暑いです。
こうまで暑いと、能動的になる意志が熱気に奪われる心地がします。
意志は能動性の言い換えのようなもの。
先に受け身の出来事があっても同じで、意志がなければ受け続けるだけ。
「それはいやだ」という反逆が、人の意識の始まり。
だから「それでもいい」という受容は退化でもあり、帰化でもある。
ただ、そういって「帰る場所」は、都会にはありません。
自主裁量で仕事をするようになって、暑くなって、眠り続けています。
夜が遅いわけでもないのに、朝に起きられない。
暑さのせいだと思っているが、それだけではないようでもある。
思えば、「積極的な睡眠」というものはない。
眠りたいと思っても、努力すれば入眠が叶うわけではない。
意識が沈む瞬間が不明である、これが受動的な行為の象徴。
暑さへの対処が、それに反抗するよりも馴染む方が自然である。
外気を否定して冷房を利かせ、肌に最適な温度空間を無理やり拵える。
その「最適」は、人が、より正しくは産業が定義したものに過ぎない。
人と環境の関係は、経時的な相互性のうちにある。
最適を言うなら、長年暮らした地域の風土によって最適性は様々異なる。
見方を変えれば、自然にはいつでも還ることができる。
いわば人工空間であっても、身体が受動的に馴染む場所が彼にとっての「自然」となる。
「自然」をそう捉えた時に、「自然」は意識に取り込まれることになる。
そういう眼で、自然を、草木を海川を見ることもできる。
(つまり「自然」の定義を改めたうえで本来の自然を眺めるということ)
視界には紛れもなく、緑や青が、映ることだろう。
彼がとらえた青や緑は、いうまでもなく、もはや「自然」ではない。
受動性の話に戻る。
快・不快の感覚は、主体と対象の「境界性」と相関する。
対象を嫌だと思う意識は、境界を強固に作り上げ、対象を自分から遠ざける。
自分が心地よいと思う対象は、懐に招き入れ、あるいは自分の一部にする。
境界は薄れ、消失する。
暑さが不快なのは、「そういうことにした」からである。
汗をかくから暑いのはいや。
つまり「発汗の見苦しさ」という通念が、暑さを不快にしている。
代謝反応として、発汗は髪が伸びることと等しい。
「清潔に見えるように、髪は定期的に切るべきだ」
汗はかかない方がいい、という発言は、髪は伸びない方がいいと言うに等しい。
どちらも実行に移すことは可能で、後者は「死」である。
冷房慣れか真夏のスーツ慣れなのか、経年変化で汗をかかなくなる人がいる。
彼はもちろん生きているが、「半死」状態と言えなくもない。
「自然」に馴染んで生きるとは、そういうことである。
✕ ✕ ✕
まだ半分も読んでいませんが、不思議になげやりな長いタイトルのこの本は「抽象的に考えるとはどういうことか」が書かれています。
常識や通念はさておいて、素朴に論理的に考える。
誰も言わないような表現が飛び出したとしても、論理展開が要請したものなら、それはひとつの「成果」である。
言ってはいけないこと、言わないほうがいいことを「空気を読む」という忖度を通じて排除し、会話や議論が凝り固まり、限定された、どこかで聞いたような結論しか生まない。
一人ひとりが自分の経験をもとに自分で思考し、そのような空気に飲み込まれずに発言し、新しい道が開けるような議論ができること、そのような社会が「本当に自由で平和な社会」である、と書いてあったように思います。
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)
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「自分の思考を通じて新しい道が開ける」という言葉は、社会のとっての新しい発見ではない。
自分が見つけた「新しい道」が、誰もが当たり前だと思っている些末な考え方に過ぎない場合だってある。
しかし、それを「新しい道」だと思い、自分固有の経験が導いた発見だと本人が考えたのは、それが今までは彼の中で単なる知識に留まっており、身に染みていなかったからである。
自分の思考によってものの見方や考え方を血肉化するためには、そのような無駄や回り道を恐れてはいけない。
それを無駄と考える者は、自分自身ではない。
それを回り道だとみなす者は、効率良くショートカットを繰り返して行く先が自分からどんどん離れていくことを自覚できない。
「自分自身ではない者」の判断に従うことや「自分からどんどん離れていくこと」が、自分で「新しい道」を発見することとは決定的に異なる点がある。
すなわち、自分自身が更新されていくこと、である。
それは、修行なのかもしれない。
伝書に書かれている言葉は多義的であり、一意的な解釈を受け付けない。それはいかなる最終的解釈にも行き着かない、エンドレスの「謎」として構造化されている。私たちはそれぞれの修行の達成度に応じて、そのつど伝書に対して新たな解釈を下す。(…)
どうとでも取れる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的解釈に開かれたテクストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテクストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身にすぎない。
内田樹『修行論』p.144-145
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