human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

reality stimulates vitality

リアリティ(現実性)について。


言葉の理解は、文脈を通じて現れる。
辞書的な意味の暗記ではなく、異なる様々な使用場面が複合的に頭に展開されることで「体得」される。

「これはなかなかリアリティ溢れる小説だ」
「Sさん? ああ、あのタンクトップのリア充っぽい人ですよね」
「その話は非現実に過ぎる」
「生活を感じさせる家具が一つもない、現実味のない部屋」
「『リアリティって何や』て思とる、君の頭はリアリティ満載やで」

リアリティとは、プロセスに冠される言葉ではないかと思う


客観的な存在であるリアル(現実)に対して、本来「現実性がある」とは言わない。
リアルでないはずのものに、リアルさを感じて初めて、リアリティという言葉が登場する。

本来、と言ったのは、実用上、そうでない場合があるからだ。
たとえば、リアルに対して「リアリティがない」と言う場合。
それは、リアルであるはずのものに、リアルさを感じない状況の表現であるはず。
しかし、これは少し妙だ。
ここでは、「リアル」と「リアルさ」は違うものであるように受け取れる。
それがリアルなら、誰がどう感じようが、リアルに違いはないはずなのに。

リアリティとは、リアルの感覚的な把握との比較において成立するようだ。
比較が生み出すのは差異であり、リアリティ(の有無)は差異の発生に起因する。
プロセスは、時間を変数にもつ差異である。


リアリティを感じる対象。
それは、リアルになりつつあるもの、である。
これは先に触れたことを逆に表現したものだ。
つまり、リアリティを感じない対象は、
リアルを失いつつあるもの、であるとも言える。


「リアリティ溢れる小説」は、現実的にある、社会で実際に起こっていることが確実な話、のことではない。
そうではなく、それは「現実的にありそうで、起こっていてもおかしくない」話なのだ。

ノンフィクションが持ちえない小説の魅力は、このリアリティである。
社会の闇でも裏社会でもいいが、丹念な取材に基づいた事実と記録の提示は、取り上げた事件の「確実性」を強調することで、それがリアルであることを論証する。
だが、リアルであることそのことに対しては、リアリティを感じない。
ノンフィクションにリアリティを感じることがあるとすれば、それは「リアルに限りなく接近していく様」の描写にある。
それがノンフィクションの魅力なのかもしれないし、ノンフィクションならではのリアリティかもしれないし、あるいはリアルの確実性を論証し切れなかった半端ものにだけ言えることかもしれないし、この魅力自体が小説に属するものかもしれない。
この一節は、ノンフィクションを全く読まない人間の憶測である。


「非現実」という表現は、生活や空間に対して使われる時、薄っぺらさという意味をもつ。
小説においても、現実においても同様に。
似た表現を探っていくと、何かが見えてくる。
薄っぺらさ、それは「何も立ち上がってこない」という予感。
動きがない、変化がない。

インテリア雑誌で、調度の行き届いた隙のない部屋の写真を「現実味がない」と言う。
これは、生活感がない、と言いかえられる。
この逆を考える。
「生活感がある部屋」は、ソファの上にシャツやズボンが(だらしなく)引っ掛けてあったり、テーブルの上に染みのついた(飲みかけの)コップがあったり、キッチンに掛けられたヘラやお玉のメーカー(色)がばらばらだったりする。
そういう部屋を、住んでいる人の性質が連想される、と言ったりする。
「生活感のある部屋」のリアリティは、この連想にある。
どういう人がここで生活しているのか、を、「確定できる情報が散在している」のではない。
生活者を、様々に、想像できるというプロセス(可能性)にある。
その内容は、想像する人それぞれに異なる。

つまり、リアリティの備わるプロセスには「個性」が介在している


リアリティは感覚的なものである、と言った。
それは、リアリティが対象に帰属するものではないことを意味する。
つまり、何かにリアリティを感じるその人の側の問題なのだ。
根本的には、という意味ではあるが。

 × × ×

先に書いたことに再度触れる。

「リアルになりつつあるもの」に現実性を感じる。
「リアルを失いつつあるもの」に非現実性を感じる。

そして、この稿を書くきっかけとなった一節を抜粋する。

 虫や魚や爬虫類はグレイゾーンに置いておくとして、哺乳類や鳥類となると「リアリティ」ではないにしても、その起源となるようなものを感じているのではないかと私は思う。そのように思うとき「リアリティ」は、進化の系に一貫して流れている「生きようとすること」と強く結びついていると、私は感じているらしい。

「第6章 「リアリティ」とそれに先立つもの」p.98(保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書283)

こう並べてみて、
生命の本質は変化にあるという日頃の認識に、
次の一文を加えたいと思う。

「リアリティへの感度は生命力と深い相関がある」

と。

 × × ×

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

Walking Margarine

Wシリーズ一作目、読了しました。


 × × ×

「逆に言えば、先生の研究は、両者の差を明らかにすることですから、その差をなくすためにも必要な知見なのでは?」
 ウグイの口から、それが出たことに僕は驚いた。グラスの液体を全部喉に流し込んでから、椅子の背にもたれて上を見た。

森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』

差異の認識が、同一化への足がかりとなる。
この逆説的なメカニズムの汎通性をふと考えてみたくなる。

学力テストの点数。
80点で満足していた学生が、友人の100点答案を見せつけられ、奮起する。

地方の名水の成分解析
独特と思われた味が、ある元素の含有率に起因すると分かり、人工的に製作される。


差異の認識というキーワードから、すぐ連想する事柄が2つある。
 一つ、仕事の細分化、研究分野の蛸壺化。
 一つ、知の発展が未知を生む、インタレクチャル・ネスティング・エンジン。
これらの事象に、当てはまるか否か。
あるいはその関係は。


専門分野がどんどん枝分かれしていき、同業者すらまともに議論できないほどマニアックな、重箱の隅の米粒を有難がる研究志向の本質は、知の無機化である。
自分が扱う対象に対して、随意に既知と未知をラベリングできるという傲慢。

「未知の知」の発動は、知性的活動のルールに忠実な、堅実さが前提される。
着実な一歩を積み重ね、固めたはずの足元が発見や偶然で崩れ落ちるのにめげず、自分が生きている間にゴールに辿り着く目算が立たない不安を抱え、人類知の夢と同輩の共感という願望に支えられながら、粛々と日々を送る。
ゴールがプロセスの礎であるという、ニヒリズム紙一重の自覚。


関係はもはや明らかだ。

差異は現象である以前に認識である。
差異が認識である以上、それは手段である。
手段の運用は、主体の意志に任される。


僕は「それ」と、同じでいたいのか、違っていたいのか?
なぜそう思うのか、その先に何を見ているのか?

 鏡に目があり、
 もう一つの鏡に自分を映して、
 その目が捉えるのは、
 自分か、相手か?

 光速は、ウサギとカメの、どちらだろうか?

 結局のところ、すべては、人の心がどう捉えるのか、という問題に帰着する。子供が生まれるとはどういうことか、生きているとはどういうことか、人間とは何なのか、そして、この社会は誰のものなのか……。
 きっと、それらをこれから長い時間をかけて考え、話し合い、少しずつ新しい思想を受け入れていくしかないのだろう。
 科学者の僕たちでさえ、まだしっかりと決められないのだ。一般の人たちが議論をするには、少し早いかもしれない。時間がかかるだろう、きっと。

同上

Fractal Apoptosis

 因果関係は、幻想かもしれない。


「鶏と卵の関係」とは、互いに相関のある二つの事象に対して、原因と結果を割り振れない状況をいう。
その起源が深い籔に覆われた、不確定な現象。
僕らはそういったものに出会うと、片付かない気持ちになる。
不安、といってもいい。
なぜなら、それが無限に広がりうる可能性を、言わないまでも察知しているからだ。

ただ思うに、
それは本当に、不安なのだろうか?
その不安は、不安でしかないのだろうか?


比喩について考えてみる。
栗鼠のような人間と聞けば、機敏な所作や、ものを堅実に貯め込む性格を思い浮かべる。
あるいは、間隔の開いたつぶらな一対の瞳という、顔の特徴もありうる。
ある人物を栗鼠に喩えた場合、栗鼠は彼の比喩である。
次に、この相関を前提として、こう考えてみる。
彼は、栗鼠にとっての何だろうか、と。
それにふさわしい専門用語があるか、受動形を付すか、いくつか想定はできる。

けれど、事はもっと単純なのではないか。
すなわち、
栗鼠が彼にとっての比喩なら、彼もまた栗鼠の比喩である。


夕食を自宅の冷蔵庫にある野菜で作るとする。
いくつかの野菜のほか、卵はあるが肉はない。
塩胡椒に加えて、旨味を引き出す香辛料が欠かせない。
例えば、キムチ野菜スープには生姜とコリアンダーを入れて、底味を堅める。
完成したスープは、野菜だしとキムチの化学的舞踊が堅実な基礎の台上で展開され、満足のいく味を発揮する。
香辛料を加えたから、スープが旨くなる。
その逆ではありえない。
これは、経時的現象として疑い得ない事実。

だが、本当にそうだろうか?
なぜ、僕は調理中に、コリアンダーの瓶を手にしたのだろうか?

彼らを足せばスープが旨くなる、と思ったからではないのか。
すると、想定されたスープの旨味は、香辛料の使用に先行した存在といえる。
つまり、
スープが旨いから、香辛料を加えたのである。

相関関係の因果が一方向に定まらない場合、それは因果関係とはいえない。



現実とは、客観性という限定が嵌め込まれた世界である。
リアリティにとって、その限定は必要条件を構成しない。
因果関係は、現実内の観察対象に、客観性の枠を維持したまま付与される。

客観性の限定を必ずしも受けないリアリティの意味、
ここで取り上げた効果の一つ、
それは、
因果が相関に呑み込まれる、ということだ。

時間は存在する。
ただ「時計回り」という決められた方向がない。
リアリティにおいて、時間は変化に限りなく近づく。
不変は変化の一部となり、一例に成り下がる。


脳の神経回路、シナプスの発光、経路の発生と増強。
あるいは、脳の生理レベルの活動においても、方向性は瑣末な事柄かもしれない。
ある神経が、どのような経路を辿って、別の神経と繋がったのか。
重要なのはその経路ではなく、神経同士が繋がっている現象の方ではないか。
そして、リンクの存在は、繋がり続けること、不変を志向するのではなく、新たな繋がりを生むこと、変化を志向する。

礎の自覚と、衰微の受容。
ミクロな自死の集積によって、有限で無限の、つまり有期限で無辺際の意識活動が成立する。


フラクタルアポトーシス
人間の自死は、意識か、それとも……

【ボルダリング】400円でチョークバッグ自作

チョークバッグは、滑り止めの粉末チョークを入れる袋です。
厳密には、バッグ内に入れるチョークボールの内部にチョークを充填します。
チョークボールは布地のお手玉サイズの球で、握ると生地の隙間から粉が出てくることで、手に粉をつけるもの。
チョークバッグは、チョークボールから出てきたチョークを受けるためにある。

構造としては、外袋と内袋が別になっていて、紐を絞れば内袋が閉じて、粉が外に出ないようになる。
また口が円形に開いた状態を維持できるようになっていて、口の縁をゴソゴソしないでも手を入れることができる。
写真の右側が市販のものの一例です。

仕組みが単純なわりに値段が高いというイメージがあり*1、今回二つ目が必要になったので自作してみました(写真の左側)。
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【材料】○のついた4つを100円shopで購入。下写真参照。
 ○巾着袋(なんとなくデニム生地)
 ○針金(ある程度形状維持できる太さのもの。今回はφ1.6mm)
 ○ダブルクリップ(外袋と内袋を固定するため)
 ○ストッキング(これでチョークボールを作る)
 ・ビニール袋(内袋用)
 ・輪ゴム(チョークボールの口を閉める。1つor2つ)

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【ポイント】
1. 針金はバッグの口を円形に広げて維持できるように円状に整形する
2. 円状にした針金は内袋より内側に嵌める
3. クリップ3~4個で、外袋外側から針金を挟むように留める
4. しまう時は固定用クリップ1つを残して、残りは内袋の口を閉めるために使う

下の写真(上)は使用時の状態。チョークを表面に滲ませたチョークボールも見えます。
床に放り出しても、このように口が開いた状態を維持します。
写真(下)は使い終わった後。粉が出ないようにクリップでビニール袋を閉じています。
最後に外袋の紐を締めれば、粉は漏れません。

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こんなところです。
室内ジム用としては、市販のものと機能性は変わりません。
使用開始時と終了時にクリップを留めなおす手間はありますが。

チョークボールをストッキングで作るという話は何度か目にしましたが、バッグそのものの自作はあまり見なかったので、自分で考えて作ってみました。
DIYイデアの肝は、針金とクリップでしょうか。


チョークバッグ高いなあと思われたことのある方、自作を一度お試し下さい。
ちなみにチョークはこの間DIY的発想で大失敗しましたので、同じ過ちが生じぬ意図で付記しておきます*2

*1:写真の市販バッグは片手がぎりぎり入るサイズで、登りながらチョークをつけられるように腰紐がついているタイプ。三千円ちょっとします。室内ジム用の両手がすっぽり入るタイプはもっと高価。今回作ったのは中間サイズですが、要は欲しい大きさの巾着袋を入手すればよい。

*2:「家にある粉で…」と思って、小麦粉を使ってみましたが、恐ろしいほどツルツルになってしまいました(ジムの人には秘密)。卵の殻が原料のものがあるようですが、それを自分で作るには加工機械が必要でしょう。すり鉢くらいじゃ歯が立たないし。

Led Lake, Moon Magic

 
「いやあ、また発見がありましたね。表面部と深部で異なる主ベクトルを形成することで、結果として領域全体の流れ内での局所摩擦を回避するとは、想像もつかないことでした。あれを観察対象として捉えた場合、流れは近似球面方向にのみ存在して、深度は流れの厚みという概念でのみ評価されるというのが、一般的な見方だからです」
「そう言ってもらえると恐縮です。自分の一部であるにも関わらず、自分の目で直接は確認できない対象、この自他境界的な現象の専門家としては、専門外の思考や観点が新たな発見につながることもあります。ご興味を持って頂けることは私の研究の発展にもつながります」
「そうですね。発見とは、そうして連鎖するものが本来の形なのかもしれません。発見の新しさが、現象自体ではなく、現象の把握方法に属する以上は、ある特定の対象に取り組み続ける者の発見が、同業者に影響を与えずにおかないのは当然といえます」
「研究者にとっての、プロセス的幸福ですね」

「ところで、先程あなたがおっしゃっていた、憧憬対象による心理的作用の相違について興味があるのですが、先に疑問を提示しておきましょうか。身近な人物に対するトータルな憧憬が起こりにくいのは、どうしてでしょうか?」
「それは、僕も気になるところですね。というより、この論点自体がつい数十分前に浮かび上がってきたものなので、思考の現在位置として、湖道さんとそう遠くない地点にいると思います。つまり答えを速やかに提示できる用意がないということですが」
「ああ、これも"発見"の一つでしたね。文脈の希薄さがまた面白い。では再度、論点の整理からスタートしてみてはいかがですか」
「お時間は大丈夫ですか?」
「構いません。未来の予定は常に計数上限を超えていますが、前世が煙突掃除人だったものですから」
「ほう、それはまた。煤に塗れるのには慣れている、と?」
「そうです。会議や視察なんてのは、みんなで集まって燃え滓を拝むようなものです。みんな火傷を嫌がって、そのくせ嫉妬の炎は聖火リレーの如く絶やすまいとする」
「はは。…ええと、何の話でしたか」
麻月さんは先程、憧れの人物は小説の中に沢山いる、とおっしゃっていました」
「ああ、そうでした。あなたに”どういう人に憧れるのか?"と聞かれて、改めて考えてみるとそういえばそうだ、と思ったのです」

「身近にいる人物がまあ、いちばんリアルな他人だとして、テレビや新聞で動向が知れる有名人などは中間的だと言えそうですが、リアルな他人の対極として、小説の登場人物を想定することができます。ある人物に憧れを抱く場合、その対象は今挙げたようなリアルの度合に関係なく存在し得ると思いますが、その憧れ方、憧憬形式とでも言いますか、そういう視点で見ると、リアルの度合に応じて差異が現れてくる気がしたのです。それが、さっきも言いましたが、身近な他人に対しては"外見や性格など、人物の一部の性質"に憧れるのに対し、小説中の人物には"性質や振る舞い、佇まいなどを含めたその人物のトータリティ"に憧れる。このような傾向を見出だせる可能性を考えました」
「その差異が現れる根拠として、憧憬対象から得られる人物情報の違いを指摘されておられました。つまり、一方のリアルな他人には直接対面することによる大量の情報入力があり、他方の登場人物は文章という量、形式ともに限られた情報しか取得できない、ということでしたね」
「ええ。生身を目前にした圧倒的な情報量は、全的把握が不可能という印象につながります。従って、自分の判断は自己が認識できた、その人のごく一部である性質に対してのみ下され、その判断のさらに一部が憧れの感情を抱く対象になる。簡単に言えば"リアルな他人の、一部そのまた一部に憧れる"。小説の中だとまた話は変わって、物語のほんの一部の人物描写やらその人物の視点の描写が、読み手に知れる人物情報の全てで、これは憧憬という強烈な感情作用を注ぐには不足である。この場合、憧れの感情そのものが、少ない入力情報を増幅する機能を獲得する。だいたい、小説を読むこと自体が"行間を勝手に膨らませる営み"なので、その下位事象であるこれも当然といえばそうなのですが、結果として、読み手の特別な感情を刺激し得た登場人物は、彼に関する描写のすべて、加えて彼に関係のない場面やらそもそも小説に書かれていないことも含めて、読み手の全的な憧憬対象になる。まあ、これは全的というか"拡張他我"とでも呼ぶか、よくわかりませんが」

「拡張他我、ですか? 拡張自我なら聞いたことがありますが」
「そうです。僕もその言葉からの連想です。高速道路のドライブインなんかに行くと、ジャージ姿で歩くカップルや家族連れなんかを見かけますが、あれは家族の車が彼らの家の一部屋と認識されていて、だから彼らにとっては近所のコンビニから車で一時間かかるドライブインまで、"家に居ながら"移動できる場所はどこでも家の庭にいる感覚なのですね。きっちりお出かけの準備をして家を出発してきた身からすれば、それがなんとも異様な光景に見えるわけですが」
「なるほど。それも興味深い話ですが、すると、車内や"家の庭"が拡張自我にあたる、と?」
「えーと…あれ、どうだったかな」
「まあなんとなくは分かりますが」
「そうそう、言いたかったのは、つまりこれが"自我持参"というやつなんです」
「ぷっ」

Ouroboros Optimization

森博嗣のWシリーズを先日、図書館で借りて読み始めています(第一作の『彼女は一人で歩くのか?』)。
本が薄いなと思いましたが、無駄が排除されたシャープな印象を、Vシリーズ(これも先日から電車内用に『赤緑黒白』の再読を始めました。文庫版は表紙がオシャレなのでカバーいらずで読めます)と比較するとはっきり持てます。

一方で、十年以上前に芥川賞だったかをとった円城塔の作品を読んで気に入ってからの縁読(今命名しました。いいですねこれ。でも「えんどく」の他の変換候補がどれも仰々しい)で伊藤計劃を知り、円城氏が伊藤計劃の未完遺作を書き継いだ『屍者の帝国』をはじめに『/harmony』を読み、そのマンガ版(今どきの隙のないデジタルな絵風なんですが、表紙の女性の沈鬱な表情が気に入って手にしました)は今読んでいて、それと同時に購入した『伊藤計劃記録』は短編と雑誌掲載のエッセイが混ざった本です。

伊藤計劃記録

伊藤計劃記録

『彼女は一人で歩くのか?』も『伊藤計劃記録』収録「from the nothing, with love」もSFで、人間とは何か、人間性の科学的な測定は可能か、という同じテーマを含んでいます。
この二作品を併読していて、ちょっと思考が刺激されて、それは端的にタイトルに表現したようなことなんですが、その中身をメモしておこうと思います。

 × × ×

「最適化」という思考は、これは計画やプログラムとも言えますが、ある目的に至る手順の無駄や非効率を排除するために行います。
余談ですが、僕は大学で所属した研究室のテーマが「最適設計工学」だったので、この言葉には通常の(辞書的な)意味以上のものをいつも思い浮かべます。

最適化を数値計算で行うには、目的関数f(x1,x2,...)を設定するために、fの影響因子x1,x2,...を決定します。
影響因子はつまり変数で、これらの変動に従い計算されるfが最大(小)値あるいは極大(小)値をとった時に、その変数値の並びを最適化された状態と呼ぶ。
もちろんのこと、目的関数と影響因子を設定する段階で、解析対象である現象はいくらか捨象され、単純化されます。数式で表現しようのない事象は無視され、二次元軸上にプロットできるデータ群は近似曲線で表される。

メモの要約は次の通りです。

 最適化の対象は、最適化によって無駄が排除された、単純な存在となる。
 最適化の作業は、現象に具象と抽象の境界線を引く、複雑な行為である。

飛躍。

 最適化の作業は、人間が、人間(的)でないものに対して行う。
 あるいは、最適化の対象は結果として、その人間性を喪失する。


『彼女は一人で歩くのか?』の主人公は、「思考の人間性を判定する測定技術」を扱う研究者です。
見かけでは判断できない一個体をその測定にかければ、人間とウォーカロンを区別できる。
しかしその技術を元にすれば、「その測定をパスする技術」の開発も可能となる。
つまり、人間的に思考する(と測定器に誤診させる)ウォーカロンを製作し得る。
イタチごっこ

それにはなるほどと思い、そのすぐ後で「from the nothing, with love」を読んでいて、ごく単純化していえば「人間の最適化が極まると意識が不要になる」という物語のテーゼが出てくる場面を読んだ時に、これはこれでなるほどなんですが(池田清彦曰く、進化論的には人間に意識は不要だそうなので)、恐ろしい連想が浮かんだのでした。

 「思考の人間性を判定する測定」に、全き人間がはじかれる可能性。
 正真正銘の人間が、ウォーカロンと誤診される可能性。

 × × ×

タイトルについて再び。

上の飛躍を受け継いでの話なんですが、
最適化、たとえば都市計画なんかを思い浮かべればいいんですが、
そういう最適化は人間を対象にしていて、
そしてその計画主体も対象に含まれているわけで、

 ごく人間的な営みが自分自身を非人間的にしていく

という構図が思い浮かびました。


何かすごく、普遍的なことに繋がる気がしているんですが、もしかして、当たり前なことなのかもしれません。
それに恐怖を感じることが、一時の流行として遠く過ぎ去ったかのような。

そういえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントといった科学哲学者に興味を持っていた大学三回生の頃も、こんなことを考えていたような気がします。

根っこのところは、変わっていませんね。

石黒浩と森博嗣

『"糞袋"の内と外』(石黒浩)を読了しました。

序盤を読みながら、何度か『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣)の内容を連想し、それもあって、この二人は似ているかもしれないと気付きました。
一度そう思い込むと不思議なもので、いろいろな符合を見つけることができます。
まず二つ上げれば、それは「研究者」であり「孤独」であること。
前者は「探求者」と言ってもいい、現在の森氏は完全に隠遁趣味人らしいので。

こんなに(と説明なしで使いますが、つまりただの感情的表現)似ているのに何が違うのかといえば、文章を書く姿勢、だと思います。

石黒教授は、思っていることを、そのままズバリと表現する。
以前の著書を読んだ時に僕は、その本のことを「生データの宝庫」と呼びました。
実験内容とその結果・考察が、純粋に科学的な目線で展開されている。
その考察のうちには教授自身の興味が多く混ざっているはずですが、その個人的趣向すら、客観性に通じている。
文学や詩の性質を全く備えていないはずなのに、その極端な直截性が「科学の彼岸」を垣間見せている。
こういった著書に関する印象は、今回の本も変わりません。

一方で森氏は、言語出力にさほど意味を追求していない。
いや、意味の厳密性を求めていないという意味で、その曖昧さ、ロバスト性が、言語表現の新たな地平の模索となっている。
例えば、多くのミステリィ著作には氏の自作の詩がついており、また何と言ったか、著作の各章冒頭にその一節を引用するための過去の名著が一冊ずつ選択されている。
詩は、リズムつまり韻や拍子を有し、使用された語のもとの意味と、そのリズムによって普段はありえない語同士の組み合わせによって新たに生じた意味とが未知の反応を起こす。
氏の著作と引用作品(の一節)との関係も然り、引用作品は過去の有名なミステリィアガサ・クリスティとか『盗まれた手紙』とか)の場合もあるが、『武士道』(これはVoid Shaperシリーズだったかな)とか『数学的経験』とか、流体力学の基本書とか、著作との関係性が必ずしも分かりやすい選択になっていないことも、詩的な感覚がはたらいているからだと思う。
(いや、「著作のモチーフとして引用作品を選ぶ」のは、わりと一般的なことかもしれない)

司書講座でよくつるんでいた友人が、森氏について「彼が真賀田四季以外のことを書く必要はない」と言っていたが(なんとも傲慢な友人である。ちなみに彼は絵描き、「画伯」である)、その気持ちは理解できるものの叶わない願望だと思うのは、たぶん「天才(性)を直截的に文章化しても理解できない」からだ。
凡人の理解を遠く離れた存在を天才と呼ぶなら、どう書こうが一緒だとも言えるが、理解云々とは別に、努力なり志向の先鋭化なりによって、天才の境地に至ることは可能かもしれない。
(小説中の話ですが、最近『四季 冬』を読み返して、犀川創平が四季と同じ思考回路を持っている(と四季が評価している)ことを知りました。CPUのクロック数を別にすれば犀川も「天才」で、しかし彼は一般人の社会に住んでいる。というこのことは希望であり、同じ希望は石黒教授の今回の本を読み終えて感じたものでもあります)
天才の定義自体に興味はありませんが、天才がそう遠いものでもないと思えることに意味があるので書きますが、天才を素質やら能力の卓越性と見るのではなく、指向性・志向性の問題として捉えることもできる、僕が「希望」というのはこの意味においてです

書きながらどんどん飛躍していきますが(というのも石黒教授の本を読んでいる間は天才のことなんて頭の隅にもなかったからです)、本書の内容を鑑みれば、天才性と人間性とはイコールである、と言うことすら可能になります。
もちろんこれを「自分は天才なのか」とも「自分は畜生以下か」とも解釈できる、これが矛盾であり、進化の可能性でもある。


 × × ×


以下、『"糞袋"の表と裏』からいくつか抜粋します。
それに合わせて、本記事冒頭で触れた森氏著書の連想した部分を引用しようと思ったんですが、具体的にその本を当たっているうちに、別の本もいくつか混ざっていることに気付きました。
とりあえず並べてみて、何か書ければコメントします。

 先の人間の定義の中で、人間は肉体的には定義できないことを議論した。肉体が機械に置き換わっても、人間は人間であり続けられる。そうであるなら、脳の活動を何らかの方法でコンピューター上で再現することができ、私の脳の活動と他人の脳の活動が、ネットワークを介して関わることができれば、そこには人間の社会が存在し、「私」とは何かを探し続ける人間が存在していくのかもしれない
 純粋精神的存在としての人間は、自分にとっては理想的な姿のようにも思える。日常の煩わしさや物理的な身体を持つことの煩わしさから開放され、人間として最も重要な「私」を考えることだけを純粋に遂行して永遠に生き続ける

第一章 私はだれ? p.67

 しかし一方では、彼女の大部分は暗闇の中に沈み、静座し、見るものもなく、聞こえるものもない。純粋均質な無の空間に浸された自分と、それ以外のすべての存在の相互連関について、既に構築された数々の構成則を修正、微調整する作業に没頭していた。すなわち、意志の存在とはネットワークの成長にのみ顕在化する、という単純な予想は、未だに覆されていない

 死者は泣かない。
 泣くのは生者だ。
 可哀想なのは、いつも、残された者たち。
 死んだ者は、自由を得たのか?
 生きているからこそ、考えることができる、という発想が既に不自由だ。それに気づかないのは、何故だろう? 誰も死んだことがないから、その自由を想像できないから、ただそれだけなのか?
 生命活動の束縛を断ち切ることは、充分に可能だ。
 理論的に、技術的に、可能なのだ。
 人間には、それができる。
 肉体が死んでも、生きることができるはず。
 それを受け入れることさえできれば。
 そのとき、初めて、人は真の自己を認識するだろう


森博嗣『四季 冬』

両者はほぼ同じことの言及、同じ状態への志向だといえます。
「身体の煩わしさ」については、四季は何度も言及しているし(犀川はそうでなかったかもしれません)、森氏自身もエッセイで触れていたような気がします。

 自己意識を作り出している物事の解釈は、本来周りから与えられたもので、今もなお、環境の影響を受けながら自己意識は作り上げられ、変化している。
 思うに、自己と環境の境界は曖昧で、自分を意識するときの注意は常に、自分と社会や自分と周りの者との違いに向けられている。人を見ながらあの人と僕はここが違うとか、あの人はあの食べ物が好きだけど、僕は好きじゃないというように、人を見ることで自分を発見し、それが自己認識につながっている。そういう意味では、自己認識という意味の意識は自分と他人、自分と自分でないものの境界に存在する

 第一章で、人間は感覚器の集まりでできた糞袋のようなものだという話をした。糞袋は世界の中に存在するのだが、その糞袋を裏返しにすると世界が自分の中に入ってくる。そのように考えると、世界の中に自分がいるか、自分の中に世界があるかは問題ではなく、世界と自分を分けるのが自分であるということに気付く。
 
第四章 つながりと社会 p.156, 158

「つまらないなんて言いだしたら、なにもかも全部つまらない。最初からずっとつまらないよ」
「そうでもない。面白いものもあった。沢山あったわ」
「今はそれがない?」
「たまたま今だけないのか、これからずっとないのか。私の周囲、外側の問題なのか。それとも私自身の、内側の問題なのか、まだ判別がつかないの」
そもそも、その両者は別のものなのかい?
外側と内側が?
「そう」
「さあ、どうかしら。確かに、それを明確に区別する一線は存在しない。私の外側にも、私は進出している
「内側にあっても、君がコントロールできない領域もある。それくらい、僕は知っているよ」
では、内側という概念を再構築しましょう。私がコントロールできる範囲を、私の内部と定義します


森博嗣『四季 冬』

後者の抜粋について、これは四季と其志雄の会話ですが、其志雄は四季が幼い時に「吸収」して内面化した人格なので、四季の内部ネットワーク上の会話です。
四季は天才で、ではこれは天才特有の現象かと小説を読んでいる間は思ってしまいますが、前者の石黒教授の言葉と合わせると、これは一般的な現象であって、一般的でないのは「それが言葉として明示されること」の方であったことがわかります。

 さらに、自由になるということは、都合の悪いこともいいことも全て受け入れて、その両方の根幹に横たわる、より深い問題に思いをはせる。つまり、より根本的な問題に興味を持つということであろう。
 より根本的な問題を考えるとき、自分に都合がいいとか悪いとかは関係なくなる。
 現実の世界に生きていると、日常の表層的な問題に一喜一憂することがある。それゆえ、不自由や不幸せを感じることが多い。しかし、その表層的な問題の根幹となる問題に興味を抱けば、表層的な不自由や不幸せに悩まされることはなくなる。
 例えば、人と口げんかをしたとしよう。口げんかの内容に振り回されるのではなく、なぜ口げんかをするのかとか、その口げんかの論理とは何かとか、人間にとって口げんかの意味とは何かという、より重要で深い問題に興味を持てば、口げんかの内容などどうでもよくなってしまう。
 すなわち、自由になるということはより深い問題を考え、考えることそのものに価値を見出すということだと思う。そうしてあらゆる可能性を受け止められる状況を作り、またさらに深い問題を考えていくことができるようになる

第六章 自由 p.189-190

 だが、さらに抽象すれば、結局はみんなが、自分の楽しさのために生きていることでは、まったく同じだといえる。たとえば、意見が対立して喧嘩をしている二人を観察しても、どちらも自分の利益を求めて譲らず、それが争いの元になっている。違っているから喧嘩になるのではなく、同じことを考えているから喧嘩になるのだ
 考えてみれば、人間と石はあまり対立しない。それは、人間と石がだいぶ違うものだからだ。人間と犬だって、滅多に喧嘩をしない。対立するのは、人間どうしなのだ。小さな子供と老人が言い争いをすることも稀である。似た者どうしが喧嘩をする。国どうしが対立するのも、お互いが、似たレベルで、同じように考えているからである。
 ふと、そんなふうに、物事を抽象すると、くすっと笑えないだろうか?


第4章 抽象的に生きる楽しさ p.152-153
森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

抽象的な問題とは、ある面においては深い、根本的な問題である。
前者の「より根本的な問題を考える」具体例(口げんかについて)の、後者はその具体的な解説の一例になっています。
石黒教授は「考えることの自由」について述べ、森氏はその横で実際に「自由に考えること」を見せてくれる。
引用を並べてみて、そういった、二人の教授(片方は「元」)による豪華なコラボ講義を想像することができます。

 理解するとはどういうことかと改めて考えると、新しく知り得た物事を、様々視点から説明できるということだろう。(…)しかし、新しく得たことが概念的なことであると、そう簡単に説明することができない。
 そうしたときに大切なのは、思い込むことである。例えば、「心」という概念は皆が持っている概念で、それがなにがしかの形で存在すると思い込んでいる。たとえ物理的な存在ではなくとも、それを生み出すメカニズムが、人間や人間社会にあると思いこんでいる。
 新しい概念は、いったんその存在を思い込むことで受け入れ、それからいろいろな角度から説明をつけるのがいい。受け入れなければ常にわからないという状態が続くだけで、理解を積み重ねることは難しい。
 そしていったん受け入れたなら、そのことに次々に疑いをかけてみる必要がある。自分の理解に疑いをかけながら、また別の視点から考え、基の理解を修正する。そういったことを何度も繰り返して概念は理解されるものだと思う

第七章 挑戦 p.221-222

 攻撃は最大の防御という言葉があるが、相手が防御しようと構えている場合には、そうそう簡単に有効な攻撃をすることはできない。むしろ相手が攻撃に転じるその一瞬に、隙が見出される。ボクシングでいうところのカウンタである。それは、エンジンのピストンのように、動きが反転するところで、一瞬静止することを想像すれば理屈は簡単だ、と彼は考えていた。この男は、こういった不思議な理屈を幾つも持っている。類似する現象を見つけ、それによって理屈を作る。信じることを、正しいことに塗り替える。それが彼の手法なのだ。

森博嗣四季 夏

後者は前にも一度抜粋しました。
「この男」とは、Vシリーズ(第一作は『黒猫のデルタ』)の語り手である保呂草潤平のことです。
これも、前者の論理に対して、後者が具体例となっています。
そしてこの連想によって連鎖的に発生したことは、保呂草は探偵・便利屋稼業を表向きに行う泥棒なのですが、彼にはクリエイタ気質があるということ。
情報を収集して分析したり、あっちのものをこっちに(時として違法に)移動させたりする人間が、何かを創り出している。
これは、ものづくりに携わる人間としても、読書を生活の一部とする人間としても、なかなか興味深いことです。

香辛料の国 1-9

 
 ローズマリー画伯の言葉を反芻する。「絵を描く間、時間が不思議な流れ方をする」。このことは「不思議でない時間」、すなわち通常の時間の流れ方をも示唆する。
 感じる者によって、そして同じ者でも状況によって、時は不規則に刻まれるだろう。すなわち、それが時間の主観的な側面である。
 その原理を知ることに意味はあるか。
 その知識は当該の時の流れに如何なる影響を及ぼすか。
 自己観測の、評価基準の変化による入れ子性との関係はあるか。
 時刻の前進性を不動のものとする定針器は、主観的な時間とは別物に見える。かの装置は理想か、標本か。あるいは永遠か、束縛か。


「もちろん、定針器は毎日見ますよ。講義は決まった時間に始まるし、遅れると先生に叱られますから」
「そうだろうね。時間割に従うためには、時間を無視するわけにはいかない。じゃあ、講義とかそういった、始まりや終わりの時を知る必要がない場合に、定針器を見ることはあるかい?」
「そりゃあ、まあ。言うまでもないと思いますけど、そんなことは生活の中でいくらでもあるんじゃないですか?」
「うん、それも違いない。我々が集団として関わり合うからには、必要の時刻は予め決定されている以上に、自分たちで決めていくものだからね」
「はあ。よくわかりませんけれど、つまりはどういうことですか?」
「すまないね。迷走した議論に付き合わせてしまって」
「いいえ。講義仲間とは他愛ないおしゃべりばかりしているので、フェンネルさんの話はとても新鮮です」
「ありがとう。ディルウィード君の思考に、なにか刺激になるものが提供できれば僕も嬉しいんだけど。えっと、それでね。ちょっと前から時間の主観性について気になることがあって、鮮度層を広げてインタビュをしているところなんだよ」
「では、私には若手としての意見を求められているのですね」
「そんなところだ」
「承知しました。なんでも聞いてください」

「聞けるところまでが長いかもしれないが…前段からいこう。時間の流れは通常、客観的には定針器が決めている。僕らが一緒に何かをする場合に、お互いに異なった流れ方をする時間を基準にしていたら、行動が合わせられないから」
「当たり前を言葉にすれば、そうなりますね」
「そう。で、定針器の刻む時とは別に、我々個々に異なる性質をもつ、主観的な時間がある。これは同じ自分でも時を感じる状況によって変わるから、ここではひとつの自然な状況、たとえば近くに誰もおらず、特定の作業に没頭していない場合を考えよう」
「はい。そうすると…一般的には新鮮な者ほど時の流れが遅い、と言われていますね」
「新鮮な者には先の時間が無限に思える。逆に言えば古びた者は、終末の予感とこれまでの生の蓄積が参照できる分だけ、時間を早く感じることになる」
「私もそれで納得できていますけれど、そうではないのですか?」
「筋が通っているし、僕も納得はできる。でも、常識とは…いや、常識も感覚的なものだからそう呼ぶのはいいんだけど、定理とか、法則とか、そういうかっちりした表現は合わないと思うんだ。あくまで、通りのよい一つの考え方に過ぎない」
「うーん、そう言われてみればそうかもしれません。では、今のフェンネルさんはどうお考えなのですか?」

「いや、それが、この通説とどう違うかというのが上手く言葉にできなくて、それで君と話しながら糸口を掴もうと思っているのだけれど…そうだね、さっき『生の蓄積』と一口に言ったけれど、これはどういうことかわかるかい?」
「はい。つまり、月を経ていろんな経験をすれば、その経験のそれぞれに伴う時の長さも知っているわけで、そういった蓄積を今の自分がざっと思い返せる短さ、瞬間性って言えるんですかね、その長短の対照で、今流れる時間のテンポが短く思える、つまり時の流れの早さを認識する。といった感じではないでしょうか」
「大体そんなところだね。そう、今君にそう言ってもらって、思ったんだけど、そういう経験を持つ古参であっても、彼の中で時間がゆっくり流れることは、あり得ないことではないだろう?」
「そうですね。主観的な時間なんだから、鮮度の常識を個性の強度が上回る場合もあると思いますが、でもそれはやはり、例外なんじゃないですか?」
「うん、そうかもしれない。バジル爺に僕はそういう印象を持つんだけれど、他に例が浮かばないという意味では、例外であり、特殊な状況かもしれない。でもね、通説やら常識にはちゃんとした説明を付けておいて、それに当てはまらない事象に対しては思考の筋道を立てずに例外の一言で片付けるのは、まっとうな知性の発動とは言えないと思うんだ」
「ああ、そうか。おっしゃる通りです、そのために今私たちが考えているんですものね。あいつとは相性が悪いだの、湿気た日は動きづらいだの、日常的なことばかり喋っていると、頭なまっちゃいますもんね」
「…まあ、頭の体操と思ってもらってもいい。やらなきゃいけない、というわけでもないし」
「そうなんですか? それにしてはフェンネルさん、眉間にシワなんか寄せて、真剣そのものですけど」
「これはデフォルトなんだ、気にしなくていい。湿気てるのも元々だ、難破したわけじゃない」
「…? そこまで言ってませんけど」

「話を戻そう。さっき例外と君が呼んだ状況に、僕らは説明を付けようとしているとしよう。主観的な時間とは感覚的なものだ、と言われている。感覚は、個々の異なる性質に基づいている。一方で、過去の経験と時の経過とが参照されている、という話をした。この2つは、主観的な時間の流れに対して、質の違う影響を与えているはずだ」
「質が違う…と言うと、感覚的なものと、理性的なもの、ということでしょうか」
「その通り。そしてこの「質の違い」に説明をつけてみよう。感覚的なものの方を主流、理性的なものの方を傍流とする。主流は、影響因子ではなく、被対象、つまり流れそのものであり、傍流はネガティブな影響因子である」
「ええと…」
「つまり、身体と脳の比喩だね。身体に意思はなく、評価もない。脳の駆動リソースである意思と、そのフィードバック機能を担う評価によって、時間の概念が発生し、意味づけられる。ネガティブと言ったのは多少の僻みが入っているけどね」
「うーんと、細かい所よくわかりませんけれど。簡単に言えば、理性が時間に色をつけている、とおっしゃるんですよね。感覚だけならそもそも、時間の流れに早いも遅いもない。…その、ネガティブと言われたのは、何かその、余計なことを考えなければ時間はゆっくり流れる、とおっしゃりたかったのではないですか?」
「ああ、そうかもしれないね。意識は常に自縄自縛だけれど、解けない縄こそが意識そのものであって、ぐるぐる巻きにしないとか、結び目はゆるくしておくとか、そういう工夫を感覚に対するポジティブな影響と考えた方が、うん、それこそ『結び目がゆるくなる』だろうね」
「なるほどお。バジルお爺さん、たしかにちょっと、呆けたところありますもんね」
「それ、爺に言っちゃだめだよ。僕の閉口処理がメモリ不足になっちゃうから」
「…なんの話ですか?」


 後悔先に立たず、という。行動する前に後悔はできない、という意味かと思うが、実は後悔とその対象となる行動との相関は希薄である。結局のところ、後悔を催させるのは、彼のトータルな現状であって、その対象は時の気分で恣意的に選択されるに過ぎない。これを「後悔後にも立たず」という。後悔ができるのは今だけであり、その今とは、自分が舵をとって洋上を滑り進む、航海真っ只中のことである。「後悔、海を渡る」なんてタイトルの映画があってもおかしくはない。それほどまでに全ては「現在進行系」なのである。
 時の流れに疑問をもつことは、生の意味を問うことに等しい。解を得られぬこと然り、中断できぬこと然り。定針器とは、鏡の別名であった。

香辛料の国 1-8

 
 神の存在は任意である。誰のためにいるわけでもない、我々に関与しない存在として、神はある。信仰して跪くのも、邪教と罵るのも、我々の都合に過ぎない。祈りは浸透し、呪いは顕現する。形のない思念は、神を透明にする。
 かつ、触れれば反力で応え、凭れれば摩擦が支える。有るものは唯無く、在るものは唯泣く。どこまでも遠く、どこまでも近い者として、無関係に等価的に、我々と神はある。

「お告げにも間違いはあるものぞ」
「え、そうなんですか?」
シンタックス・エラー」
「……」
「耳が遠いのか? 傍におらぬのか?」
「いえ、しかと聴こえております。そしてお側に」
「わしはうどん派だがな」
「……僭越ながら、私は蕎麦の方が好みですね。色がついている方がお得な気がして。いや、変な話ですが」
「そんなこと聞いとらん」
「失礼しました。それで、お伺いしたい話というのが…」
「分かっておる。今カミさんに聞いておるところじゃ」
「はい」
「んーとな、ふん、ふん、ふうむ。……いかんのう。今晩は蕎麦だそうじゃ。うどんが良いと常日頃から言うておるに。お主がいらんことを言うたせいじゃ」
「は、申し訳ありません…? あの、バジル爺の夕食のことではなくて、ご神託の行方の話なのですが」
「ほ? おお、そうじゃった。うん、な? 分かっておろうが、冗談じゃて。古くなると雑音が増えてのう、意識が制御を離れて混雑するんじゃ。まあ、並行処理といえば聞こえはいいが、お主の方は拗ねて黙り込んでしまうからのう。つまり、ああ、閉口処理で対抗ということじゃな。ふぉっ、ふぉっ」
「…いや、相変わらずお見事な舌鋒です」
「おべっかはよろしい。口の端が曲がっておる。そんな、この世の終わりのような顔をせんでも、絶望の対象はそのへんにいくらでも転がっておるわい。ジジェクもそう言うておる。さて、では本題に入るとするかな」
「よろしくお願いします」
「『我ら香辛属の未来について』。ふうむ、フェンネル坊はどうして、こう、頭が堅いんかのう、もっと軟派な発想をもたんと、船も沈んでしまうぞな。まあの、水没するまでもなくお主は湿気とるからのう。まあま、そりゃよいわ。…ん、むう、むん。…つう、つう、とんとんとん」
「…?」
「ん、出た出た。出ましたぞい。『属の未来は明るい、これは運命により定まっている。ただし明るさの測定は理想暗室にて照度計PW-05Sを使用のこと』。うむ、宜しく御身に然と刻まんことを」
「……。ええと、託言について、爺に一つ質問してよろしいですか?」
「どうぞん」
「は。その、照度計はまあいいとして、我々は何を測定すればいいのでしょう?」
「わしの解釈を聞いておるのだな。ふむ、言葉通りなら『属の未来』じゃが、そんなもん暗室には持ち込めん。つまり、比喩ととるか、冬ととらねばならんのう」
「比喩と、えっと、冬ですか?」
「そうじゃ。冬は厳戒の季、限界の機。香は沈、色は闇。空間が澄み通り、光を見るには絶好の期である。火を灯さず秘を友とし、香色の自ずから出づるを待つべし」
「はあ。それで、ついでに照度計とは…」
「ついではなしじゃ」
「え?」
「嫁いでからの話じゃ」
「…え?」
「ナンパでもせいと言うておる」
「……」
「ほっほ。閉口、閉口と」

 我々は、過去と未来を所有する。かつて曖昧で間欠であったバーチャルな手段が、次第に緻密で広範囲となり、バーチャルがリアリティを帯びるに至った。現在が、過去と未来の横溢に埋没する仕儀となった。だが、手段の発達は本質には及ばない。我々が所有できるのは、形のあるものだけであり、そしてこれも幻想である、つまり、所有の概念には形がない。バーチャルの精緻化が糊塗するのはリアルではなく、バーチャル自身すなわちバーチャリティである。
 神に形はない、ゆえに神はあらゆる質を帯びる。バーチャリアリティの隙間から窺う神の目は透き通り、何も映さない。神を覗き込まんとする我々の身振りは、永遠に空振りする運命にある。

小松菜+カルダモン+セージ=アボカド

レシピメモです。


野菜だしを使った野菜スープの話は前に書きました。
cheechoff.hatenadiary.jp

いつも参照している野菜スープ本に載ってない野菜「小松菜」を使って昨日野菜スープ作ったんですが、普段は入れないスパイスを足してみたくなって、小松菜路線を維持しつつ推進する(つまりスープ味付けの段階で香りをみて、その香りを邪魔しないようにする)2種、カルダモンとセージを入れてみると、小松菜とは思えない洋風スープになりました。

で、3日分作って初日はふつうにスープとして食べて、2日目の今日はバリエーションとしてドリアにしたんですが、玄米の上に野菜スープを盛ってオーブンで焼くだけだとバリエーションの意味がないのでドリアにする時はいつも思いつきでトッピングをするんですが、今日のトッピングは何かが大当たりして、小松菜風味は完全に消えて、まったく別の何かの味がして、もちろんゲテモノになったわけでなく美味しいのですが、「大当たり」と言ったのは「食べてみてもとの材料がわからないくらいの化学反応的変化が生じた味の組み合わせ」という意味で、普段の自炊でこういうことがほとんどないのでびっくりして、ぜひメモしておこうと思ったのです。

その「まったく別の何かの味」は、これはなんだろう、と食べながらずっと考えて、8割くらい食べ終えた時に「アボカドかもしれない」と思ったのでそうしておきました。タイトルの式はかなり省略していますが、本質としてはそこかなと。


「小松菜スープ」はレシピ本の「ほうれん草スープ」みたいにして作ったので省略。
本を持ってない人には分からないんですが、レシピ本の基本的な野菜スープの作り方は、簡単にいえば「野菜をざく切り→オリーブオイルで炒める→野菜だしを足してハンドブレンダーで液状に→豆乳を投入、味付け」です。

下記レシピで「トッピング」と書いているのはぜんぶスパイスで、パウダ(粉状)です。

<アボカドのチーズ焼き風ドリア>
1. 器にオリーブオイルを塗る
2. ご飯(玄米)を中央部が凹むように盛る
3. カレー粉、カルダモン、セージをトッピング
4. ご飯の中央凹み部に卵を割り入れる
5. ターメリックをトッピング
6. 「小松菜スープ」をまんべんなくのせる
7. 輪切りのオクラとモッツァレラチーズをのせる
8. パプリカをトッピング
9. オーブンで焼く
10. ブラックペッパをトッピングして完成!
(食べる時に卵を全体に馴染ませると美味しい)

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「野菜スープ通」の方はぜひお試しください。

追記:上の過去記事リンク先に貼ってあるレシピ本は違う本ですね。
僕の1年半の食生活を「しなやかに」支えてくれているのはこの本↓です。

野菜のだしで作るベジタブルスープ (旭屋出版MOOK)

野菜のだしで作るベジタブルスープ (旭屋出版MOOK)