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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

15日目(前半):食べ放題の刹那的幸福、応急鼻緒の刹那的命脈 2017.3.15

この日は記述が多いので、小分けにコメントしていきます。
ちなみに、<**日目>の行に書いてあるのは、その日にお参りしたお寺、泊まった宿、歩いた距離です。
距離は遍路地図から算出しています。

<15日目>27神峯寺→宿(ビジネスホテル弁長) 23.5km

(1)居酒屋「白牡丹」にて・・・好きなものを好きなだけ食べた。やきめし、白牡丹焼き[何だっけな…]、熱カン「土佐鶴」、鳥の足、串カツ、にんにく唐揚、白飯、ソフトクリーム、…。食べてる間は幸福だが、後の方がキツい(水**[解読不能]をたらふく飲んだ)。翌朝食をいつものように白飯おかわりして食べてみて、自分はこちらの方が(少なくとも旅の間は)合っていると思った。「おいしいものを食べる」より「ものをおいしく食べる」方が自分には合う。酒も別にいいかな、と。

これは宿に到着してからの出来事ですが、話に前段があります。
四国遍路を出発する前は京都市内に住んでいたのですが、ときどき大阪市内にある父の会社の近くの、父のいきつけの食事処へご相伴に預かりに行くことがあって、そのお店のマスターやママさんともよく喋っていたのですが、出発が近くなった頃に遍路に行くよという話をしたら、マスターが「高知にオススメの居酒屋があるから機会があったら寄っていきなよ」と言って紹介してくれたのが、日記にある白牡丹というお店でした。
この日に泊まる予定のBH弁長も、白牡丹のすぐそば(同じ並び)にあるという理由で決めて、行程もそのために調整をしました。

で、まあ特に変哲もない居酒屋ではあって、後日談でマスターも「いや、別に俺も行ったことないんやけどね、ごにょごにょ」とオススメしてくれた理由もよくわからなかったんですが、その時は遠く高知の地から大阪のことを思い、必然的に出発からここまでのことを振り返ることになって、会社帰りの地元のサラリーマンの方々に混じって、一人で感無量の思いでした。
それで調子に乗って、旅中の普段は禁酒&粗食(おかわりできる白飯だけはたらふく食べる)でいたのを、とにかく食べたいと思ったものを食べる、酒も飲む、と決心してバカみたいに注文しまくったのでした(日記のメニュー列記の最後に「…」とあるのは、思い出せないだけでまだ他に頼んだ品があったことを示しています)。そしてやっぱり後悔して、「粗食でいいか…」との納得に至る。そのことを「少なくとも旅の間は」と控えめに書いていますが、まあ今も同じ考えですね。誰かが一緒にいれば別ですが、一人で贅沢をしようという気にはなりません。

(2)鼻緒が切れる・・・翌日の引導を前に突然。(27)[神峯寺のこと]の坂を下りた後でよかった。菅笠の紐が[鼻緒の代わりに]丁度使えそうだったので作業しているとトラックのおじさんが停まって手伝ってくれた。テグス(釣糸)を使えば鼻緒用の穴にラクに通せる(サイホウの糸通しの要領)。おかげで2重で通せたが、堤防歩道を歩いていてまた切れる。今度は手ぬぐいを使うが1kmも歩かぬうちにまた切れる。そこで団体遍路が通りかかって「鼻緒直さんと」などと喋っていると折れかけた心が持ち直したので麻紐で再々修理。結果的に丈夫そうでゆるみがほとんどない。それはいいことだが山道でこけた時の足が心配。新ゲタ[の鼻緒]が切れた時もこれでやるしかないのはないが。

「翌日の引導」とは、次の日の宿に注文した下駄が届く予定のことを言っています。

神峯寺(こうのみねじ。今調べるまで「しんみねじ」と読んでました汗)への遍路道は急坂があったようで、それは覚えていませんが、坂を大体下りて、ちょっとした高台で町が見渡せる、畑のそばで下駄の鼻緒修理をしたことは覚えています。
軽トラックがそばを通り過ぎたと思ったら前方で停まって、出てきたおじさんがこちらを気にかけて作業を見に来て(たぶん手間取っていたのでしょう)、荷台からテグスを取り出して「こうすりゃいいんだよ」とやって見せてくれました。ツールとしてのそのテグスも少々もらいました。

二度目に切れたのは、交通量の多い大通りと海に挟まれた「堤防歩道」だと日記にはあって、その辺りの風景も覚えていますが、修理作業をしたのは、大通りの対向する車道にY字に挟まれた三角州的な空き地(草が生えてて松の木とかもある)ではないかと思います。車の音がうるさくて、排気ガスも目に見えるようだった…と鮮明なのは苦しい記憶が多いですね。

三度目はそのすぐあと、平べったい道路のコンビニの手前でした。コンクリートブロックの上に座ってうつむいて作業をしていて、一日に三度も切れるなんて相当ついてない、と気が滅入っていたのだと思います(そういえば、大学生の時に大阪〜宗谷岬の自転車旅をした時に、一日に三度パンクしたこともありました)。それが、修理中に通りがかりの人や遍路に話しかけられたりなどすると、「鼻緒が切れたからこそ生まれた縁だ」と前向きに考えることができるわけですね。

この考え方は歩き遍路をやっているうちに身体化してきますが、今の自分にもしっかり根付いています。
僕はこれを前向きとかプラス思考だとは思ってなくて、「ある出来事の良否はそう簡単に決まるものではない」、極論を言えば「死ぬ時に『いい人生だった』と思えればすべてプラスだ」ということなんですがそこまではいかずとも、要するに未決の思考、「評価の未決定性」の姿勢が縁を呼び込む、ということです。


この日の三度の修理で、それぞれ使った材料が違っています。鼻緒で切れるのは親指と人差し指の間を通る短い部分で、この部分の材料のことですが、これは遍路出発前に京都で予行演習(というか修行)していた時には修理経験が一度しかなく、修理に確実な手応えのないまま出発してしまったことの顛末で、材料の候補も決定打がなかったので実地でいろいろ試してみた、ということです。

この日はもちろん、旅の間で結局決定打は見つからず、履物屋で締めてくれた元の材料をいかに切らないように履くか、という方針に旅の後半ではシフトしていきました。
というのも、鼻緒の切れやすいこの部分にかかる負担は相当のもので、柔らかい布だとすぐ伸びてしまってぶかぶかになるし(手ぬぐい、菅笠の紐はこちら)、硬い紐だと突然ぷつりと切れてしまう(麻紐はこちら)。この日は応急処置はあくまで応急でしかない、ということを身にしみて感じた日でした。


日記の「山道でこけた時の足が心配」というのが、足の具合のことを指しているように読めますが、文脈からこれはたぶん「こけた時の鼻緒が心配」だと思います。
というのも、鼻緒にかかる負担のことで、ふつうに歩く時もさることながら、つまずく・こける時には大体ろくでもない踏み方をして鼻緒にとんでもない張力がかかる。
つまり、鼻緒が伸びたり切れたりするのはほぼ「こけた時」で、これが意味するのは「応急処置で辛くも命を繋いでいる鼻緒は一回こけると台無しになる」ということです。

それでいて、この天狗下駄遍路は、一日に一度もこけない日はなく、アスファルト道はまだましでありながら(でもマンホールとか排水溝の蓋は非常に滑りやすくデインジャーです)、山道や砂利などの自然道では数え切れないほどこける(というのを京都修行ですでに身に染みて、「いかに転倒しないか」ではなく転倒した時に「いかに怪我しない"こけ方"をするか」を習得してから出発したのでした)、という過酷な旅です。

この文章を読むだけで、「鼻緒の応急処置」の心もとなさ、切なさはお分かりいただけると思います(T-T)

(続く)


p.s.

14日目の記事に載せればよかったんですが、今思い出したのでこちらにリンク。
cheechoff.hatenadiary.jp
僕は大学生の頃からずっとブログを書いてきて、自転車旅でも途中で寄ったり泊まったネットカフェでリアルタイム道中記を書いたものですが、この遍路旅ではそんなことできんな…と思っていたところ、14日目に情報収集のためネットカフェに行った時にふと思いついたらしく、ガラケーからメールでブログの投稿アドレス(たぶん今はない古い機能でしょう)に送ってコンパクトな道中記とすることにしたようです。

というわけで、今後の回想録にもこの道中記をリンクさせていきます。
写真があるので当時の雰囲気も幾分かよみがえります(下駄の写真多そうですけど)。