human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「二人称の<死>」と支配について

自分の命は自分のものだという感覚は、じつは財産保全という考え方や自由主義個人主義などと、歴史的に手を携えて成長してきたといっていいと思います。(…)
 つまり、近代では命や才能や性質といったものが財産と同じく交換財になってしまったということです。人間存在の内実が、自分の所有物で観念的に埋め尽くされてしまい、命が授かりものだという感覚などは影が薄くなってしまったのですね。
 私には、所有の議論を法学者にまかせたくないという気持ちが強くあります。彼らは所有の問題を、物件の所有をモデルにして展開するからです。私の考えでは、所有の根源は物件ではなく人の所有にあります。他者を自分のものにするところから始まって、所有の対象が、物件そして自己の命に至った過程があると思うのです。だからこそ、他者と自己にかかわる視点から、新しい所有論を試みることに哲学的な意味があるだろうと思うのです
「第Ⅲ章 死と「私」の哲学」p.108-109(鷲田清一『教養としての「死」を考える』)

この本は先の年末年始の帰省で、寮と実家の往復の際に読んでいました。
日常生活とちょっと離れるというか、なにか「スイッチを入れて」読む本かなと思って年末年始に読む本として選んだのですが、その選択自体はよかったのですが、案の定行き帰りでは読了できずに寮に戻ってから続きを読んでいました。
とはいえ正月休み内に読み終えたのですが(無意味に逆接が多い)、戻ってから読んだ残りの分はどうもあまり心に響かず、本書を手に取った最初に思った「いつものワシダ氏の本と違うなあ…」という疑念を再び抱きました。
その疑念に対する答えはあとがきに書いてあり、要する氏が語ったことを別の人がまとめた本だということでした。
それになるほどと思い、そしてあとがきにはこの本の「読み方」も書いてありました。
(最初の抜粋の話をほっぽり出してますが…)

「死ぬ」ことではなくて、「死なれる」ことが、<死>の経験の原型だと考えたら?
 そこからならひょっとして<死>について語ることもできるかもしれないとおもうようになった。二人称の<死>を原型として、である。そこからのプロセスがここにある。ともかくいま語りうることを語った。これをもとにして、いつか、<死>について書けるかもしれない、そうおもえるところまではきた
「あとがき」p.221-222(同上)

本書の本文中とあとがきの文体がそもそも違っていて、「そういうことか…」なのですが、答えというのはこれではなくて、氏にとって本書は「(明示的な)過程」なのですね。
それは整理されていないとも言えるし、語った内容には「場に引き出された(形を変えられた)言葉」も含まれているとも言えるし、つまりは意見や主張を確固とさせた本を成型品として対比させると本書は「外見を整えた"なまもの"」と見ることができる(「外見を整えた」の意味は、ここでは引用しませんが本書の表紙裏の惹句を読めばすぐ分かります)。
「なまもの」への接し方は、それが自分に響いたところの(それと自分の)関係を見る、というのが一つあります。
…迂遠な表現を並べてしまいましたが、要するに拾い読みして気に入ったところにうんうん唸る、と言えば早いですね。
そしてそれは僕の「いつも通り」です。
(ここまでが全部「まえおき」になってしまった…)


最初の抜粋の話に戻ります。
あとがきにある「二人称の<死>」というのが本書の大きなテーマの一つで、この言葉と、最初の抜粋の下線部とが対応しています。
「自分の命は自分のもの」という感覚より先に「人の命は自分のもの」という感覚があった、という話は現代の日常を過ごす中ではピンときません。
けれど「一人称の<死>」なんてのはない、という話に納得すれば、繋がります。

実は、去年からずっと継続してちびちび読んでいるブルデューの本から上の抜粋部を連想して、ちょっと書いてみたいと思ったのでした。
このブルデューの本はテーマが「実践」なだけに、併読しているいろんな本とリンクが生まれます。

既存秩序の再生産を自動的に保証するメカニズムの体系が樹立されていない限りは、支配者たちが支配を持続的に行うために意のままにしている体系を放任することでは十分でない。彼らは常に不確実な支配条件を日常的にも個人的にも生産し再生産するように努力しなければならない。彼らは、まだそれ自身で持続力を見つけることのできない社会的機械の利点を我が物にすることで満足するわけにはいかないので、支配の基本形態、すなわち人の人に対する直接的支配──この極限は人格の専有、つまり奴隷制である──に訴えねばならない。
「第一部 第八章 支配の様式」p.214(P・ブルデュ『実践感覚(上)』)

これは経済資本が未成立の社会の話で、等価交換のルールなんてのもないので集団の長は象徴資本(人徳とか支配者としての立場とか)に頼るしかなく、象徴資本を機能させるためには持続的な努力が欠かせない、という内容です。
お金は(日本円なら日本政府あるいは日銀に対する)信用で成り立っていて、その信用は努力による維持ではなく「そういうシステムが作り上げられている」ことによっています。象徴資本はそうではなくて、年貢の取り立ての量を一方的に決めるとか、かといえば領地の揉め事は一手に引き受けるとかいう「持続的な努力」によって信用が維持される。

で、実はそれは本題ではなくて、この抜粋の下線部に、最初の抜粋との対応を見ました。
ワシダ氏の「所有の根源は物件ではなく人の所有にあります」というところとブルデューのいう「支配の基本形態、すなわち人の人に対する直接的支配」がリンクしています。

それで、二つを並べてみて、「根源」と「基本形態」ってちょっと違うのでは、と思ったのでした。

制度でも概念でもいいですが、例えばある制度の「現在の効果」と「起源(における効果)」は、リンクする場合もあるし、異なる場合もあります。
その制度が作られた理由が当時の状況にあり、しかし時代の変化に伴ってその制度の意味が変わる(が惰性やらで当時の形は保っている)ことはあり得ます。
先の「根源」は、この起源と同じと考えてみます。
一方で「基本形態」といった時、そこからの派生物にも基本形態の機能効果が残っているものではないかな、と。
もちろんそうでない場合もあるでしょうし、つまりこの話は単にニュアンスの問題というだけかもしれません。
ただ、ここで言いたかったのは、ワシダ氏とブルデューとのリンクによって以下が発想されたことです。

自己の所有」の基本形態が「他者の所有」であると考えた時に、「自己の所有」は「他者の所有」のある一面(の機能効果?)を含んでいるのではないか

これは「自己とは"他者の他者"である」というよくある表現の単なる言い換えかもしれませんが、それだけでない(意味は同じかもしれないが、別の把握・実感をもたらす?)かもしれません。


ちょっと難しいですが、続けてみます。


まず、「自己とは"他者の他者"である」の一つの含意は、自分にとって、自分自身よりも他者の方が「近い」ということです。
自分の全身を自分の目で見ることはできないし、自分がどんな表情をしているのかだって、それを見る他者の反応を見ながら類推(そして学習)しているに過ぎません。
もし、自己が所有できるものだとして、たとえば自己の所有感覚に充足しているとすれば、その状態は既に(特定の具体的な?)他者をも所有していると考えてみます。
その充足状態とは、一方的な所有ではなく相互の所有、すなわち共有している状態(私があなたを所有し、かつあなたは私を所有している)だと考えれば実感が湧きますが、ここにおいては「所有」という表現がキツく感じます。
ワシダ氏のいう「自己の命を所有している」現代的な感覚は、他者の所有をすっ飛ばした自己の所有であって、上記に対して、自己の所有感覚に充足していないと考えることができる。
この「充足していない所有」は、お金を所有するのと同じように自己を所有していることからきています。
「お金」には経済システムの信用が付与されていて、その信用がお金と「それと等価的なモノ」をただちに結びつけるからこそ所有の実感がある。
一方の「自己」は、それに信用を与えるものの根源が他者なのです。

…。

着地点が見えてこないので、無理やりまとめてみます。

もし「自分の命は自分のものという感覚」が現代の常識であるとすれば、ある種の安心(たとえばそれは他者に依存する感覚、他者なしには生きられないという感覚がもたらします)はその常識に反してしか得られないということになる。
その常識を「身体化」した人は(いや、話は逆で、身体化されてこそ常識だと言えるのでしょうが)、その安心から永遠に遠ざかることになるのでしょうか。
人に頼らざるを得ない状況に陥った時に、自立できていない、自活力のない人間だと自分を蔑み、自分が頼っているその人をも不快にさせる。
「"常識に反した安心"に安心できない」という機制は、それが正常であるという認識のもとでは、発狂でもしない限り抜け出すことができない。
ただ、ある人が発狂しているように見えるのは、その人の何かしらの状況が周囲の人々と著しく違っているからこそで、例えばある集団の8割が(なんらかの基準において)発狂しているとすれば、その集団の価値観からすれば「(なんらかの基準によれば)正常であるはずの残りの2割」が発狂していると見なされる。
つまり正常と異常(その出力形態としての発狂)の境目は、集団の価値観や暗黙の基準によってどうとでも変わるということで、内容そっちのけの正常か異常かの判断というのは「多数派はいつでも正常」という結論にしか至らない。

まとまらない…。


とりあえず、抜粋の関係上で何度も使ってしまいましたが、「所有」という言葉はあまり使いたくないな、と思いました。
(ところで「支配」という言葉は、現在の意味と比べると(漢字の)成り立ちの方には血が通っているというか、穏やかな気がしました。支えて、配る。支え合い、気配り。なんだか、ブルデュが思考対象とする昔の集団の"支配"者像にむしろ近いような気がしてきました)