human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

6日目:空海の気持ち、取星な話、雛祭り 2017.3.6

納経所の開く時間に合わせて宿を出て、すぐそばの18番恩山寺へ向かう。霧模様である。敷地一帯に木が茂っていて、境内へ向かう車道に沿って石畳の敷かれた自然道がある。その車道の途中から19番に向かう細い道が出ているため、行きは覚悟をして石畳を歩くことにする。

お参りを済ませて、竹やぶの続く細い道へ入る。道に従って、山羊がいるらしい飼育小屋が並んだ私有地の真ん中を突っ切る。衛生に関する注意書きの看板がある。外国人も含む不特定多数の人が通るのだ、地主の心配ももっともである。竹林を抜け、ひっそりとした住宅街に出る。アスファルトの道が続く。

街中の立て込んだ小さな敷地にある19番立江寺に着く。通りも門を入ってからもちらほらと人がいる。本堂のそばでおじいさんが大声で話しているのが、下のベンチにまで聞こえてくる。交通事故に遭って重症を被ったが、大師様に願をかけたおかげで、この通り歩けるまでに回復した。寺の人がすぐそばでうんうんと頷きながら耳を傾けている。その光景は生活的で、とてもありふれたものに見えた。この街に馴染んだ寺のようだ。

下駄をベンチの下に置いてサンダルを履き、日記をちまちまと書く。そのうち、いつの間にか隣のベンチにいた女性が話し掛けてくる。スニーカ、青のジーンズにウインドブレーカ、手荷物はポーチだけでいたって軽装である。どことなくタレントの杉田かおるに似ている。
「歩いて回られているのですか?」
「そうです。あなたは?」
「車で逆打ちです。あなた、魂レベルが高いですね」
「え、そういうのは見た目でわかるものですか?」
「わかります。いろんな人に会っていくうちにわかるようになります」
いきなり魂レベルと言われても困るが、相手は真顔なのでこちらも真面目に取り合うしかない。下駄の話をしないので、サンダルで歩いていると思っているようだ。それはそれで普通の会話ができると思ったが、どうも普通がよくわからない。
「車で回るとけっこう無理がきいてしまって、宿をとるのが意外に難しいのです。だから車中泊をよくしました。人気のない真っ暗な駐車場に停めて車内でじっとしていると、とても心細いのですが、そうやって震えながら朝日を待っているある時に、ふと19歳の空海の気持ちを理解したのです。『明星来影』と言うでしょう。空海は真っ暗な山の中で、いっぱいの不安を抱えて縮こまっていました。そこに現れた星のきらめきは、空海にとても深い感動を与えたのです。私はいろいろ考えたのですが、メジャーな言い伝えとは違って、空海がその時見たのは明けの明星です。金剛頂寺の宿坊に泊まる機会があれば、住職の奥さんの話をぜひ聞いて下さい。これ、金剛頂寺のパンフレット、差し上げます」
季節や方角や天体の話は全く理解できなかったが、おそらく自分が地学に疎いせいではない。車遍路はもう何度もやっていると言うが、専門的な話を滔々と語る彼女は学者というよりは主婦に見える。何者だろうか。どうもこれまでの経験上、熟練の遍路には共通の性質がいくつかあるようだ。一、目が据わっている。一、言動に確信が満ちている。一、人の話を聞かない。良し悪しを超越した確信は、やはり宗教の力だと思う。

今日の行程には余裕があり、回り道をして別格の取星寺(しゅしょうじ)へ向かう。平地が続いていたが、取星寺へ向かうために小さな峠を越える道に入る。峠道は自然道で、地図上では破線で表示される。建治寺の朽ち果てた破壊的山道を思い出して不安になる。が、アスファルトが続くと着地の衝撃で足首に負担がかかることもあり、自然道の選択肢があればなるべく選びたい思いもある。余裕はある。なるようになる。

のどかな田んぼを抜ける車道を進むうち、草の茂る土手の道に変わる。小山の裾に沿ってゆるりと歩く。ベンチがあったので、視界いっぱいに広がる田んぼを眺めて体を休める。近くに民家はなく、ふと思いついて篠笛を取り出す。指の思うままにぴろぴろと奏でる。竹製の篠笛は京都で足慣らしをしていた頃に入手して、入門書を頼りに独自に練習したものだ。押さえる穴が等間隔で、ピアノの音程とはずれるが、竹の音色と相まって和楽の趣がある。西洋音楽でいうスケールを知っていれば、スケールに沿って適当に音を並べるだけで曲のように聞こえる。といっても和楽のスケールを具体的には知らないので、そのようなものがあるとして吹く。高音が耳障りなのであまり街中では吹けない。音がいくらか気分を反映している。吹き慣れてくるうちに楽しくなる。

峠の入口には竹の杖がいくつも並んで立てかけてある。「お遍路さん どうぞお使い下さい」きっと峠の出口にも杖置き場があるのだろう。ありがたくお借りして登り始める。道は主に土、地形が複雑なところには板が渡してある。板はしっかり固定されている。良い足場、素敵な自然道。峠を登り切ったところに、屋根付きの掲示板のようなものがいくつかある。地元の人が寄せたメッセージが貼り出されている。そばには掃除用具入れがあり、手入れも行き届いている。阿千田峠という自分にはなにやら近しく感じるこの峠は地元に愛されているようだ。

峠の下りで道を間違え、川沿いの車道に出た位置がわからず迷う。いくらか右往左往したのち、取星寺に続く坂道を見つける。敷地内は観光施設が整っている。自然公園があり、車道で上がる途中にトイレもある。門を抜けた中にも売店がある。音楽が流れているが、人はほとんどいない。スーツを着た男性が駐車場そばのベンチで休んでいる。敷地は広く、本堂と大師堂にも観光思想の仕掛けがある。裸足で踏めば健康になるという大師様?の足形など。納経所は閉まっており、案内に従って呼び鈴を押すと住職が出てくる。参拝人が珍しいのか、長話をする。
「普段の生活ではもちろんのこと、俗世を離れて遍路をしている間も、心配事は常にあります。予定通りに寺に着けるか、宿には何時に到着できるか、明日は晴れてくれるか、などなど。でも、頭が主体になっている限り、心配事はなくなりません。身体を主体にする、『身体に頭をついてこさせる』ことが大事なのです。そうすれば、心配や不安に振り回されなくなります」
世間話がいつの間にか説法になる。よく聞く内容ではあるが、落ち着いた雰囲気の住職から直に聞くと、話の滋養が身体に染みわたる心地がする。家の奥に納経帳を持って行かれ、一筆ののち、手渡してくれる。礼を言って、寺を後にする。

海沿いの道を歩く。表通りの両側に並ぶ商店のそれぞれに、ひな人形が飾ってある。生比奈というこの地域は、ひな人形が有名であるらしい。ひな人形展をやっている施設もある。ショーウィンドウをちらちら見ながら進んでいると、二人組のおじさんに声をかけられる。どちらも本格的なカメラを手にし、腕章をはめている。ひな祭りの取材をしている地元の記者だろうか。「写真を撮っていいだろうか。できれば店をバックに、歩いている姿を撮りたいのだが」快く了解する。花粉症対策のマスクをしているし、だいいち顔を撮られて生じる不都合が思いつかない。「じゃあ、この店の前をゆっくりと。お願いします」二方向からシャッターが下りる。きっとお雛様とのツーショットになっているのだろう。

表通りから陸側に入り、宿が見えてくる。と、なにかを撮っていたらしいおじいさんがひょこっと出てくる。「お、すごいね。撮っていいかい?」趣味なのだろう。疲れていたが、にこにこした顔を見て元気になる。

宿に着き、夕食までに時間があったので、先に風呂に入る。すでに遍路客が多い。湯船に浸かりながら、旅慣れた風の男性のを聞く。いつか海外へ行ってみたいと思う。

夕食の時に、明日の行程が難所であることを聞く。回る予定の2つの寺がどちらも山の上にあるのだ。そして自分が一日に歩ける距離には宿がない。道中で仕入れた「宿はちょっと遠いが遍路道のある地点まで車で迎えに来てくれる」という宿を予約している。山越えは常に危険と不確定要素がある。なんとかなる、と自分に言い聞かせ、今は深く考えないことにする。

(…)取星寺の住職の話が良かった。「身体に頭をついてこさせる」が理想とはまさにその通り。この先歩く中で身体が主になるようにしたい。さすがに予定と天気予報は気にしてしまうが…でも空腹のコントロールはもうできるようになった気がする。そういえば指のむくみもなくなりそう。歩くとやはり健康になる。(…)頭の中のコトについては(途中で何かメモしたくなった時とか)溜めこまないようにする。さっさと書くか、忘れるに任せる(後に、機に応じて思い出すに任せる)。

6日目の日記より抜粋

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