human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

無題12

みなさま、長丁場の講習お疲れさまです。

花巻はよい町ですね。
夏の時期は関東以西とは比較にならないくらい過ごしやすいです。

この地でみなさまと共に勉強できたことを光栄に思います。
そして、図書館概論の担当教員がH先生であったことも。

「考え続けることをやめない、あきらめない」

先生のこの励ましは、講習の間だけのことではなく、
また司書として働く人に限られず、
本の可能性を信じる人すべてに向けられていると感じました。

近く取得されるはずの司書資格の活用如何は様々でありましょうが、
短期集中で机を並べて学んだ我々の間には、
ある共通の意思が芽生えたことと思います。
そんな我々にうってつけの言葉を紹介しておきます。

「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」
               (梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』)

みなさまの今後がより充実したものとなるよう、陰ながら祈念いたします。

025 N.S.

崖っぷち系3級クリア

前回↓
cheechoff.hatenadiary.jp

週3で通い、毎回どこかしらでちょっとずつ進歩があります。
進歩と思えない時でも、同じコースで、今までにない動き方をしていたりする。

2週間くらい取り組んでいた、3級(赤)のいちばん簡単そうなコースを、昨日はじめてゴールまでたどり着きました。
人に手本を見せてもらっても体がついて来ず、進歩はじわじわといった感じでしたが、山場を越えるとその後の3手はするっと進めました。
傾斜のいちばんゆるい壁で、両手を離して片足でホールドに立てるところもあるのですが、ホールドの小ささと位置関係によって、可能な限り壁にべったりくっついて手足を動かす場面が2,3手続きます。しかもその中の初手が「両手は何ももたず右足でホールドに乗って右側を向いたまま左足を前(右)に出す」(右足を左側にある壁からなるべく離さずかつその右足と壁の間から左足を抜き出す)というなかなかの体幹を要する動きです。このような足場がわずかしかない崖にへばりついて横移動する様から、「崖っぷち系」と命名しました。
腕力でなく体幹(バランス)で登るコースについては、中級の入口に立てたかな、という手応えがあります。

講習は相変わらず忙しいですが(明日で開始後3週間になります)、ボルダリングとうまく両立できています。
登った翌日の回復度も早くなってきたようで、その翌日の疲労度も今日はとくに「全身的な疲れ」で、講義中に眠くなるというより倒れそうになったりしましたが、頭は正常に回るし(身体の疲労で多少なげやりな気分になりますが)、なんというのか疲労の質はわりといいんじゃないかと思っています。
さらに慣れていけば毎日ジムに行けるかもしれません。

前傾壁のコース、ぶら下がり系(いちばん傾斜がきつい150°の壁)コースも着々と進歩しています。
腕の筋肉は一月前とたいして変わらないように見えますが、たぶん肩や背中をいくらか使えるようになって、腕力のなさをカバーできているようです。
背中や肩甲骨の使い方について、基礎トレーニングをしながら色々気づいたこともあるので、時間のあるときにまた書きたいと思います。

都留氏とこれから読みたい本たち

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

市場には心がない―成長なくて改革をこそ

図書館の経済の棚を見ていて、都留重人氏の本をみつけました。
都留氏は鶴見俊輔の伝記によく出てくる人で、戦前・戦中にアメリカで生活を共にした先輩という間柄だったと思います。
経済学の本を手に取ることは滅多にないのですが、著者名を見て、借りようと思いました。
内容はさておき、その人が見える風に読もう、と。

 × × ×

タイトルの感じ通り、社会に対する提言もいくらかありますが、それは強いものではない。
「ぼくはこう思うけど、みなさんはどうですか?」というやわらかい物腰。
当時の時事ニュース(小泉政権時)に、氏の経験(体験、読書)を対置させ、提言がでてくる。

「第七章 成長なくて改革をこそ」では経済学者や思想家の引用がいくつか並べられ、それらの内容が呼応し、また現代的な問題とも非常に深い関係をもっていて、この章を読んで、引用の原著を読んでみたいと思いました。
引用されている著者のメモをしておきます。

キーワード:
「労働の人間化」
「ゼロ成長(stationary)」
「生活の芸術化」
「『豊かさ』の貧困」
ジョーンズ効果*1
「レジャー国家」

ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの古典的経済学者)
→"Principle of Political Economy"(1848)
○E・F・シュマッハー(ドイツの経済思想家)
→"Small is Beautiful"(1973)
○ジョン・ラスキン
ウィリアム・モリス*2
都留重人科学的ヒューマニズムを求めて*3
エズラ・J・ミシャン
→『経済学の神話性』(1986)
○クライヴ・ハミルトン(オーストラリアの経済・政治学者)
→『経済成長神話からの脱却』(邦訳,2004)
○ポール・ワクテル(心理学者、ニューヨーク市立大学教授)
→『「豊かさ」の貧困─消費社会を超えて』(邦訳,1985)
○ガバン・マコーマック(オーストラリアの歴史家)
→『空虚な楽園──戦後日本の再検討』(邦訳,1998)

今は講習で忙しいので、終わってから読むことになるでしょうか。

p.s.
最近読んだ内田樹氏のブログ記事↓も、都留氏の本と共鳴しているように感じました。
この「大風呂敷論考」は、図書館関係者にとって重要であると思い、機会があれば一緒に講習を受けている人にも一読を勧めています。
図書館はこういう考え方を姿勢として示せる、あるいは、もしこういう未来に日本(のある地域)が向かっていれば図書館において「それ」が可視化されるだろうからです。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

*1:「市民の福祉は、なかんずく他人との相対関係における市場財に対する彼の支配力に依存する」という動機付け──これは「ジョーンズ家に遅れをとらない」と表現されることから「ジョーンズ効果」と呼ばれる(p.142、太字は引用書では傍点)

*2:ラスキンのこの「労働の人間化」という考え方に呼応したのが、彼の盟友ウィリアム・モリスの唱えた『生活の芸術化』という発想であって、」(p.141)
鶴見氏の『限界芸術論』でモリスの名を知りましたが、『限界芸術論』のタイトルの意味は「芸術に限りなく近接した生活」で、まさにこの「生活の芸術化」についての本です。

*3:ラスキンやモリスの思想面での貢献にかんして」(p.183)書かれた論考が載っているようです。

「評価」から遠く離れて

司書講習は順調です。
ノートを採りすぎて右手首を痛めましたが。

講義にもボルダリングにも大きな支障はなさそうですが、痛みが長引くか悪化するようなら整形外科に行きましょう。
左手首を治してもらったことだし、今度も行けば治るのでしょう。

 × × ×

講義とは関係ありませんが、さっき図書館から帰ってきた時にふと思いました。

評価にさらされ続けて育った人は、自然と他人や出来事を評価する目で見てしまう。
自分があらゆることを評価している、その自覚すらないままに。
そして、評価の嵐(それはじっさい「無風」なのだけど)が吹き荒れる環境から遠ざかると、ある時にひょいと自覚が訪れる。

「相手その人をありのまま見る」ことの難しさは、周りがそうさせてくれないことに第一の原因がある、と断言してもいい。
余計な意識をしてしまうことは反省で治るものではなく、それは抑え込みすなわち抑圧であって、別の形で(別の意識として、あるいは態度として)返ってくる。

アフォーダンスの概念は、もしかして、とてつもなく広い。

鈴虫とかっこう/GHPの終焉と新展開

夕食を作って家で食べていると、網戸の向こうから鈴虫の声が聞こえてきました。
気づいた限りで、今日が今季はじめて。
鈴虫は秋に鳴くのではなかったかと記憶してるんですが、そうするとこの暑さはもう収束していくのでしょうか。
「公園のベンチで読書できるような快適に過ごせる時期はここでは短いですよ」と賃貸屋の人が言っていたが、夏もそうなのだろうか。
そうだと嬉しいけど、早すぎるような。

そういえば今の家ではわりと時期も時間帯も問わずなんですが(と言ってまだ一月ちょっとしか住んでいませんが)、生かっこうの鳴き声を初めて聞きました。
信号機のある歩道を渡る時に「ぺっぽー」という電子かっこうの音が大阪・京都では馴染み深いですが、ほんものは「はっほー」とか「ふぁっほー」という感じです。
尖った頭音がなくて、でも音は明確で速くてはっきりしている。
近所の公園にいるんでしょうか。

 × × ×

ゴーヤハウス・プロジェクト、エピローグです。
えっ? という感じですが、そうなっちゃいました。

発芽した種を土に植えつけるのを何度かしたんですが、芽が土から顔を出しても葉がなく元気がなく、大きくならんなあとしばらく放っておく(水やりは毎日やってましたが、特別な対応はせず)とそのままどこかへいなくなってしまいました。
で、だめかなあと思っていたころから家で調理した野菜の種をてきとうにばらまいていたら、いろんな種類の苗が成りました。
ピーマンとにんにく(常温で置いていたら芽が出てきてしまったので食べずに蒔きました)とゴーヤ(実を包丁で切った時にきれいな状態の種が3つ取れました)は記憶にあるんですが、あとは何だったか…
実が成れば何かわかる、という楽しみがあります。
さて、どうなるでしょうか(←これ、口癖になってますね)。

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「中井久夫氏のムック本」拾い読み

毎週日曜に近所の図書館に通っていて、いつも新着図書棚を見ています。
毎回ちょっと見てみたくなる本があります。

先週見つけた文藝別冊のムック本『中井久夫 精神科医のことばと作法』に思わず目が留まり、拾い読みして、拾い読みした部分を再読したくて借りました。

 ×   ×

本書で初公開らしい、中井氏作と思われる(そうでなければこの本に載らないはずなので)「研修いろは歌留多」の中から、これは、と思ったものをメモしておきます。

 へたは 「うまへた」にまさる。

言い換えると含蓄というか他の多くのニュアンスが抜け落ちそうでいやなのですが、今の僕には「計算するな、素直であれ」というアドバイスに聞こえます。

自分の思い通りにことが進むのが、いいことなのか、どうか。
その成就は、「自分の頭がそれで満足する」という以外には、大した意味がない気がしています。
相手に対する「よかれ」がほんとうに相手にとってよいことかを確認するには、こちらが言うにも、あちらの言葉を聞くにも、きちんと相手を見る。

意思疎通の成立(状態?条件?)が、頭の中での想定と、実際のものとで異なるということを、今日から始まった司書講座の中で(講義内容と関係はありませんが)気づきました。
僕は自分から始めた会話では前者を優先しがちなようです。
会話のキャッチボールを先取りしてから会話を始めれば、まあそうなりますね、考えれば当たり前です。
計算してしまうのをそれはそれで素直だという考え方に惹かれてしまいますが(橋本治氏は時にそういう複雑な立論をされます)、普段の他人との会話でそれをするには複雑だし理解されないので、上に書いた「計算するな、素直であれ」というのは単純に受け取って文字通りそういうことである、という注釈は多くの人には必要ないことですが。

何かしら衝動に駆られない限り、自分から喋らないようにしてみましょう。

 なくした時間と出たバスは 追いかけない。

これが臨床の現場で具体的にどういう意味を示すのかは分かりません。
…文字通り「バス停で次のバスを待て」とか「距離が近いなら歩け」とか、いうことはないでしょうね。
これも言い換えを…すると洒脱さが消えてしまいますね、やめましょう。
「出たバスは追いかけない」、これと、「僕はどんなにそれが間違っていても壁ではなく卵の側につく」という村上春樹エルサレムスピーチの一節とが、どう一緒なんだろうとふと考えています。

 世界より大きい妄想は 出ない。

これはなんとなく臨床の場面が浮かびます。
ので(?)、妄想家の僕は自分なりに曲解しておきます。
「謙虚であれ」

 ×   ×

「拾い読み」と言ったのは、上に書いたいろは歌留多ともう一つだけ、保坂和志氏の寄稿文です。
本来句点「。」を打つべき*1ところが多々読点「、」である保坂氏の最近の*2押せ押せな文体で、でも文章のひとつひとつに内容が密に詰まっていて、読むのにとても緊張します。
図書館で借りる前に立ち読みした時はすごく緊張したんですが、借りて帰ってから読んでもやっぱり緊張して、そして再読の役得で、最初に気づかなかったいくつかのことに気づきました。
ぜんぶを書く余裕はないので、ほんの一箇所だけ引用しておきます。

人間の思考というのは動物の延長として、ということは起源として、事態に対処することだ、事態から世界像を導きだすというのは起源にもとづいた思考ではないと私は最近感じている、そのつどそのつど対処できることをする/あるいはしないことを選ぶその思考の積み重ね(この言葉は適切だろうか?)それ自体を私は思想と呼びたい。
p.138-139 因果関係や能動性のこと(保坂和志

言い換えはいろいろできると思うんですが(「分析偏重への戒め」だとか「具体性に帰れ」だとか)、こういう言い方を、「起源にもとづいた思考」という表現を初めて目にしました。
と書いて気づいたのは、例示した言い換えは思考と行動を分けて純粋な後者の実践に向かってるんですが、「起源にもとづいた思考」というのは、思考が行動と分けられているわけではなく(実際のところ分けられるはずはない)、でもその行動とくっついている思考は「純粋な行動のための思考」である。
動物が行動するように人間が行動する時に伴っている頭の回転としての思考。
…書いてるうちにわかんなくなってきました。

要約とか帰納によってニュアンスとかいろんなものがぼろぼろこぼれ落ちてしまうのが小説なんですが、哲学的な文章に小説の深みがある場合、それは何なんでしょうか。
「思想小説」は小説の体裁で読める思想書か哲学書であって、これとは違う(たぶんこれは小説ではない)。
やっぱりそれも小説なんでしょうか。

*1:「べき」なんて書きましたけど、保坂氏のこの文章に慣れてしまうとそれは単なる慣用でしかないのではと思えてきます。

*2:カンバセイション・ピース』まではそんなことはなかったんですが、「最近」の始まりがいつかは知りませんが、そこから大きくとんで『未明の闘争』ではもうすごいことになっています。

ネチネチ系4級クリア

前に書いた4級コースを今日はじめてゴールできました。

前に書いた「ジムで一つクリアできそうな4級コース」で、あと一手が届かないその原因の一つがたぶん股関節の硬さで、手指の力の強さや体幹(きわどい姿勢で体勢を維持する力)も関わってはいますが、ジムで毎回そのコースに挑戦していれば、ある時にひょっとクリアできてしまうのではという想像をしています。
垂直壁ですが手の支えにほとんど頼れない(ホールドが平べったくて指数本しかひっかからない)状態で股を広げて、現状、今の限界よりも20センチ以上は足を上げる必要があって、これができるようになれば、結果として身体の変化が目に見えることになります。
cheechoff.hatenadiary.jp

コース山場のこの「あと一手」を詳しく書くと、左手は平べったいホールドで指をかけて、右手が四面体ハリボテにくっついた同じく平ホールドでこちらは手のひらをつけて張ることができて、左足は下においたまま右足を左足より下から前記ハリボテまで持ち上げる動き*1。手の力というより下半身の柔軟性、つまり足がどれだけ上がるかが要で、上の記事を書いた段階(7/7)では右足を限界まで上げて目測ではないが感覚的にあと20センチ足りないかなという印象で、それが前々回(7/10)で「あと10センチ」になっておおええ感じやなあと思って、そして今日の終わり間際にいつも通り現状確認の体で軽い気持ちで(でも切り上げ寸前なので肉体の方は満身創痍で)トライしてみると、あれあれと思う間に右足がぐいと上がってハリボテの隅っこに届いてしまって、でもここでおしまいではなく、この右足をぐっと踏ん張って左足に重心を移してから上方のホールドを取ってやっとゴールなんですが、隅にちょんとのっかった右足に体重をかけるのが心もとなくて(壁のけっこう上の方だし、体勢が不安定なうえに手が指でひっかけてるだけで全然効いてないのでここで右足が滑るとけっこう大変なことになる)、でも待ちに待ったゴールは目前で、というわけで火事場モードを発動して細心の注意を払って右足にすこーしずつ体重をかけていき、なんとかゴールすることができました*2。満身創痍といっても今日は強傾斜壁のコースばかりやっていたので腕と指がつらくても足はそうでもない状態でした。さんざん動いたあとなので身体がやわらかくなっていたのもよかったかもしれません(元気のある最初のうち、準備運動直後にトライした方が難しいかもしれない)。

なにはともあれ、こんなに早くこの4級コースをクリアできるとは思わなかったので、ジムの中ではすまし顔でしたが内心とても嬉しかったです。股関節の可動域を広げるストレッチを毎日やっている甲斐がありました。ストレッチを続けるうちにたしかにやわらかくなっているなあという手応えはありましたが(開脚してから上半身を前屈するストレッチでは、広げる足の角度も前屈で前に出した手が届く距離も少しずつですが大きくなっています)、できなかったコースがクリアできるという結果が出てくるとまた違った嬉しさがあります。

今日はその4級コースのほかに、ルーフのホールド(足をひっかける所がなければぶら下がるしかない、ほぼ水平な壁にあるホールド)からスタートする5級コースが初めてクリアできて(このルーフでの「サルっぽい動き」ができてくると楽しい。まだまだスムーズにはいきませんが)、他にもいくつか5級、4級コースにとっかかりをつけました。今日は序盤は人が少なくて、わりとかまってくれる経験者の人にコツやら攻略法を教わることができました。基本的に人がコースをこなすのを観察はするが自分から聞くことはあまりしないのですが、行き詰まっている時に声をかけてもらえるのはやはりありがたい。自分で考える楽しみを奪われたなんて思いは微塵もなくて(まだそこまでおごれるほど上手くはありません)、これはもう縁ですね。何事においても、縁は大切にしたいです。

トライするコースの難易度が上がってくるにつれ、身体の痛む箇所も変わってきました。強傾斜ではホールドを保持したままぶら下がって反動をつけたりするので、指の皮がいとも簡単にべろんとめくれます。マメが形になる前に潰れてしまうような感じ。両指の平のマメが、回復期のものも合わせて5個あります(うち2個は今日できた)。テーピングをするので登るのに支障は今のところありません。風呂が染みるというくらい。あとは脇なのか肩なのか、背中のそのあたりが痛い。前腕じゃなくて肩甲骨や背中を使うという意識を最近始めて、それに応じてストレッチも種類を増やしたんですが、肩はたぶんそのストレッチのせいです。立甲というらしいのですが、よくわからないながらもなんらかの手応えはつかみつつあり、現在模索中です。変に肩を痛めないためにほどほどにしようと思いますが。


さて、来週の開講初日は10時からオリエンテーションがあって、車か自転車かわかりませんが色々見越して9時半には大学に着こうと思って、そうすると朝食なんやかやで遅くとも7時には起床しなくてはなりません。壁登りの翌日に早起きできたためしがなくて、でもそれは目覚まし時計を使っていないからかもしれなくて、今日は早めに寝て明日早起きできるかどうかを試します。できるようなら、開講日の前日に登っても大丈夫ということで来週も月曜は登ろうと思います。それ以降は講義後の夕方に行くことになります。まだ体の出来具合からして毎日通うのはつらそうなので、現状と同じ週3日を夏期講座が始まってからも続けられればと思います。今は体力の続く限り、一日平均4時間はジムにいますが、夕方から行った場合はもう少し短くなるでしょう。どうなるでしょうか。

*1:垂直壁より緩い壁で、ダイナミックに跳んだりせずに3点支持でじわじわ登れるコースで、僕が読んだ入門書にはこういうのを「ネチネチ系」と呼んでました。手より足の方が自信があるので、僕はこういうコースの方が好きなんですけどね。ネチネチなんて言われるとあまり嬉しくないですね。いや、そんなこともないか。

*2:文章だと全然わからないですよね。気が向けばコースの写真を撮って載せます。壁を見ると登りたくなってきますよ。ふふふ。