや雨上がりで、日当りの悪い山道の土は要注意です。
力学的にもそうなるはずなんですが*1、歯はまっすぐよりは傾いて沈みやすく、よって勢いよく踏み込めば足首をひねることになります。

落ち葉

落ち葉自体が危険というよりは、他と相乗的に作用して危険を増幅させるという感じ。
石畳や舗装道に積った落ち葉を踏めば滑りやすくなります(斜面だとなおさら)。
また山道が大量の落ち葉で覆い隠されていれば、落ち葉の下に石ころやぬかるみがあっても見えないわけで、「何を踏んでいるか分からずに踏み込む」のは一本歯にとって大変な恐怖で、これこそ慎重に足探りで一歩一歩進むしかありません(が、こんな道が長々と続く場合はじれったくなって「このあたりの道状態の傾向」を頼って歩調を早めたりするんですが、まあ危険が増すのは当然です)。

落とし穴

たぶんモグラだと思うんですが、わりと小さめの(直径数センチ?)穴がやわらかい土に掘られていたりすると、靴ならそんな存在に気付かず踏み進めるところが一本歯だと見事に落とし穴的に作用します。
ちなみにイノシシが掘る穴もよく見かけたんですが、これはクレーター状なので判別はできます。

砂浜

砂浜は海ですが…これはもう論外で、一本歯との相性は最悪です。考えるまでもなく歯が砂に埋まって歩けないので、僕は早々に脱いで裸足で歩きました。
高知の歩き遍路道にはいくつか砂浜があるのです。


これらの危険物がもちろん組み合わせになった道もあるし、上りだといいんですが下りだと危険度は何倍にもなります(もちろん踏み込みに勢いがつくからです)。

こういったことは実際歩けばわかるもので、事前に知れば安心できるかといえば…事の無謀っぷりが強調されているだけかもしれません。

そしてこけ方について書きますが、まず地面を踏み損なって足をひねりそうになったら足を踏み替えて対応します(例えば、左足をひねりそうになったら瞬時に右足に体重を移し替えます)。
それで間に合わなければ(間に合うかどうかの判断は身体任せです)、足をひねらないように、ひねりそうな方向に全身でゆっくりと崩れ落ちるようにこけます。
これが「足が怪我しないようなこけ方」で、確かに足は大丈夫なんですが*2、崩れ落ちる時に足以外の部分が着地することになるので、そこがダメージを受けることはあります。
ただ鼻緒がきついと、このこけ方でも足首へのダメージが大きくなります。
鼻緒が緩いと山道のような凹凸のある道では歩きにくいので、トレードオフの関係ではありますが。



もうひとつ一本歯歩行の記録について書いておきたいことは、今回実際に歩いた道について。
遍路道には「車・歩き共通の遍路道」と「歩き遍路道」があって、前者はだいたいがアスファルトなんですが、行程においてこれらを選べる場合は、僕はなるべく歩き遍路道を歩きました。
それは「自然道の方が楽しく、身体が躍動するし、(荒れていなければ)疲労も少ない」からなんですが、あまりに状態が酷い、あるいは高難度の歩き遍路道は、その場でそう判断した時点でスポーツサンダルに履き替えて歩きました。
この「一本歯で歩けなかった道」は個人的にぜひメモしておきたいのです。
実際に歩いた人でなければ何のこっちゃという情報ではありますが。
 (1)建治寺へ向かう歩き遍路道*3
 (2)24番最御崎寺の観音窟(24番の奥の院)から寺までの道
 (3)81番白峯寺から82番根香寺へ向かう山道の往復共通部分の復路
 (4)82番根香寺から山を下る途中の歩き遍路道
 (5)84番屋島寺から山を下る歩き遍路道
旅の中で「時間をかければ一本歯でも歩けない道はない」という認識を持ちましたが、時間がなかったり余裕がなかったり、終盤では右足首の不調があって無理をしたくなかった、等の事情で、上記箇所では下駄を脱がざるを得ませんでした。
もちろん無理をして怪我をするのはもってのほかなので、「こりゃ無理だ」という判断はわりとすんなりできました。


特に結論も何もありませんが、一本歯についてはこんなところです。

*1:圧力の単位はkgw/m2、同じ重さの物体でも力をかける部分の表面積が小さい方が圧力が大きくなる。歯を真下に踏み込めば表面積は歯の底面積ですが、斜めだと…ごく単純化すれば「角の部分」になる。

*2:とはいえ「軽くひねる」くらいにはなっていたようで、旅の終盤で足首が痛くなったのはこの蓄積が影響していると思われます。メインの原因はいくつか前の記事に書いた「改良版歩行法」のせいですが。

*3:建治寺は12番焼山寺から13番大日寺へ向かう途中で山に上るとある(道中で「別格の別格」と聞きました)。滝行のできる修行場があり、正規の歩き参道は岩だらけ(岩から岩へ飛び移るような道)、12~13の道なりから逸れる遍路道は土砂崩れや植物の繁茂でとうの昔に崩壊していた。

笠原メイの手紙

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みたいだなと、ブログ投稿メールを送り続けるうちに思い付きました。

笠原メイは『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)に出てくる女の子で、小説の中盤に彼女が主人公「ねじまき鳥さん」のもとを離れてから彼に宛てて書いた手紙が、その内容を断章として時々出てきます。送ったつもりの手紙は、後に再会した時に届いていなかったことが判明します。

学生時のチャリ旅ではネットカフェでブログを書きながら今回と同じく携帯からも投稿していたんですが、出発前にちゃんと投稿できているかを確認していました。今回はその確認をしていないので、写真が載っていないとか、あるいはまるごと投稿できていないなんてこともあるかもしれないと思い、でも上記の手紙のことを連想して「それならそれでいいか」と思うに至りました。

笠原メイの手紙は「ねじまき鳥さん」に届かず、その内容は小説の読者のみが知ることとなりました。では投稿されていなかったメールは…果たしてどこへ行き着くのでしょうか。


長かった旅は明日で終わり、心機一転、一から新しい生活を立ち上げることになると思います。気が向けば何か後記を書くかもしれません(少なくとも一本歯のことは報告の意味で書くつもりです)。

南無大師遍照金剛。

そして結願へ

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56日目の今日は86番志度寺そばの宿から出発し、87番長尾寺、女体山を経て88番大窪寺に到達しました(着いたのが17時半だったので納経は明日の朝一)。

写真は女体山の山頂付近の遍路道と、山から一望できる松山市の街並みです。一本歯でロッククライミングをすることになるとは…

足首の状態が一時よりも良いので、あと2日歩いて1番に戻ることにしました。あとはなだらかなアスファルト道を残すのみですが、最後まで気を抜かずに歩きます。

天狗のお堂

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今日行った85番八栗寺にありました(本堂横の石段を上る)。讃岐三大天狗が一人、中将坊を祀っています。お堂の横に数多くの一本歯が奉納されていました。

お遍路天狗としてきっちりお参りしてきました。