human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

図書館から生活思想を立ち上げる

以下で引用した本はウチダ氏のいう「コンピ本」で、ブログに書かれたものを編集者がかき集めて編まれており、従って全文がリンク先で読めます。
NHK職員によるインサイダー取引のニュースが話のマクラになっています。

今回のようなモラルハザードは「ルールを愚直に守る人間たちが多数派である場所では、ルールを破る少数派は利益を得ることができる」という経験知に基づいている。
だから、ルール違反をした本人は彼以外の人々はできれば全員が「ルールを遵守すること」を望んでいる。
そうであればあるほど利益が大きいからである。
高速道路で渋滞しているときに、ルール違反をして路肩を走っているドライバーは「自分のようにふるまうドライバー」ができるだけいないことを切望する。
それと同じことである。
しかし、この事実こそがモラルハザード存在論的陥穽なのである。
「自分のような人間」がこの世に存在しないことから利益を得ている人は、いずれ「自分のような人間」がこの世からひとりもいなくなることを願うようになるからである。
その願いはやがて「彼自身の消滅を求める呪い」となって彼自身に返ってくるであろう。
何度も申し上げていることであるが、もう一度言う。
道徳律というのはわかりやすいものである。
それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間になるということに尽くされる。
それが自分に祝福を贈るということである


内田樹『邪悪なものの鎮め方』p.149-150
モラルハザードの構造 (内田樹の研究室)

自分がいま興味をもって読む複数の本は、分野が違っても共通点がなにかしらあって、その共通点は自分の関心と深く関係している。
図書館関係の本も定期的に読んでいて、それは僕がこれから就こうとしている司書職と直接結びつくはずの内容を含んでいて、そしてそれらと上記ウチダ氏や中沢新一渡辺京二*1各氏の言葉とが、同じ入口から僕の中に、あるいは違う入口から僕の中の同じある箇所にはたらきかけてくる。

 身の丈に合った生活をする。
  際限のない欲に駆られた消費から遠ざかる。
  自分や自分のまわりの人の必要に基づいて。
 
 過去と未来と親和した今を生きる。
  過去に縛られず過去をないがしろにしない。
  未来をないがしろにせず未来に希望をもつ。

図書館は「消費活動から離れた場」としてこれから重要になってきます。
コンテンツも、人が集まって活動する場としても、生活機能を担う場としても、重要です。
けれど、それらを安心して利用できるのは図書館が「経済とは無縁の場」だからです。
これは「タダだからお得」という意味ではありません。
安い、お得、高コスパ、こういった考え方から解放される、現代では希少な場なのです。
税金を使って自治体が運営するからこそ、こういう場が成立する。
(この意味では、佐賀の武雄図書館は「図書館」とは別物です)

消費が低迷して不況になると「生活」が苦しくなる。
こう言う時の「生活」は、明らかに身の丈を超えています。
というより、そもそも「不況」というものが架空の設定物です。
実体のない、お金の回り方に付された名称。
一個人の身の丈から、あまりにかけ離れた概念。

"世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らしていけるような人間"

そのような人間が、必ずしも社会成員の多数派であるとは限りません。
ウチダ氏の「モラルハザードの日常化」の話からすれば、少数派でしょう。
僕は、今の日本がどうあっても、そのような人間になりたいと思います。
「過去をないがしろにせず、未来に希望をもつ」のは、この意味においてです。

図書館は生活思想の面において、先進復古的な(過去と未来が親和した)場になり得ます。

 × × ×

拝啓 市長さま、こんな図書館をつくりましょう

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知の広場――図書館と自由

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野生の科学

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コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

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*1:イリイチの本の訳者が渡辺氏(とおそらく氏の娘さん)です。なので「氏の言葉」というのは媒介者としての語り口に現れてきます。一文が長く、関係代名詞の構文が日本語としてわかりやすく整理されておらず、ゆっくりと(あるいは同じ箇所を何度か)読まないと分かりにくいですが、装飾のはぎ取られた実直な文章は渡辺氏のものだと感じられます。