human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

マジックミラーの「閉鎖系多重反射」の怪

先の記事を書いていて、最後に読み返す時に、別の進路へ派生する思いつきがもう一つあったことを思い出しました。
cheechoff.hatenadiary.jp
以下の引用は再掲です。

「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

「ラディカルの現在形」p.155(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

下線部について、他者によってアイデンティティを確立するのは、原理的にはこちらが主流で、個性の自己確立という物語が補助である、と先に書きました。
実際は、社会集団の維持のためにアイデンティティが成立する過程は、この両者がバランスをとって進行するのだと思います。
このメカニズムは、歴史的にみて過去も現在も、変わらないように見える。

けれど実は、現代では事情が違ってきているかもしれない、というのがその「もう一つ」です。



あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

資本主義・消費至上社会における「理想の消費者」像は、上記のアイデンティティ確立において、「こちら」、上記の主流が100%であるという構成をもちます。
商品の購入、サービスの利用を通じてなりたい自分になっていく、「なりたい自分」に近づくプロセスの全てがそれら消費活動によって成立しているなら、その「なりたい自分」は自分以外の誰かが考え出したものである。


上で「バランス」と書いたこと、それに対してここで「100%」と書いたことの意味ですが、

自分が「他者がこう思う自分」になる、そういうプロセスと、「他者がこう思う自分」から外れていくプロセス、この2つが経時的に混ざり合うことでアイデンティティが形を成していくが、混ざり合うがゆえにその形成プロセスに終わりはなく、それが人が変化し続けるエネルギィの源となる
ところが、自分が「他者がこう思う自分」になるプロセスだけでアイデンティティを組み立てようとすると、停滞する。
科学技術の発展による生活機器の進化とか、ファッションの変化とか、そういうことが(一人の人間が生きている間に)ずっと続いても、そのこととは関係なく、停滞する。
選択肢が多くあること、そして選択肢の個々が改新されること、そのことが問題なのではなく、「明示的な選択肢から選んで自己確立する」という一つの物語しかないことが問題である。

 × × ×

何か堅苦しい話になりましたが、最初に書きたかったのはもっとシンプルなことでした。
三たび、引用します。

あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

日本のトップの人からしてそうなんですが、みんながみんな、これを「やりっぱなし」のような気がふとしたのでした。


二人の人間が、お互いを認め合うという場合、その二人はもちろん、異なった個性を備えている必要があります。
自分とは違う人間から、その違いを認められ、自分という存在を受け入れられることで、他者の承認に基づくアイデンティティの確立がなされる。

たとえばこれが、自分と同じ人間だとお互いが相手に対して思う、二人の人間のあいだで起こるとどうなるか?
「あなたが私についてこう思う、それは私がなりたい(なっている)と思うそれである。」
たとえばお互いが相手に対してこう思っている二人が、互いに承認し合うと、何が起こるか?

そういう人々の頭の中において、他者の定義はきっと、
「自分にとって未知なる者である」
ではなく、
「自分がこう思うような者が他者である」
ということになっている。

それを「気持ちがいい」と思ってしまえば、もうそれまでのことである。

人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。

ラディカルの未来形、マジックミラー・シティ、意識活動の質的変化

 風紀係の教師の前に立たされた非行少女は、ただ一つのことを知っている。それは、自分の言葉がけっして相手に受けとめられることはないということ、もし受けとめられることがあれば、それは、相手が虚偽であるか、自分が虚偽であるか、そのどちらかの場合だけだ、ということである。(…)
「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

(…)

 ゴダールの初期の映画『勝手にしやがれ』は、細部は違っているかもしれないが、大筋のところ、ほぼこんな映画だ。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルという「ちんぴら」がいる。ジーン・セバーグ演じるパトリシアというアメリカ人の女子留学生がいる。二人は知り合い、恋仲になり、やがて、ミシェルがつまらないことで警察に追われる身になり、二人して南仏に逃げる。(…)パトリシアはさんざん迷ったあげく、警察に密告するが、してしまってすぐに後悔し、ミシェルに、いま自分があなたを警察に売ったから、もうすぐ警察がくる、早く逃げろ、と言う。しかしミシェルは腰をあげようとしない。彼はこんなことを言う、「おまえがそうしたのなら、俺は逃げない」。彼は、俺はおまえを愛している、愛しているおまえが売ったのなら、俺は売られる、そう答えるのである。

「ラディカルの現在形」p.153-154,155,156(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

 森田[吉本ばなな『キッチン』原作の映画監督]の豪華なキッチン、高嶺[擬架空の沖縄映画『パラダイス・ビュー』の監督]の「通じさせなくする」字幕、松田[優作、リドリー・スコットブラック・レイン』の出演俳優]の役者絵の顔。ぼく達はここで、何を前にしているのだろう。僕たちはここで、ある意志のかたちを前にしている。その意志のかたちは奇妙な表情をしている。いまは無意識が力をもつ時代、しかも無意識でいることがことのほか難しい時代だということだが、無意識でいることができない場合、ちょうどその分だけ、たぶん人はラディカルにならざるをえない。ところで、そういう時、人は、ただ単にラディカルなのだ。そのことに意味はない。人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。
 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。

同上 p.167

「無意識でいることがことのほか難しい時代」。

僕は前に、現代人はもう無垢ではいられない、ということについて考えたことがあります。

一つ前の「自覚の時代」の記事とつながる話ですが、個人が入手できる情報が増え、その方法が簡便になり、ついにはその方法の行使が「回避できない」、意識して遮断しても間断なく情報が流れ込んでくる現代で、人は無知を装うことしかできない、絶滅危惧種となった「無垢なる人」の存在が、架空の物語のなかでしか認知されない。

情報の奔流を冷静に見定め、波乗りのごとくその上方で己をコントロールする技術を、またその勇気を持たない大多数の人間は、無秩序に見える濁流に呑まれまいと、興味の対象を絞り切り、その他に対しては無関心を決め込む。

専門家以外は無知となり、当の専門家は異分野において無知を晒し、その姿勢がまかり通って、厚顔無恥歩行者天国を埋め尽くす。

たぶんそれは脳化社会の洗練の過程で起こる生物的な反応で、必然といえばそうなのかもしれません。
そして自覚とは、その意味で反生物的でありながら、反生物的な遠望によって生物種の存続を試みる「キャッチャー」、断崖の目前で羊の群れを押し留める意識の機能である。


それはよくて。
「私は私ではなく、あなたが私について思っているもの、それが『私』だ」という答え、「お前は誰か」という問いに対するこの答えには、マルクスのいう「命がけの跳躍」がある、と加藤氏は言う。
そこには、あるラディカリズムが含まれている。

「他者とは自分を映す鏡である」という見方からすれば、いやそれを極端化すればということかもですが、アイデンティティの確立が全的に他者に依存することも、そう奇妙には思われない。
自分は自分以外の他人ではなくほかならぬ独自の己のことである、そういう自己認識を自分で立ち上げ自己了解する。これは一つの物語であり、たぶん人間社会の文脈に「個性」という考え方が力を持ち、その力が社会の発展を促すと考えられた時に補助的に役立つ目的を担った物語であり、原理的にいえばそれは「補助」である。

ラディカリズムというのは、建前や本音が実用や遺物とともにごっちゃになった複雑怪奇な現在進行形に対して、ある特定の原理を基準に弁証法を推し進める、そのことで現在に新たな角度から光をあてる一つの手法です。
だから、そう呼ばれ始めて、周囲に認識されることになったラディカリズムは、人々が自分の生活や認識の中からは思いもしない姿形を、その生活や認識の中に浮かび上がらせる力を持つ。その意味で、一つの文脈をもった特定分野のラディカリズムは、いつか色褪せる運命をその起源から負っている。

そして、特定分野のというのでなく、思想としてのラディカリズムの貫徹というのは、鮮度を失い、色褪せて通俗化した光の中にいて、その外から「ここに射し得る新たな光」を幻視する、その可能性を持ち続けることである。


本題に入る前から話を大きくしてしまいましたが。

上で後者の引用は、「ラディカルの現在形」という章の末尾の部分ですが、その最後の一文を省いています。
その省いた一文とは、こういうものです。

 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。いま、ラディカルであることに、「意味」はないのだ

小論の最後に結論のように断定して書かれていますが、これは意見ではないように読めました。
つまり、「ラディカルであることに意味はない」、これはラディカルの定義です。
意味の連なりを遡求し続けた先の消失点(つまりその道行きは漸近的でしかない)に、意味は存在しない。

このように書けば、加藤氏のこの小論が「結論なし」と読める、と言っているようですが、そうかもしれないと思いつつ、そうでもないとも思えるのです。
というのは、ラディカリズムをラディカルに分析するのはナンセンスであって(文字通りですね笑)、僕が本を読む時はいつでも、その文章をプラグマティズムに基づいて判断する自分(の一部)がいます。

その僕自身の一部、僕が素直だと自己認識するその一部は、小論の結びの一文は「問い」であると認識しました。
結論に問いが差し出されること、これこそが批評の存在意義だからです。

 × × ×

やっと本題です。

加藤氏の評論の中に、「マジックミラー」という言葉が出てきます。
映画『パラダイス・ビュー』に対する氏の分析の中にそれはあります。

 つまり、まず『パラダイス・ビュー』という沖縄で撮られた、琉球語の、沖縄の映画が作品として存在し、それを日本の観客にも見せるため、字幕が付与された、というのではない。アメリカの英語の映画が、アメリカの観客のためにまず作られ、そこに字幕をつけて、日本に輸出された、という場合の字幕の用法とは全く異なっている。この映画は、日本の観客にむけて作られている。日本の観客にむけて作られながら、それではこの映画は、なぜ観客に「通じない」言葉で語られるのか。この映画は僕たちにそう考えさせる。というより、この映画はぼく達にそう考えさせるためにこそ、まず「通じない」言葉で作られ、それを翻訳しながらそれが「翻訳」にすぎないことを、そのむこうには翻訳されるべき何かがあることを、ぼく達に思い知らせるように作られているのである。それは素通しのガラスなのではない。しかしたんなる遮蔽幕だというのでもない。それは字幕なのだ。鏡というより、それはぼく達の顔、ステレオタイプとしてのオキナワを映しだす、マジックミラーだと断わって差しだされた鏡なのである。
(…)
この映画を作らせたのはあなた方だ。あなた方の沖縄にたいするステレオタイプ像がこの映画の原動力なのだ。ここから僕たちはこうした声を聞く。ぼく達の前にあるのは、マジック・ミラーなのだ。ぼく達にそのむこうは見えない。見えるのは僕たちの姿だ。そのむこうから誰かが見ている。ぼく達は、たしかにこの映画を前に、そんな落ちつかない気持を味わうのである。

同上 p.159-160,161

ここを読んで思ったことの一つですが、

隆盛を極めた脳化社会の結実である都市において、さらにはその思想を純粋培養して成長し、過去に電脳都市と異名をとったネット空間において、店舗や住宅の一つひとつが、またデザインやガジェットといった要素の一つひとつが、マジックミラーであり、その機能を帯びているのだということ。
そこで人が目にするものの各々が、その人の欲望や不満を映し出す、つまり人は身辺周囲のそこらじゅうで自分自身を見せつけられる。
と同時に、己が映し身の奥には常に、自分ではない誰かの顔が、顕わであり密やかな思惑が透けて見えている。


そしてもう一つ、その続きですが、
「マジックミラーの多重反射」という現象を思いつき、その意味するところを考えてみたいと思ったのでした。
以下はその考察です。

ある物質に入射する光は、3通りの経過を歩みます。
透過する、反射する、あるいは吸収される。
物体は光に関して、透過率、反射率、吸収率という各々その物体固有の物性値を持っており(物理科学がそう定めた、ということですが)、パーセントで表される3者を足せば、ちょうど1になる。

光の吸収というのは、要するに物質内の光路における波動の減衰ということで、話が複雑になるのでここでは無視します。
つまり、物体は光の一部を反射し、残りを透過させる、と考える。

マジックミラーは、光を透過しない通常の鏡(フルミラー)と違って、いくらか光が透過するように材料や膜の積層構造を調整した鏡です。
マジックミラーの2つの表面に光学的な機能差はなく、マジックミラーが境界となっている2つの空間の明るさの違いによって、鏡に見える側の面と光が透過して見える側の面とがあるように錯覚させるものです。
マジックミラータイプのサングラスは、装着した人の顔面(=サングラスと両目のあいだの空間)が暗く、同時に彼が明るい場所にいるという条件を満たすことで、目線を他人に見られずに彼の視界を確保することができます。

もちろん、直上の文脈における「マジック・ミラー」とは比喩であって、ここでも同じくメタファとして考えています。

たとえば。
警察ドラマの取調室にある鏡がマジックミラーだとわかるのは、それが知識として普及しているからであって、その奥に誰かがいるかもしれないという判断に知識が先行しています。
いっぽうで、商品や建物など人工物とはいえ本来は無機的な物体、さらには多様なコンテンツを含むネット上の無数のHPは、誰かの意図が介在し、その存在に何らかの目的があることが一目瞭然である点において、それらはマジックミラー的であると言える。

アマゾンの奥地を歩きながら現地人が合切袋に放り込む物々に映り込むのは、ただ現地人の思考のみである。
それと同じことは、テレビCMで「あなたの自己実現のために」と喧伝される健康器具を目にする消費社会の構成員には起こりえない。

もっと言えば、「鏡(フルミラー)としての他者」は己の欲求を押し隠して真摯にコミュニケーションをとる奥ゆかしい存在であるのに対し、傍若無人で滾る自己顕示欲のなすがまま他人を道具として利用することしか考えない人間は、よくて「ハーフミラーとしての他者」、そう捉えるのもつらい一般人には(他者は自己の鏡である、という観念を外せないばかりに)自分が汚物のように思われて直視をためらわれる存在、ということになる。

 × × ×

さて。

考えたいのは「多重反射」のほうです。
つまり、一つの商品には多くの人間の多様な意思や欲望が含まれており、ある一人の言動はその人以外の何人もの意図が介在してその影響が窺われる、というような…
書く前からややこしいと分かっていましたが、めんどくさそうですね。

方向性を変えましょう。


人工物の少なかった時代、たとえばアニミズムの繁栄する古代日本を思うと、八百万の神というのは、自然物という思惑のないものに対して思惑を読み取るという感受性の象徴です。
現代はたぶんその、逆をいっています。
人工物に取り囲まれた生活を生きる現代人は、思惑だらけの物質世界から、可能な限り思惑を読み取るまいと努力することで命脈を繋いでいる。

いささか大げさに二極化して書きましたが、この「逆」の意味するところは、オーバ・キャパシティ、です。
どちらも意識活動の必然の目指すところなわけで、つまり程度問題だ…
と書いて結論にしようと思ったそばから、そうではないという気がムラムラとしてきました。

たぶん後者は、「質的変化」を伴っている。


どんどん論理が粗っぽくなっているのは承知ですが、これは僕の脳キャパシティとMacBookのバッテリィの問題なので悪しからず。

「システム」のことを、これまで何度も書いてきましたが、

ある時代から「システム」自身が思考を持つようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた
上に「意識活動の必然」という書き方をしたのは、夢・希望を抱いて実現を目指すとか、課題や問題の解決といったことが、生活環境がどう変わっても、ある量的な範囲で実行されることが人間の自然である、というような意味ですが、その意識活動の一部を「システム」が代替するようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた

この一部代替ということが、上の「質的変化」の意味するところで、これはもしかしたら、「意識活動の必然」の範疇を外れるものではないか。


高齢化社会先進国日本」と同じように、この事態が歴史に前例のないものだという認識に立てば、それこそ背筋が伸びて頭も回ろうというものです。

 × × ×

ホーロー質

ホーロー質

自覚の祝祭

いつまでも読み継がれる、古びない本があります。

でも、本とは本来、そのような意図でつくられたものです。

内容が古くなって、現代では読む「価値」がない本。
この「価値」は現代が下した判断です。

だとすれば、それを疑うことは、古びた本を復活させることになる。
現在価値がないという判断を覆すことが、新たな価値の創造となる

あらゆる本が、そのような可能性の、その一翼を秘めています。
そしてそれが一翼だと言うからには、飛び立つための翼がもう一枚ある。

読み手、しかもそれは創造的な読み手です。


温故知新という言葉を連想し、その言い換えを考えます。
インカーネーション

 × × ×

いつまでも読む価値のある本。
それは決して、内容が古びないことだけを意味しない。
書いてあることは、古い昔の、当時のこと。
今では存在しないこと、起こりえないこと。

でも、人が書いたものなら、そこに「その人」が現れる。
描写の視点、出来事に対する思考、分析。
純粋な客観があり得ないという、認識の限界。
その限界こそが、可能性の、あらゆる本の無限の可能性の源。

限界が無限を生み出すパラドックス
これは意識の無矛盾的な性質です。

 × × ×

『オルターナティヴズ』(イバン・イリイチ)は古い本なのですが、読む人に「今こそこの本を読むべきだ」と思わせる、強い力を持った本です。
「はじめに」の初めには、こうあります。

 この本の中の各章は、ある種の確定性の性質を問い直そうとする私の努力を記録したものである。したがって、それぞれがごまかしを──われわれの諸制度の一つの中に組みこまれたごまかしを対象に取りあげている。諸制度は、いろいろな確定性を生むものである。そして、まともに受けとめた場合、確定性は心情を死んだものとし、想像力に足かせをかける。私の言葉──怒りに満ちたものや情熱的なもの、技巧的なものやすなおなもの──が、微笑みを、したがって新しい自由をも引き起こしてほしい──たとえ自由がそれなりの代価を払って得られるものであるにしても──というのが、私のつねに変わらぬ願いである。

イバン・イリイチ / 尾崎浩訳『オルターナティヴズ 制度変革の提唱』新評論、1985、p.7

この一節に感じるところがあれば、その人はイリイチに招かれている。
彼の招待を受けること、積極性を賦活するための、最初の受動的行動。


それはよくて。
引用の「諸制度」、これは僕がいつも「システム」と呼んでいるものです。
たとえば、「卵と壁」(@村上春樹)の、「壁」もそう。

明文化された法律、常識や慣習。
数十行のプログラム(たとえばC言語とか)から、全国の宅配流通網を制御するネットワークまで。
社会集団の秩序を効率的に維持するための仕組み。
その始まりには、必ずある目的をもっていたもの。

たとえば「システム」をこのように意味付けるとき、「システム」は有史以来、拡大の一途を辿っています。
また、あらゆる「システム」は、ある目的をもとに生まれた当初は、人の頭が考えたという意味で身の丈を備えているものです。
その身の丈は、「システム」が集団に適用され、運用され、力を増していくごとに、形を変えていく。
 「システム」的な身の丈が、集団の成員一人ひとりの身の丈に変化する場合。
 あるいは、成員の感覚に関係なく、「システム」がもっていた身の丈が失われていく場合。

書きながら思いついたんですが、高度情報化社会が到来してから、「システム」の(変化の)主要な形は、前者から後者に切り替わったのではないか。
設立時の目的が見失われても、変わらず運用が続いている、形骸化した「システム」。
みんながやっているから(という理由付けは日本特有であるという認識はもう古いのかもしれません)、変えるのが面倒だから、という生物的な惰性が生かし続けている、非生物的な「システム」。
こういったものはすべて、後者の「システム」の中にあるのではないか。


話を戻しますが、『オルターナティヴズ』には、後者の「システム」に対するイリイチの根本的な疑義が書かれています。
その場面は1960年代のアメリカ、プエリトリコ、そしてそのトピックはキリスト教会に関するもの。
だから、「そんな二世代以上前の、海外の、宗教の話なんて関係ない」と、興味を切り捨てることは簡単にできる。
でも、抽象的にとらえれば、いつの時代のどこにでも起こる問題に対する、一人の人間の身の丈の思考(問題把握、分析、そして抗議と提案)が、この本では展開されている。
だから、いつの時代のどこにでも起こる問題に遭遇し、「これは立ち止まって考えなきゃな」と思った人は、時代、国に関係なく、イリイチに招かれている。

 × × ×

最初に書こうとしたことに戻ります。

この本の現タイトルは "CELEBRATION OF AWARENESS" 、「自覚の祝祭」というものです。
本の内容を鑑みて邦訳が「オルターナティヴズ」(代替案)になったのでしょうが、自覚という言葉が好きな僕は、この本を「イリイチが書いたんだ…」とわりと平坦な気持ちで手に取り、現タイトルを知ってから俄かに熟読する気になったのでした。
もしこの本が、新たな訳者を得て再版となるようなことがあれば、「自覚」の語をぜひタイトルに入れてもらいたいものです。

さておき。

本書の全体、つまり各章とも、上に引用した「諸制度の…ごまかし」に対する疑義と提言であり、その提言は制度に属する人々の一人ひとりに対して向けられ、彼らの「自覚」が肝なのだというメッセージが込められています。
だから、AWARENESSのほうは本書に横溢していて、ところでCELEBRATIONとは何か?

と、読みながら思っていたわけではないのですが、このことを思い出させてくれたのが7章「無力な教会」でした。
その中から一節を引用します。

 変化の自覚は、個人的責任の意識を高め、その利益を分かち合うよう促す。したがって変化の自覚は、単に祝祭への呼びかけに導くだけでなく、仕事(ワーク)への──他の人たちが労苦や幻想から自己を解放することを不可能にしている障害物の除去への──呼びかけにも導く。
 社会的変化とはつねに、社会構造の変化、公式かされた諸価値の変化、そして最後に社会的性格の変化の意味を含んでいる。これら三つの要因は工夫や創造性を束縛するものであり、こうした拘束に反対する行動を起こすことは、それらを足かせとして実感する人びとにとっての責任となる。

同上 p.134

これは、自覚の責任。
「責任の利益」などという言葉の並びをもはや誰も使わない現代には、清新に響きます。

 われわれはいま、人生の指導的な力としてのイデオロギー、信条、宗教の束縛から人間を解放しようとする、一世紀にわたる闘争の終点に立っている。神がキリストの形をとった託身インカーネーション)の意義に関する非テーマ的な自覚が浮上してきている。それは人生の体験に対し、堂々と「イエス」と言える能力である
 新しい対極が浮上している。物ごとの操作と対人間関係の間にみられる緊張*1を見通す日々の洞察も生まれている
 われわれは、有用なものを前にしたばかばかしいとされるものの自主性を、また目的あるものに対立する無償のもの、合理化・計画化されたものと対立する自発的なもの、さらに創意に富んだ解決策により可能となった創造的表現のそれぞれ自主性を主張できるようになった
 われわれが、社会的諸問題に対し目的をもって、計画された、創意に富んだ解決策を達成するには、なお長時間にわたりイデオロギー的理由づけを必要とすることだろう。意識して世俗的な立場をとるイデオロギーに、この仕事を任せればよい。
 私としては、全く何らの目的もなしに、私の信仰を祝うことにしたい。

同上 p.137-138

ここがまさに、自覚の祝祭、「自覚の時代に対するお祝いの言葉」だと感じられました。
そしてここを読んで、「今は良い時代なのかもしれない」と思いました。

物的な豊かさ、という意味ではありません。
精神的な意味、つまり「自覚」にとって、いちばん良い時代だということです。



「八方塞がり」ということがない。

現実生活として、苦しい人、追い詰められている人はたくさんいるかもしれない。
でも、彼らには逃げ道がある、あり得る。
そして彼らを救いたい人にとっても、その手段があり得る。
自覚はつねに、当面の問題に対するオルタナティヴを、次善策、プランBを提示できるのです。


選択肢が、商品の陳列棚のように、無数にあるのがよいこととは限らない。

ただ、選択肢が、己自身が生み出したそれが、もう一つあること。
自覚は、この「希望」の唯一の源なのです。

 つまり、メンタルストレスというのは、メンタルストレスという自存的な不快のことではなくて、「自分はこの不快な状況をどうすることもできない」という無力感、無能感とセットになったときにはじめて機能するものだった。ですから、どんな嫌なことがあっても、自分がスイッチをオフにした瞬間にこの嫌な気分はたちまち消えると思っていると、つまり自分は自分の状況をきちんとハンドルできていて、心身の状態をコントロールできるという確信があると、メンタルストレスは発症しない。実際にストレスを解決する手段を行使しなくても、そういう手段を持っていると思うだけで、ストレスはネガティブな効果を及ぼすことができなくなるんです。そういう話を[池谷裕二さんという脳科学の方の講演会で]うかがいました。

「第11講 鏡像と共─身体形成」p.214(内田樹『街場の文体論』)

 × × ×

オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

*1:翻訳される前の文章をぜひ読んでみたいものですが、この部分は「壁と卵」、システムと個人、と言い換えられるのではないでしょうか。

「鎖書店」説明ページのための文章

このブログにはほとんど書いてこなかったのですが、現在「新しいコンセプトのネット古書店」の開業準備中で、半年以上前からコツコツと進めていました。

今日はその準備の大詰めで、販売HPの説明書き(要するに「売り文句」)を書いていました。
「鎖書店」と命名したものについて、長い間考え、書き溜めていたメモを読み返し、それから「えいや」で一筆書きのように文章を打ち込みました。
推敲をあまりしていない、いわば初稿ですが、紹介のため転載しておきます。

薄利多売の対極をゆく、キーワードは「非消費者的読書」です。

以下の販売HPに商品データをアップロードして、近々開店する予定です。
本好きな方も、普段本を読まない方も、長いですが一読して興味を持たれましたら、ぜひ当「鎖書店」をご利用下さい。

ブリコラジール=サンタナ鎖書店


 × × ×

本HPにお越しいただき、ありがとうございます。
このショップ、つまり鎖書店は、利用者と本との間に「新しい出会い」が生まれることを願って立ち上げました。

鎖書とは、なんらかの関係で繋がった複数の(主に3冊の)本のことをいいます。もちろん造語です。

一冊の本はふつう、著者が本の中に書いた文章を、その本を手に取った読者が読むものです。
つまり本を介して、著者と読者が一対一で相対するわけで、著者と読者との関係はその一冊の中で閉じています。
上下巻やシリーズものは、複数の本の間に関係がある。また、同じ著者の本、同じジャンルの本…と、ある枠組みを考えれば、その中に含まれる複数の本も、互いに関係をもつ。こういった関係はすべて、外的な、客観的な関係です。
その、客観的な関係に対して、「主観的な関係」を考えることができます。
簡単に言えば、主観的な関係とは例えば、「俺(私)が読む本は、自分が読むという理由によって互いに関係がある」といったものです。ある人の家の、本棚にある複数の本は、それらがそこにあるというだけで関係がある。
あるいは、「本Aを読んでいる(読み終わった)時に本Bのことが頭に浮かんだから、本Aと本Bとは関係がある」という形もそうです。
一人の人間の経験をよりどころとして並べ置かれる本たちは、主観的な関係によって結ばれている。

鎖書とはまさに、店主(僕)の独断と偏見という主観的な関係をもつ本たちです。
オフィスに自作した書庫にある、僕が読んだものも未読のものも混ぜこぜの蔵書(複数の読書家から引き取った古本です)から、「連想」という意識活動一点に方針を絞って選ばれた、当の本たちにとっても思いも寄らない組み合わせです。
そんな訳の分からない、こじつけで意味なんてないかもしれない本のセットを、誰が好んで買うのか?
と、そう考えるのが常識かもしれません。


僕は最初に「新しい出会い」を生み出したいと書きました。
ふつうに、つまり書店で、古本屋で、あるいはAmazonで本を買うのとは違う形での本との出会いを実現させたい。
では、鎖書店で本を買うことの、なにが「新しい」のか?

ポイントは、ここで本を買おうと思うあなたは、ある鎖書の価値、セットで買うことになる三冊の本の価値を、よく分かっていないという点にあります。

たとえば。
鎖書のうちのある一冊を読んでみたい、でもあとの二冊は特に興味がない。
と、あなたがそう思った時、「賢い消費者」的な感覚からすれば、その一冊だけを別のところで買えばいい。
俺(私)がもし、その一冊のことを(読む前なのに)よく分かっていて、読み終えれば自分がどのような満足を得るかも予想できていて、コンビニでサンドイッチを買うのと同じように、買って食べる前と後とで(お腹の状態を除いて)自分が何も変わらないことを望んでいるのならば、その一冊だけを、一番安くて、ついでに手間のかからない手段で買えばいい。
でも、と考える。
でも、そうではなく、その一冊のことを自分はよく知らないし、レビューも見ていないけれど、なぜか興味が湧いて一度読んでみたいと思っており、読んだあとに何が起こるか想像できない(面白い、またはつまらないと思うかもしれない。あるいは自分の感想や評価なんてどうでもよくなるくらい価値観が変わるかもしれない)、それが不安ではあるが、その「結果が予測できない」こと自体を楽しむ気持ちが、俺(私)にはある。
何よりも、その一冊が内蔵している未知と、それを読んで起こりうる自分の変化に対する好奇心がある。

もし、あなたが、本に対してそのような気持ちを抱いているとすれば、その一冊が「単なる一冊」ではなく「鎖書」という形であなたの目の前にあることは、あなたの好奇心をさらに刺激するきっかけとなるはずです。

僕は、本は「消費するもの」ではないと考えています。
理想の消費者は、商品の値段がその使用価値に見合うかどうかをしっかりと見定め、価値と値段の差し引きがマイナスにならない(ひいては最大化する)場合に、購入を決断します。
しかし、書店に並ぶ本に対して、同じ姿勢がとれるでしょうか?
少なくとも僕は、イエスと答えることができません。
本の価値は、それを使い切るまで分からず(厳密に言えば「使い切る」ことが本当に可能かどうかも疑問です)、かつ一人ひとりにおいて価値の大きさが異なる。つまり、本の本来の価値は、お金に換算できない(巷に並ぶ数字は流通価格という間に合わせのものです)ことはもちろん、客観的な指標もありません。
言い方を変えれば、本のほんとうの価値は読み手が決める、そしてその責任を読者が負うということです。


以上、ショップの説明について散漫に書いてきましたが、簡単にまとめてみます。

本HPを訪れた時に、「余計な本がくっついている」「ムダに値段が高い」と思われる方は当然いると思います。
それは消費者的感覚として、正しい反応です。
ただ、そのそれぞれに理由はあります。
「鎖書」という形式で販売するのは、一冊の本が(読者の中で)その一冊が持つ以上に発展する可能性を込めているためです。
「値段が高い」のは、そこに、手前勝手であれ店主の選書料と、読み手自身が本の価値を見出すと自分に発破をかけるための散銭が含まれているとお考え下さい。

これらのことに納得いただいて(しなくてもよいのですが)、当鎖書店をご利用いただけますと幸いです。

敬具

店主

子どもに「かまう」人の視線と秩序

「でも子供を可愛がるというのとは、ちょっと違うんです。なんと言えばいいんだろう? 子供にかまう、という方が近いかな」
 かまう?
「うちにも子供がいるんですが、犬伏はとにかくかまうんです。子供が好きなことはたしかなんだけど、可愛がるというのとはちょっと違うな。かまうんです」
(…)
 犬伏は炎天下、三キロの周回コースを黙々と走り続ける。二時間二十五分の自己ベストしか持たないときにも、自分はシドニーに行けると信じていた男。それが犬伏というランナーであり、人間である。(…)そしておそらくはクールなアティチュードの奥に隠されている手つかずの少年の心、長い夢を見続けることのできる力。ポイントの尖った神経。ある部分では、ある意味では、彼自身がまだ子供(infant)なのだ。だからこそ、ほかの子供たちをかまわずにはいられないのだ。

「2000年6月18日 広島」p.43-44(村上春樹『Sydney!』文藝春秋)太字は本文傍点部

誰かに言われたか、自分で言い始めたのか、最初がどうだったか覚えていませんが、僕は子どもに好かれるとよく言われます。
最初のうちは、「僕自身は子どもがあまり好きじゃないけどね」と半ば本気で返していたんですが、それがあまりよくない印象になるらしく、いつからか「そうかもしれない」と曖昧に答えるようになりました。

子どもがあまり好きではない、というか得意ではないのは本当です。
なぜかというと、実際にそういう状況に陥ったことはないはずですが(だから小説を読んだ影響でしょうか)、自分がその子どもの責任を負っている状況でその子どもが手に負えなくなること(特に衆人環視の場において)を恐れているからです。
だから、自分と血の繋がった子どもをもつことに対しては、少なくとも一つ、想像上の恐怖がある。
もちろん、そんな些細なことは、本当に子の親になってしまえば当事者的プラグマティズムで簡単に乗り越えられるだろう、という楽観も同時にあります。

その一方で、子どもを観察するのは好きなのです。
自分と一緒にいる子どもに対して、あるいは街中で(ある一定の時間、固定的に)視界に入る子どもに対して、自分の心に余裕があれば、その子どもをじっと見る。
注意力を以って集中して見るというよりは、こちらの頭を空っぽにして視界の中心にその子どもを置く、という感じ。
いや、正確にいえば、そうやって視界に置くことで、こちらの頭が空っぽになる。

たぶん、子どもからすれば、そのような視線を受け止めることで、嬉しくなるのだと思います。
「ボクが何をしても怒られない、しかも黙って見過ごすというのではなく、興味を持ってこちらに注目してくれる」
親は四六時中いっしょにいて、彼にかけられる言葉や視線の大半が、注意や制止といった躾になりがちになる。
彼の生活における日常的な経験、そしてそれに含まれる教育効果によって、彼は街で出会うほとんどの大人たちの視線も同じように感じるようになる。
そういった彼の身の回りの大人たちからは滅多にもらえない、純粋な興味を含んだ視線を受け止めれば、彼の気持ちは浮き立ってくる。

目を合わせているうちに、彼の心をすっぽり覆っていたリミッターが、少しずつ解けていく。
果たしてどちらが先なのか、子どもの頭も、次第に空っぽになってゆく。


犬伏選手についての、監督の人物評価、そしてハルキ氏のコメントにある「かまう」、「かまわずにはいられない」という表現に出会って、僕は自分もそういう人間かもしれない、と思いました。
「可愛がるというのとはちょっと違う」、これも当を得ている。
そういう人間が親に向いているかどうかはここでは問題ではありません(ハルキ氏のエッセイの中ではこの点、ポジティブに書かれています)。
僕は抜粋部を読んで自分のことを連想した時に、「かまう」とはどういうことだろうか、と興味が湧きました。
ハルキ氏の筆致は言い足りないわけではなく、言い過ぎでないと同時に、行間に込められた意味がある。
その意味を、言葉にしてみようと思ったのでした。
(言うまでもなく、行間とは「読んだもの勝ち」の代物なのです)

 × × ×

子どもとは自然である、とは養老孟司氏によって膾炙するに至った名言です。

躾、つまり教育は、自然たる子どもを社会に適応させるために社会集団が採用したシステムです。
「自然」というのは性質の名であって、一般的には子どもが成長するにつれ、この性質は薄れていく。
しかしその程度差はケースバイケースであって、妙に大人びた子どももいれば、子供心を持ち続ける大人もいる。
ちなみに、消費社会が興隆を極めて増加の一途にあるのが前者ですが、幼児的な振る舞いで政治を混乱させその価値を地に貶める壮老年、あるいは一億総ガキ化と呼ばれるものが指す対象は後者ではありません。
日本社会の現状を表す「幼児的」というキーワードは、子どもの持つ「自然」という性質ではなく、躾による社会化を要する子どもの「自然と規範の混交物」を指している。
自然を制御するための規範が、自然の気まぐれによってコロコロ変わる、これは「螺旋」のプロセスの範疇か、それともコースアウトの兆候か。

閑話休題

自然とは、別の言い方をすれば無秩序、カオスです。
自然という性質が、いや自然そのものでもいいのですが、猛威を振るえば社会は壊滅する。
それに対する本質的な恐れが、社会における教育というシステムの駆動源です。
でも自然は、それが完璧に制御されると、死んでしまう。
秩序の実現は、カオスの一掃ではなく、カオスとの共存という針路に可能性をみる。
すなわち自然は、秩序のなかでときに、賦活されねばならない。

…たぶん、そういう視線があるのだと思います(超飛躍)。
学校や家庭に縛られた子どもが歓喜するような、同時に、平和な生活を守らんとする大人が恐怖(疑惑)を抱くような。

僕は、時にそういう目で人を(というか視界に入る全てを)見られる人間でありたいし、(今の自分がどうだという話は別にして)年を経ても変わらずにいたいと思います。
そのような人間がいるとすれば、彼は、秩序破壊者であると共に、秩序維持者でもあるのです。
彼がそのどちらであるかは、彼自身にとってあまり意味はなく、彼が決めるわけでもない。
螺旋を描く秩序のプロセスのみが決定者であり、彼はそれに粛々と従うのみです。

 × × ×

シドニー!

シドニー!

Can one speak about unspeakable? (4)


言葉は「ないものをあらしめる」ために生まれた。
その場にあるもの、そばにいる人を名指す必要は、本来はない。
身振りで伝わるからだ。

時間的に、または空間的に、「ある」が「ない」に変わったもの。
あるはずがなくなったもの、あってほしいがないもの。
今その人が感じる「ない」を「ある」にするために、
即物的な工夫では叶えられない願いが生まれた時に、
言葉が生まれた。

それは、祈りとも呼ばれる。

原始古代から現代に至るまで、一方的に「ない」ものがなくなっていく過程であった。
「ない」ものが少なくなる、「ある」ものが消えなくなる。
そうしたプロセスにおいて、言葉は祈りではなくなっていった。
言葉はだんだん、「あるものを名指す」ために用いられていった。
祈りは、その対象をどんどん失っていった。

言葉が祈りである目で見れば、現代は沈黙の時代である。
誰もが「ある」ものにしか関心を寄せなくなった。
「ある」がなくならないのに、存在しない「ない」には関心の持ちようがない。
だが、それは本当だろうか?


「ない」がなくなることは、「祈り」がなくなることである。
祈りは、「ある」、かつてはあったものである。
なくなったものへの深い関心の表現が、「祈り」である

なくなった「祈り」への言葉は、祈りとなる

そしてそれは一例に過ぎない。
「ない」がなくなることで、失われてしまったものたちがある。
それら、名もなき余韻に言葉を手向けること。
そうして、沈黙を破ること。

そして、再び「沈黙」に至ること。

祈りには、役目がある。
「ない」ものに対する祈りには、作法がある。
粛々と手順に従い、「ない」ものは、鎮まる。
一つの祈りには、一つの終わりがある。
役目を終え、祈りは「沈黙」へ至る。

全ての祈りが、世界から消えることはない。
それは生態系のようなものである。
一つの祈りが消え、また一つの祈りが生まれる。
祈りという命の循環は、「沈黙」とともにある。

祈りなき沈黙から、祈りとともにある「沈黙」へ
そして、
そのプロセスとしての雄弁を。

 × × ×

cheechoff.hatenadiary.jp
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Can one speak about unspeakable? (3)

(1)
(2)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ふむ。つい最近どこかで聞いたような表現じゃの」
「……」
「……」

「言うことがなくなって黙り込む、ということかな? もうおしまい?」
「いえ、ちょっと一人でデジャビュに浸っておりました」
デジャビュとな。あれは面白い現象じゃ。実はあれの親戚でベジャドゥというのがあってな……」
「その話はまたの機会にお伺いします」
「なんじゃ、つまらん。では早う進めんか」
「はい」

「キーワードがもう一つありまして、こちらから本筋に合流できそうな予感がしますので回り道をご容赦願いますが、『手がかりとしての否定』と、そう呼んでおきます」
「ふむ、そう来たか。斬って捨てるための否定、ではないということだろう?」
「その通りです。あらかじめ確立させたい論理があって、その論理を補強するというか、研ぎ澄ませる、夾雑物の排除としての否定ではない。その逆、という言い方もおかしいかもしれませんが、『手がかりとしての否定』は、何かを生み出すための否定なのです。そして、先走って言いますと、その何かとは『言葉では表現できないもの』なのです」
「話はわかる。が、一度具体例に落とし込んでみてはどうかね」

「うーん。その、何か微妙なものを言葉で表したい時に、それそのものではないが近いものを取り上げて、『Aと似ているが違う』『実質的にBと同じだがニュアンスが違う』と言ったりします。それらの言明は、目的のものを直接明示できていませんが、AやBという具体的な類似物を通じて、おぼろげながらそのイメージを浮かび上がらせる効果があります」
「…それが具体例かね?」
「えーと、論理の抽象度を一つ下げた例、ですかね。よくわかりませんが、もう少し具体的に言いますと…そうですね、SF小説なんかではよくありそうですが、実際には存在しないものがたくさん登場しますでしょう? ものにせよ現象にせよ、色や形で、即物的な描写もされますが、動的なイメージ喚起のために、現実に起きて実際に人が体験できる現象が比喩で用いられることもあるでしょう。タイムマシンで過去に移動する時に、宇宙空間のような、あるいは周囲が水中のようにぐにゃぐにゃと歪んだ空間を通過する、とか」
「小説は存在しないものを言葉であらしめるツールじゃからな。元を言えば、言葉そのものがそういうものでもあるが」
「でも、ちょっと話が違うような…もっとシンプルに、例えば、ある色を表現したいとします。ユーラシアの高地、人里離れ、木々に埋もれた秘境的な池の色。青、水色、群青色、エメラルドグリーン…細かい分類があるとはいえ色の名称だけでは到底不足で、清々しく晴れ渡り、風もなく凪いだアドリア海の色、みたいな、天候条件付きの具体的な場所を挙げて、そのアドリア海の色と沖縄のサンゴ礁が広がる浅瀬の色を足して二で割ったような、といった想像上の色の混交まで行われる。色を混ぜるイメージは、絵の具の赤と青を混ぜれば紫、とかコーヒーに牛乳を入れたらミルクコーヒーとか、そういう現実の体験が元になっている」
「ふむ。先の例と、何が違うのかな」
「…難しいですね。同じような違うような」

「君が言いたいのは、というか、今目指している状態はこうではないかね。言葉で表せないことをどうにかして、それそのものではないがどこかしら関連があるものを『此れに非ず』という形で次々に連ねていき、その例示が尽きる地点、手がかりのストックが全て動員済みとなって沈黙してしまう」
「はい、目指しているというか、その状態に至る直前直後についてのイメージから、何かを導こうとしているのだと思います」
「ほう。それで」
「…話を戻していただいたのに、また逸れそうですが、少し抽象的な議論に戻ります。言葉は何かを表現するためのツールである、という前提に立つと、『これはAである』という言明は、言葉の存在目的に適っているといえます。ある一つの単語に対して、一つのものや現象が辞書的に対応した時、その単語を発したり思い浮かべるたびに、対応したものや現象が喚起されることになります。ところが、『これはAではない』という言明は、これに対応するものや現象が一に定まっていません。原理的にいえば、Aではないと言われれば、Aではないあらゆるものが想定されることになります。実際は、否定はされつつも想定の手がかりがAにあるために、その言明によって人がイメージするのは、何がしかAと関係があるものとなります。それで、ここからが本題ですが…」
「聞いとるよ」
「ええと、この『これはAではない』という否定的言明は、見方を変えれば、対応するものや現象を探している動的状態を指してもいます。対照的に、『これはAである』は、静的状態といえます。この肯定的言明は、意思伝達としては確実に行えるが、言明そのものが新しい何かを生み出すことはない。逆に、動的状態の意味は、リンクの一端が開かれた状態、結合手が余って活性状態にある原子のようなものです」
「何かと結びつくために、エネルギィを多めに抱えた不安定な、状態じゃな」

「……その不安定な状態こそが、言葉が生きている状態、ひいては人が生きている状態、なのではないでしょうか」
「こらこら、逃げちゃいかん」

Can one speak about unspeakable? (2)

 
(1)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ほう。どこかで聞いたことのある表現だな。それは具体的には、どういうものかね?」

「前に話していたように、言葉がそこには存在していないはずの沈黙という状態を言葉で表現したい、いや、沈黙を言葉によって導きたいというか、両者を介在させたいというか。ええと、とにかく、情報という形で言葉が溢れかえっている現代において沈黙が存在感をもって現れるためには、言葉から逃げるのではなく、言葉と真正面から向き合う必要があると考えています」
「ふむ。君は身体性を賦活する筋道を念頭に置いているようだな。意識を持ち、言葉失くして生きられぬ人間は自然状態に戻れない。自意識の届かぬほど言葉に束縛された我々が動物のような自然な身体性を獲得するためには、何も考えずに無意識状態を目指すのではなく、意識の桎梏を解くための思考操作を通じて自然状態に漸近する。言葉が与える身体運用への影響を理解することが、そのスタートになるわけじゃな。おお、すると君は、沈黙を一種の動物的状態と考えているのかね?」
「……いえ、そのような発想は全く持っておらず…興味深いお考えです。あるいは、沈黙とは自然状態であるという結論が導かれるのかもしれませんが、とにかく今は私の考えを進めてみたいと思います」

「すまんの。ちと先走り過ぎたな。スタート前の脱線は、元の道に戻れる可能性を著しく損なうゆえ、注意せねばならん。もとい、わしは脱線してナンボと思うておるが」
「同感です。とはいえ、元の道が開拓すらされていない場合においては脱線という概念も成立しません。変化をもたらすために進むべきは獣道で、その自覚がある限り、私たちが日々歩む道はすべて獣道なのではないでしょうか」
「いらん所で調子を合わせんでよい。先へ進まんか」

「ああ、はい。何の話でしたか…そう、『沈黙に至る雄弁』でした。イリイチの過去の短文を集めた本を最近読みまして、その中に「沈黙の雄弁」というタイトルの一節がありました。プエルトリコから移民が大勢流入した時期のニューヨーク州で、彼が移民問題に取り組む聖職者の長として、宣教師たちと勉強会を開いた時の講演録だそうです。アメリカは移民の国であって、立国の初期からずっと、様々な国から人々が移民としてかの国で暮らすためにやってきたわけですが、国に定着して長い”旧移民”たるアメリカ人は、それぞれ文化も宗教も生活習慣も異なるはずの多様な”新移民”に対して、自分たちがかつて移民たちを受け入れた経験をもとにした強固な固定観念をもって接するのだそうです。その固定観念は、プエルトリコからの移民を実際とは全く異なる移民像に仕立ててしまう。移民は貧困街に集められがちなのですが、善意によって彼らを救おうとする政策や個々のアメリカ人の行動は、移民たちにとっては、自分たちを理解しない善意の押し売りに思えて、反発してしまう。宣教師としては、彼らを真に理解するためには、単にスペイン語を学んで彼らと会話ができるようになるだけではなく、文法的に整合な意思疎通を超える必要があり、その真の理解へ到達するためにはいくつか段階があるのですが、そのそれぞれが「沈黙の段階」であって、こちらは沈黙して相手の言葉を真摯に聴くという姿勢がベースにあるというのです」

「相手の言葉を聴くために沈黙する、か。現代ではネガティブに捉えられがちな姿勢じゃのう。それで、イリイチのいう「沈黙の段階」というのが面白そうだが、それは一体何かね?」
「うーん、どうも、とにかく相手の言葉をまずは聴くという実際的な姿勢の沈黙から始まって、最終的にはユダに裏切られたキリストの受難を思って祈るマリアの沈黙に到達する、という話で…つまりは行雲流水か、と私は思ってしまいましたが。うん、こんな説明じゃ訳がわかりませんね。ええと、私がこの本から示唆を受けましたのは、その「沈黙の段階」の説明の中で、キリスト教が絡んでくる段階以前の、沈黙の分類と例示の部分なのです」
「君はいつも本題にたどり着くまでが長いのう」
「自覚しております。それで、その肝心の説明部分は漠然としか…いや、正直ちゃんと覚えていないのですが…」
「かまわんよ。本の紹介が目的でないのなら、君とその本から生まれたことを言えばよい」

「沈黙というのは、言葉が口から出てくる前の状態なわけですが、沈黙の段階とは、その「口から出てくる前の言葉」が、どんどん自分の内側へ落ちていくことだというのです。例えば、目の前にいる人の話を聞いていて、最初はその話に対するアドバイスが頭に浮かんで、意見を聞かれたらこう答えよう、などと思っていたのが、話を聞き続けるうちに、その自分の思いが頭の奥底へ沈んでいって、何か返事をしようという気も消えて、黙って相手の目に魅入ってただ頷いている、というような」
「なるほど。相手が話しているのが、自分に意見を求めているからではなくて、ただ耳を傾けて話を聞いてほしいから、と聞き手がだんだん分かってきた、ということかな」
「ああ、それはすっきりした理解ですね」
「ん? 嫌味に聞こえるぞい、それ」
「いやー、そんなことはない…と思うんですが」
「で、そうではなくて?」

「そのー、話がまた脱線しそうなんですけど、以心伝心と言うでしょう。言わずして、自分の思いが相手に伝わる。長年連れ添った夫婦なら、身振り手振り、いや目線や佇まいだけでも相手の考えが手に取るように分かる。まあ、言葉が意思に従属するとは限りませんし、それは言葉以前も同じなわけで、ええとつまり、一方の言葉を介さない理解が誤解であっても他方がそれに合わせてしまえば、しかもそれが無意識なら以心伝心が成立したことになるわけで、フロイトが出てきてからコミュニケーション論は実に複雑になったわけですけど…ああこりゃダメな脱線だ。うーんと、以心伝心ってあるじゃないですか」
「魚心あれば水心、か」
「あ、その諺って、そういう意味なんですか? 僕はてっきりアニミズムのことかと」
「……」

「えーと。以心伝心という現象は、そのさっき触れた、「口から出る前の言葉」が内側に降り積もっていくということと、関係があると思うんです。熟年夫婦の例だと、なんだか言葉無用の以心伝心になっちゃうんですけど、それは現象の全容を表してはいない、いやむしろ悪例ですらある。その場で言わずに堪えた言葉、呑み込んだり、自分で噛み締めているうちに消化しちゃったり、虚空へそっと吐き出したり、そうして本来は誰かに伝えるために生まれた言葉が、目的を遂げずに失われる。でも、実はそうした言葉たちは完全に消えたわけではない。言葉が発される直前に込められたエネルギィが、その媒体から脱け出たというだけで残留している。どこに? もちろん、何かを言おうとした、その人の中に、です。それで、話たぶん戻るんですけど、沈黙して相手の話をただ聴くという場には、相手の言葉がもつエネルギィの移動だけでなく、その言葉が聴き手に届いた後に生まれるエネルギィも存在しているのです」

「うーむ。すると君は、本来の以心伝心という現象を成立させる入力エネルギィがそこにある、と言いたいのかね」
「えーっ、と…?」
「違うようだね。もっと話を戻そうかの。以心伝心、あるいは「口から出る前の言葉」かもしれんが、君のいうそれらが、「沈黙に至る雄弁」とどう関わるのかね? ふむ、「口から出る前の言葉」の集積が指しているのが「雄弁」ということかね?」
「……なるほど!」
「目が点になっとるぞ」

「目が、め…メガンテ!」
「ぎゃー、目が、めがあああ」
「先生、ノリノリですね。それ違うアニメですけど」
「……」

お盆に姪甥と遊ぶ

先週末、タイに住んでいる兄一家が実家に帰ってきました。
それに合わせて僕も帰省して、午後いっぱいを一緒に過ごしました。

9歳になった姪と、3つ下の甥と会うのは2年ぶりでした。
おてんばで多動症的だった姪(「あーちゃん」)は少し落ち着いた反面、「いっくんさん」と両親からもさん付けで呼ばれるほど落ち着いて無口だった甥が口達者になっていました。
二人とも性格が違う向きに極端で、見ていて「大丈夫かな」と思うこともありますが、子どもとはそういうものかもしれません。
いったん角がとれて丸くなってしまうと、そうして失われたものは永遠に戻らない。
そう思えば、彼らの危なっかしさも愛らしく思えるのかもしれません。


二人が実家の中でエネルギーを持て余していたので、夕食を食べに行く前の1時間ほど、近所の公園へ散歩に連れて行きました。

レヴィ=ストロースの「親族の構造」の話が頭に入っていて、曰く、子供に教育的に機能する親族(叔父・叔母)は両親とは異なる価値観を持って接するべきである、らしいので、妙なことを吹き込もうなどという邪な好奇心ではなく、もともと自分は兄とは全く性質が異なるので、あまり余計なことは考えずに赴くまま接することにしよう…と、その時何も考えていなかったということはこんな風に解釈できるだろう、というこれはあと付けの話です(ややこしい)。

こちらから何か話しかけることはなく、何か思いつけばその行動が先に立って、「じゃ、やってみよう」という補足としてだけ言葉を使いました(そんな方針があったわけではありませんが)。
てくてく歩いて公園に着き、藤棚の上から垂れ下がる蔓を引っ張ってみて「ぶら下がれる?」とか、登れそうな木があったら「これはいけそうだな」と言ってまずはやらせて、その後自分で登る、とか。
そういう遊びはほとんど姪の方が積極的に取り組み、甥はなにかと理由をつけて動きませんでしたが、今思えば甥の方はまだやんちゃに動けるほど身体が発達していないのでした(3歳差ともなると相当な違いがあるのでしょう。僕は兄とは年子で、なぜか彼らも同じく1歳差だという思い込みがありました)。
僕が普段からボルダリングをしているので、公園を歩きながら周りを見て「これはどう登るかな」という思考が自然に進んでしまって、結果的に姪にはいろいろ登らせてしまいました。
とはいえ、彼女はとにかく身体を動かすのが好きなことは承知していたし、彼女も実際楽しそう…というか、登っている間は無心に見えました。

子どもが「わー楽しい」とか「すごーい」とか言うのは要するにママゴトというか大人の真似であって、嫌なことははっきりと「やだ」と拒絶するので、何も言わずに集中して取り組むというのは、少なくとも子ども自身の身体が求めていることではあるのだろうと思います。

わりと低いところから枝分かれした木、地面からすぐ二股に分かれた枝の多い木(こっちは登りやすくて、僕も見本で(本気で)登ったんですが6,7mはいけました)、すべり台(階段を使わず、柱をよじ登ってお立ち台に上がる遊び)、スラブ壁…というかアミダ状に溝の入った緩傾斜の壁、その壁の横の垂壁に取り付けられた鉄の梯子、等々。
すべり台をよじ登る時の姪の動きにはヒヤリと同時に感心もしたんですが、どうも自分の身体の動きを脳がちゃんとは理解していないように見える、危なっかしい動きと無意識に理に適った動き(こちらは、ボルダリングでは「レスト」と呼ばれる、トライ中に指や手が疲れた時に手を振る動作)とを観察することができました。

この「子どもの無心の身体動作」については思うところがあって、最近「立甲」の本を読んでるんですが、子どもは肩甲骨を自在に動かせるが学校や家庭での動作規律(机に向かって勉強する、とか)に従ううち身体動作の自由度が失われて肩甲骨も動かせなくなる、とその本には書いてありました。
この本を買ったのは、立ち読みした時に「優れた武道家は立甲ができる人が多い」、そしてこの「人はみな小さい頃は肩甲骨を自由に動かせた」という記述が目に入ったからでした。
僕自身はボルダリングをスポーツではない捉え方をしたい、できれば武道的に取り組みたいとはずっと思っていて、そして当のボルダリングは子どもが圧倒的に上手である(プロ的な意味ではなく、無理がなくしなやかである)という事実があります。
この本には「肩甲骨が立てばあらゆるスポーツのパフォーマンスが上がる」と書いてありますが、僕はボルダリングこそ立甲の効果が期待できると思っています。
僕はなぜか昔から左だけ肩甲骨を楽に上下させることができるのですが、この本にあるトレーニング(「鍛える」のではなく「緩める」トレーニングです)を始めて1週間くらい経って、右の肩甲骨も少しずつ動かせるようになってきています。
立甲ができているかは不明ですが、肩周りのこわばりが少なくなってきた実感はあります。

話を戻せば、スポーツにせよ音楽にせよ、小さい頃から始めた方が上達が早く身につき方も違うとよく言いますが、ボルダリングにおいては、上に書いたような規律動作によって子供の身体動作の自由度が失われる前に始めれば、上達云々というか、たとえば白石阿島のような、大人から始めたクライマーとは根本的に違う動きができるようになるのだろうな、と思うのです。
まあ、簡単にいえばそれは「よりサルに近い動き」ですけども。

兄夫婦には「あーちゃんはクライミングの素質あるよ」とだけ言っておきました。
タイの住んでるマンションのすぐそばにある総合スポーツセンターみたいな所にボルダリングエリアがあるそうですが、そこが子供も登れるところなら絶好の環境だなあとか思ったり…
教えてくれと言われたら、大喜びで教えるんですけどね(リーチ差は埋め難いにしても、きっと1年もすれば技術的に追い越されることでしょう)。


話をもう少し戻せば、いろいろ登る以外に、公園の中のピラミッド(1段が1mで6段くらいある)があるエリアで犬を連れたおじいさんと話をしました。
子どもを連れていると、こういう場面で他人に話しかけやすくて、そうして相手も愛想よく答えてくれると、ほっとすると同時によい気分になります。
それはきっと、「子どもは地域で育てるものだ」という常識に触れられるから。
これが逆に、話しかけた相手に迷惑顔をされたりすると(都会ではまま起こるのでしょう)、まあ現実の世知辛さに触れるという意味で教育的なのかもしれませんが、親はそういう経験を重ねて擦り切れていって(子どもを連れて混雑した電車に乗るのは本当につらそうです)、そもそも子どもを他人に近づけさせないようになる。
…今思い出せば、ピラミッドに座ってラジオを聴いているおじいさんに近づいて話しかけたのは僕で、子どもの好奇心をくすぐるはずのトイプードルがそばにいるのに、二人は遠巻きに見ていて、僕が手招きするまで近寄りませんでした。
もちろん、こういう気楽な行動をする僕自身は父親気取りであるはずもありません。
が、もし自分に子どもがいて、あの時自分の子どもを連れていたとしても、同じように気軽に他人とコミュニケーションができればいいな、と思います。
リスク回避という意味では当世の常識に従うのが正解ですが、あまりの潔癖が子どものアレルギー体質を招くように、リスクを負う経験を過度に避けることが子どもにとって非教育的である、という認識が、認識倒れにはさせたくない。

どんどん話が逸れますが、僕はプラグマティストを自認していますが、ある種の(というか当世の…?)プラグマティズムには知性の軽視が含まれていて、それは最早思想ではない、と考えます。
実用主義という姿勢があって、それに知性の裏付けを与える、それが思想としてのプラグマティズムです。
実益や実効に阿って知性を軽んじるのは、現実主義、日和見主義、など場合に応じて色々名前は変わるでしょうが、どれも思想とはいえない。

話を戻しまして。

子どもらとの散歩のなかで、僕は基本的に、進路を決めるのと、遊びのきっかけを与えることだけをして、あとは彼らの自由にさせました。
そうして彼らを見ていて、子どもらは何にでも興味を示し、また突飛な発想をいくつも繰り広げるわけですが、僕ら大人にはできないことをする彼らは、なにかが「ある」のではなく…いや、「ある」のは「ない」からなのだと改めて思いました。

束縛が「ない」からこそ、自由が「ある」。

自由は、手に入れようとするものではない、のでしょうね。
大人であっても。
 

「遺産過多」の時代、消費対象としての時間、キュレーションと自販機

(…)しかし、すでにシャトーブリアンがこの加速化の経験を旧秩序の廃墟の抗いようのない徴と見ていたし、[ロバート・]ムージルもまた「加速化主義(accelerisme)」という表現を作っている。アレヴィはその試論をミシュレの引用から始め、ヒロシマのその後について書くことで筆を置いている。「ミシュレが注視することになった大変な出来事のひとつ、そして、最も注意を払われなかった出来事、それは時代の速度が完全に変わってしまったということである。時間は奇妙な仕方で歩を速めた。ありふれた人間生活の空間に起った二つの革命(領土における、産業における)である」。より広く言って、この速度の変化が、近代の時間秩序を構成している。
p.209-210

今いちど時間については、彼[エール・ノラ]の出来事についての省察により、出来事の消費社会における新たな地位と、時間というものを把握するための方法との関連が示唆された。「我々が出来事を服せしめているような方法はおそらく、時間そのものを消費対象にしてしまい、そのような情動を与えてしまう(…)方法なのではないか?」ここでは提案の形で、現在主義のもうひとつの要素が示されているのかもしれない。時間は、消費の時間のなかにとらえられ、それ自体が消費の対象となるのである
p.208

フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』

しつこく再読を続けています。

なにか、すぐには離れられないものがある。
理解し切っていない部分があるからというより(そんなものは腐るほどある)、たぶん、自分ではもう理解していて、ただ言葉にされるのを待っているものがある、その言葉を待っている(お互いが待ってたら進みませんね)…探しているようである。


「時間経験の加速化」が言われています。
単純に、何をするにも時間の短縮が望まれ、求められている。
同じ結果に対し、かかる時間はなるべく少ない方がよいとされる。
(ところで「同じ結果」とは何か? 予測のなかで経過時間だけを比較対象にすることで一体、どれだけのものが切り捨てられているのか?)
効率化、コストパフォーマンス、といった用語に絶対的な価値が付与されている。
あるいは、スローライフはそれらと同じ価値観に沿った対抗派閥に過ぎないかもしれず、ゆっくり、ゆったりとした生活を手に入れた人々はみな、寸暇を惜しんで働いていた過去をもっているようでもある。

「遺産の時代」ということが書かれています。
自然遺産、文化遺産、記憶遺産、…。
環境破壊の問題が前景化し始めたことと関係があるかもしれませんが、ある時期から、遺産の保全ということが言われ始めた。
あるいは、「9.11テロはそれが起こっている最中に歴史に登録された」とも書かれていますが、メディアの隆盛、記録技術の発達、そしてインターネットという世界を網羅するアーカイブの存在が、現在的な出来事が過去になる前に、分析され、評価され、解説され、整理されて歴史となる。
出来事を過去にさせない、あるいは歴史に新たな価値を付加して現在に呼び戻す。
これは、予測によって未来を現在に引き寄せる、予知がこれから起こるはずの出来事との間に存在する時間を取り除く、のと同じ、現在主義の特徴の一つです。

 ノラにとっては、加速化によって、単に集合的記憶、すでにアルプヴァクスが述べていたような「統一化することの不可能」な集合的記憶の「複数化」がもたらされるのではなく、過去との「断絶」がもたらされる。それは経験の地平との断絶である。グローバル化民主化、大衆化、メディア化は、ノラが「社会=記憶」と呼ぶものの目指すところ、一言で言って、記憶の消去につながっている。

同上 p.210

過去との断絶、経験の地平との断絶。
そして、記憶の消去。

これらのキーワードは、記憶に残そうとして整備したはずのアーカイブが、当時の経験を呼び起こして現代の人々に訴えかける力を失い、現在との関係が切れてしまった単なる過去の記録になってしまった、という状態を表しているように思えました。

 × × ×

毎年この時期になると、テレビでは太平洋戦争の特集が放映されています。

先週末の夜に実家で見た番組では、ガタルカナル島での米軍と日本軍の戦闘について、一木大佐率いる陸軍一小隊がいかに全滅に追いやられたかを、米軍の作戦記録をもとにした再現CGなどを使って解説していました。
日本海軍が陸軍を別の作戦のために囮に使うという名ばかりの共同作戦、そのせいで大本営と通信が取れず、先行させた偵察隊が全滅して勝機もなかったのに作戦を強行した小隊の愚策、飛行場を奪還に来る小隊を予期して待ち伏せ、島の地形も味方につけて殲滅作戦を組んだ米軍の周到さ。

言いたいことはよくわかる。

防衛大学の軍事研究家なる人々の仕事の成果としてなら、番組を見ている人にも伝わると思う。
でも、番組制作者の意図は軍事研究家とは違うはずで、その相違点(これが特番の存在意義だと思うのですけど)が、当の殲滅戦で生き残った人(谷川俊太郎に似てましたね)へのインタビューで当時のことを尋ねた時に声を詰まらせて涙する、という場面に帰されているように思えた。
定型、ひな形の踏襲。
「無難」が褒め言葉になる、上出来な特番。


これはたぶん「関係が切れて」しまっている典型例なのでしょう。

戦争の悲惨さ、日本軍の愚かさ、これらは確かに見れば伝わる。
でも、それを知りつつ、現代に戦争を待望する人々も確かにいる。

もちろん原因は「戦争特番が抑止力になってない」とかいう話だけではなく、戦争をゲーム感覚で捉える価値観もあるし、閉塞的な現在の生活から後先考えず抜け出したいという思いもあり得るし、悲惨な写真を見ても「他の人間には起こるかもしれないが自分は大丈夫だ」と他人事に解思える無根拠な自信だってあるでしょう。

あるいは1つ目に関係しますが、定型の風化ということもあります。
それを見れば「戦争はよくない」と誰もが思うもの、そういうものを形そのままに(あるいは上辺だけ違う風を装って)使い続けていると、それが持っていたメッセージ自体が変化してしまう。
言い方を変えれば、不変のメッセージを継続的に使用すると、その「時間的に不変であること」自体が新たなメッセージ性(文脈)を帯びる

マクルーハンのいう「メディアとはメッセージである」ですね(違うか)。

 × × ×

話を戻します。

先の抜粋のキーワードを再掲してみます。
「過去との断絶」、「経験の地平との断絶」、「記憶の消去」。
これらと、その抜粋の少し上に書いた「遺産化の時代」、「出来事のアーカイブ化」とが、自分なりに繋がる気がして、本記事の動機はそれについて書くことだったのでした。


キュレーション、あるいはキュレーターという言葉が流行りだしたのはわりと最近のことだと思います。
weblioでキュレーションを調べると、「情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業」とあります。

情報が溢れるほど増えてくると(実際は「入手できる情報が溢れるほどにツールが充実してくると」)、自分に興味のある分野だけに絞ってもキャッチアップするのが大変で、重要なものだけ取捨選択しようにもそもそもその選択自体が難事であって、そこにキュレーションの価値が生まれるのは当然です。

僕自身は、情報検索のためにネットに潜り込むとリンクを辿りすぎて収拾がつかなくなるのでキュレーションはあまりやらないし、得意ではありません。
だから、キュレーションの出来不出来を実際的に判断できるほどの目は持ち合わせていません。
つまり、まあ言い訳のようですが、以下は抽象論になると思います。


出来事(もの)の遺産化、アーカイブ化というキーワードと僕の中でつながったのが、このキュレーションという行為でした。
そして「経験の地平との断絶」という言葉とも。

かりに、過去の出来事が現代にもいきいきと訴えかける力を持ったものを「記憶」、そうではなくただの時系列的な事実の羅列に留まりインスピレーションを喚起しないものを「記録」と呼ぶことにします。
「記憶」が「記録」になってしまうのは、そこから時間が抜け落ちたときです。
過去の出来事に触れたとき、その人が時間を感じることができればそれは「記憶」であり、できなければそれは「記録」である。
…非常にぼやっと書きましたが、「ではそこでいう時間とは何なのだ?」ですね。

僕が印象として持つキュレーションの一つの形態として、「書評」があります。
書評を読めば、その本の全部を読まなくても短時間で要点がわかる、キーワードが拾える。
そのことに依存はなくて、ある種の本は、本そのものを読むより書評を読んだ方が効率的であることも認めます。
でも、はっきりしているのは、ある本を読む経験と、その書評を読む経験は明らかに違うということです。
何が違うか、考えるまでもないですが、本を読むには「時間」がかかる。
いかにハウツー的な、情報収集系の本であろうと、それを時間をかけて読めば、読む途中で読者の置かれる状況は変わり、考え方だって変わる。
同じ内容の文章であっても、読む人によって受け取り方は変わるし、同じ人でも読む状況(状態)が変わればやはり受け取り方は変わる。
「時間」はこのような影響を与えます。
それがハウツー本ではなく小説であれば、本と書評の差はもはや歴然としています。


「記憶」と「記録」の埋めがたい差を生み出す要素である、「時間」。
これについて概念的に語るのは難しいのですが、最初の抜粋でノラが書いている通りなのかもしれません。

「我々が出来事を服せしめているような方法はおそらく、時間そのものを消費対象にしてしまい、そのような情動を与えてしまう(…)方法なのではないか?」

「我々が出来事を服せしめる」という表現。
「服せしめる」とは、従わせる、征服する、といったことでしょう。
そう言い直したとき、この表現はとても恐ろしい響きを持ちます。
出来事が現在起きている只中に歴史化する、という文脈とも通じます。

そして、「時間そのものを消費対象にする」とは、時間を、「時間がかかる」とか「時間をかける」とかいうものとは別物とみなす、ということです
「金で時間を買う」という言い方が出現したのは、「時間で金を買う」振る舞い、つまり金儲けが過剰になってからのことです。
自分の時間を取り戻す気でいながら、その時間とは換金可能な対象である。


消費社会の宿痾であるとは思います。
でも、個人はシステムとは違うという自覚があれば、個人の中で「それ」が度を越すことはないはずです。

 × × ×

最初に思いついた言葉を書くのを忘れていました。

キュレーションとは、いやそれによって作られたものは、自動販売機のようなものではないかと思いました。
ボタンを押せば、欲しいものが待たずにゴロンと転がり出てくる。


自動販売機は、作るのは面白いのです(作ったことないけど)。
そこには、その行為には「時間」があります。
ただ、自動販売機を使う経験に「時間」はない。
自動販売機こそが、時間(経験)を省略するために存在するからです。

そして、アーカイブの時代というのは、国家の遺産保全プロジェクトから個人のブログまでも含めて、誰もが自動販売機を自作する時代である
作るのは楽しい。
使う人のことを考えながら作るのも、興味深い。

ただ、
使う人が、
その自動販売機をブラックボックスだと思って使う限り、
そこに「時間」は存在しない


「現在主義は、時間経験とプロセスに盲目である」と言ってよいかもしれません。