human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

群衆は眼中に置かない方が身の薬です

今日は朝から府立図書館へ行ってきました。

ここ3日ほどの朝刊(朝日新聞)を読みました。
今朝のNHKラジオでは早朝に起きた福島沖の地震についての報道がずっと続いていましたが、もちろんその地震については載っていません。

村上春樹氏のスウェーデンノルウェーだったかな?)での講演記事(昨日と今日で全後半の記事)がありました。
アンデルセンなんたら賞をとったらしい。
影の話に「うんうん」思って*1、主人公の人称の話にいちばん惹かれたんですが、初期の小説は一人称で書かれていて(そして主人公「僕」には名前がない)、だんだんと三人称になっていったことが「小説を長い間書いてきた中で大きな出来事は?」(この表現ではなかったかもしれない)という会場からの質問に対する回答として書かれていました。
またハルキ氏の小説は一つの物語の中で世界が2つに分かれているものが多く(「地上」と「地下」だったかな?)、それでもある『海辺のカフカ』は確かに一人称(「僕」)と三人称(「田中さん」)に分かれていて、『海辺のカフカ』より以前に書かれた『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ではどちらも一人称(記事によれば「僕」と「私」らしいのですが、後者は僕は記憶が曖昧です)ですね。
今新作を書いているらしく、『海辺のカフカ』よりは長く、『1Q84』よりは短くなる、と書かれていました。

そう、一番驚いたのはハルキ氏が67歳ということで、村上朝日堂シリーズとか最近は古い本ばかり読んでいたので(今読中は『日出る国の工場』で出版は1987年!ほぼ自分が生まれた頃の話ですね)、その年齢と記事に載っていた氏の近影を見て、時間が一気に先へ進んだような感覚がありました。
もうおじいさんですね(安西水丸氏のイラストに似なくなっちゃいましたね。まあ当たり前か…あのイラストはおじいさん顔ではないわな*2)。
今もランニング続けてるのかな…


新聞を読んだあとは遍路について調べてみました。

「遍路」というキーワードで府立図書館の蔵書をざっと検索して、体験記とか写真集とかは見ないでもよいと思い(行かない人、行きたいけど行けない人が読むのでしょう)、前に書いたような自分がとりあえず必要としている情報がありそうな本はなかったんですが、興味が湧いたというかこれは行く前に読んでおこうと思ったのは山頭火の旅日記でした。
山頭火の詩(自由律俳句でしたっけ?)の紹介やその生涯の解説もトピックとしては興味があるんですが、今の自分が読みたいのは加工して整理された情報ではなく「なまもの」なのだと思って日記としました。
目星をつけた本(その本の何章分かに山頭火の日記が載せられている)のあとがきには「山頭火の日記は時に退屈であるが…」と書かれていて、これは筆者が実際どう思っているかにしろ一般向けに書かれる文章における枕詞のように機能していると思うんですが、この「退屈」も昨日だかに書いた「飽きる」と同様で、なんだか文章自体が退屈という性質を帯びているように聞こえますが(これを堅く言えば「他責的」となります)、そう感じるのは主体側であって、本来は飽きや退屈を感じるかどうかは全面的に主体側の責任です。この責任転嫁は「消費者は無垢で無実な存在である」という消費至上主義的広告の論理が成している、ということは忘れずにおきたいですね。
基本的に消費者としての立場を免れない社会に生きるとはいえ、その自覚を失くしてまで気楽に生きたくはないです。

この本は借りるのではなく図書館で読むことにしました(ちょうど足の治療・休養期なので、もっと足繁く通ってもいいかなと)。
読んでからまた何か書きます。


その後、『寓話』の次を借りようと思って近くの棚をうろついていたら、何やら魅力的な本が並んだ一画があって*3、何冊も手に取ってぱらぱら眺めて借りたい衝動を抑えて1冊に決めたのが『ノー・シューズ』(佐々木マキ)。
この本には自伝の章とイラスト+ワンフレーズの章があって、そのイラストの章をぱらぱらめくっていると、路地裏(ではないかもしれない)を歩くきらきらした目の少年のイラストの下に「群衆は眼中に置かない方が身の薬です」というフレーズがあって(本記事タイトルに拝借しました)、「これ借りよう」と思ったのでした*4
「そうだよな」と思って、でも高村薫氏のことが浮かんで*5、改めてしばし考え、このフレーズは「群衆は眼中に置かない方が身のためです」とは違うのだなと思う。

つまり「薬は中毒にもなる」と。

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上記のマキ氏の本を手に小島信夫氏の全集が並んだ棚へ行きました。
「長篇集成」と「短篇集成」がそれぞれ10巻前後あって、それぞれの中では各巻とも装幀が同じなので(という事実がまず目に入ったので)「次は短篇集成にしようか」と思い、多少吟味をして1巻、2巻、7巻のどれかにしようと決めました*6
3つのうちのどれかはランダムで決めようと思い、「どれにしようかな」的ルーレット・フレーズ*7は何かないかと考え、パッと出てきた般若心経を使うことにして、1巻からスタートで「ぶっ・せつ・ま・か・はん・にゃ・は・ら・み・た・しん・ぎょう」とやったら7巻になって、「うーん」と思ったので続けてもう2回やったら*82回ともまたまた7巻になって、ここでようやく3選択肢に対してフレーズが12or15区切りだから何度やっても3つ目にしかならないことに気付き、「バカみたいだ」と思って長篇集成の『菅野満子の手紙』を手に取って表紙裏に抜粋された内容一節を読んで引き込まれたのでこれに決めました。

ということで今日借りてきた2冊を撮りました(上の写真)。
マキ氏の本を今日読了して明日から小島氏長篇を読始できればよいなあと考えています。
もう日変わっちゃいましたけど…。

*1:ハルキ氏の講演といえば「壁と卵」(@エルサレム)をまず思い浮かべるんですが、そういえば『寓話』(小島信夫)の中でアンダソンという人の『卵の勝利』という短編のことを読んだ時に(その内容の記述はありませんでしたが)ハルキ氏のこの講演を思い出したのでした。関係があるのかもしれないし、ないのかもしれない。「そんなことはどちらでも宜しいのです。それはわたくしがあなたの娘であるかそうでないのか、どちらでも宜しいのと同じことです」というフレーズは同じく『寓話』の中に何度か出てくる僕の好きなフレーズで、こういう所で使いたくなるんですが、そうなのです。調べたら実在するみたいだし、ちょっと気にかけておきましょう。

*2:水丸氏のイラストで思い出したんですが、前に会社にいた間の在籍6年超の後半は特許明細書を書いてたんですが、その最後の仕事はデジカメに関する発明で、その明細書の図面の中に「村上春樹@水丸画伯」風の使用者のイラストを茶目っ気で描いたのでした。明細書が公開されたらまたブログに載せましょう。

*3:安西水丸安野光雅佐々木マキの各氏のエッセイが隣り合わせで並んでいました。言いたいことは分かるんですが、図書館でこういう配列するんですねえ。

*4:それとイラストの章にあったもう一つ、「地球はいつも回ってる ぼくらも何かを回したい」というフレーズも好きです。

*5:高村氏はまさに群衆に身を置いて文章を書く人だからです。小説誌に連載しているという「土の記」のことを思うとその傾向は変わりつつある(変わった?)のかもしれませんが。と書いたついでにちょっと調べると、なんと連載は完結したとのこと!しかも単行本(いきなり文庫化?)が発売直前!!素晴らしき偶然ですね。どきどきしました。すごく読みたいですが、縁を待つことにします。

土の記(上)

土の記(上)

*6:1巻には『寓話』に出てくる短篇(「燕京大学部隊」、「小銃」など)が多く入っている。2巻には同じく『寓話』に出てくる(がその作品の評論的内容も含まれている。確か「日本人はこの作品に描かれた頃から現代(っていつだったかな…『寓話』の中の話で、確か昭和の終わり頃だったかな)まで変わっていない」といった興味をそそられる記述だった)短篇「アメリカン・ハイスクール」が入っている。7巻は解説を保坂和志氏が書いている。

*7:「ど・れ・に・し・よ・う・か・な、 か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」というやつです。選んだのが気に食わなかった場合はそのあとに「あっ・ぷっ・ぷ、 か・き・の・た・ね、…」などと続いたと記憶しています。

*8:「かん・じ・ざい・ぼ・さ・つ・ぎょう・じん・はん・にゃ・は・ら・み・た・じ」、「しょう・けん・ご・うん・かい・く・ど・いっ・さい・く・や・く・しゃ・り・し」。歌で覚えたので(この区切り方も歌による)音が若干怪しいです。どこかでまともな記憶に直した方がいいのかもしれませんが…歌というのはこれ↓です。 www.nicovideo.jp