human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゴミ出しにまつわる自由連想

花巻にいた頃の話。

ゴミ袋は市の指定のもので、燃えるゴミ、資源ゴミともに2週に一度のペースで収集へ出していました。
収集所には各地域指定の番号があり、ゴミ袋にその番号を記入します。
僕のところは「南-20-3」だったんですが、住み始めてしばらく経った頃に、末尾の「3」を連想のためのベース形状とすることを思いつきました。
つまり、「3」を袋に書いた時に、その形から連想したものを描き加える遊びです。
最初に書く数字の書体もその時々の思いつきがあり、つまり初期条件にもばらつきが生じます。

こんなふうに。
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(なめらかな曲線の「3」ばかりですが、昔のデジタル時計のようなものや、「M」を横にしたようなものなど、カクカクした字体をもとにしたものもありました)

発想の出来よりも習慣づけるのが大事だと思って、半年くらいは続けたと思うんですが、写真を撮ったのが面白がっていた最初の頃だけだったのでサンプルはほとんど残っていません。

面白いのは、「3」を書いた瞬間は、ゴミ袋の表記という、この数字の身の丈そのものでしかなかったのが、連想したイメージを描き込むことでスケールが自由自在に伸び縮みすることです。
上の写真の例はあまり劇的ではありませんが、「3」を右に倒した形を波に見立てて風景画にした時は(波が当たる崖とか、その上の小屋、太陽などを足しました)、その「3」が実寸の…えーと、文字が5cm=50mm、崖ぎわの水面が200m=20000mmくらいとして…1/400スケールに描かれたものに変身するわけです。


と、分析して説明してみたものの、面白さというか脳が躍動を感じるピークは、イメージを連想した瞬間のワープのような非物理的な移動感覚にあるのだと思います。

この感覚自体はありふれたもので、文字から意味を読み取るのも結局は同じことですが、この感覚のモビリティ、つまり瞬発力というものを考えると、その発動機会は生活空間(街中)に雑音の多い都会の方が圧倒的に多いと言えます。

都会の視覚的なノイズというと基本的によいイメージがありませんが(少なくとも僕にはありません)、本記事の自由連想が意味するのはそういったノイズに呑まれることではありません。
ノイズが何気なく街を歩く人に効果的に機能するのは、それがわかりやすいからです。
言い換えると、余計な連想や複雑な思考といった迂回を介さずにシンプルに意図が伝わるということで、だからこそ派手なネオンやけばけばしい看板の情報内容を求めていない通行人にとっては、繁華街を通る不快さは「理由のないシンプルな不快さ」なのです。


僕が言いたかったこと、というか話の流れからして言えそうなことは、自由連想は「ノイズのわかりやすさに呑まれない」一手法でありうる、と。
まあ要するにこれは「余計な連想や複雑な思考」なので、わざわざそんなことをシンプルさに抗して行う疲労もあるし、そもそもじゃあそんな所通るなよという話で、実際僕は通りません。

ただ、もしその一手法の目的について真面目に考えたとき、ネオン街を「風景として眺める」のも同じ機能をもつだろうと思うのですが、これはどうも、感覚の鈍化のような気がします。

似たようなことで、違いをはっきり説明するのは難しそうですが。