human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

片道の第三歩、斜面における足捌き

今日はふらりと大文字山にリベンジしてきました。

家を出る準備をする前は、左京図書館へ新聞を読みに行ってからカナート洛北で買い物しよう、などと考えていたのですが(新聞は現状とっていなくて、図書館で時々読むくらいが丁度良いと今は思っています。図書館では各社揃っていて、しかも午前中から昼前はだいたいご年配方が新聞閲覧スペースをほぼ確保されていて、僕はいつも棚に残った新聞を読むので新聞社を決めていません。朝日の「ののちゃん」だけはできれば見たいですが)、準備中に気が変わりました。

百万遍から東大路通りを上る途中で小道に逸れたり、哲学の道から銀閣寺へ至る土産物屋通りを通らずに登山口に出る道を見つけたりしながら、前回と同じく地蔵前スペースで履き替え。
前回は最初から「とにかくこけないように、かつふつうに歩くスピードを維持する」のを守るのに必死で、なぜスピードを出そうとしたのか不明ですが、今回は立ち止まることも辞さず、砂利道で一歩一歩を慎重に歩くべくゆっくり登りました。
砂利道を過ぎ、コンクリート道を過ぎて、前回鼻緒が切れた箇所がある「木と粘土質の土と岩の階段」に差しかかります。
階段地帯のその前回の「負傷現場*1」をさらに慎重に通りすぎる時に、「ごつごつした岩場」とは別の面で「なだらかな曲面の粘土地帯」も一本歯にとっての難度だと気付きました。


固まった粘土表面は砂地に比べると弾性が低いので足にかかる衝撃もさることながら、「なだらかな曲面」が特に曲者で、着地に気を遣わないでいいと見せかけて(ふつうの靴ならまず楽ちんだからですが)実際は不安定な足場なのです。

「足場にフィットする歯底の安定面に垂直に踏み込む」のが一本歯歩行の基本だと前回書きましたが、岩場なら安定面から踏み込み角度が少しずれただけで途端に不安定になる(=ちょっと踏み込めば不安定だとすぐ分かる)のでわかりやすいのですが、「なだらかな曲面」はなだらかなだけに安定面から少しずれただけでは違いがあまりなく、安心して踏み込みを確定させようとする(=強く踏み込む)と実は不安定な角度だったと判明して、その結果歯底が傾いて足首を捻るという「油断による踏み外し」を起こしやすいのが一つ。

二点目として、これは僕の目が悪いせいかもですが(つまりメガネをかければ解決する可能性が高い)、「なだらかな曲面」の表面状態を目視で把握しづらい点も危険です。

そして三点目ですが、これも油断につながる話ですが、ふつうの人、というか万人において「「なだらかな曲面」は靴では楽に安定を保って歩ける」という身体運用の習慣が身体に刻み込まれていることです。これには今日何度もヒヤリとしましたが、身体の左右方向に傾斜する斜面を踏み込むとまず間違いなく足首をやられます(今書きながら想像しただけでおぞましい絵面です)。斜面に立つ時は必ず傾斜方向が身体の前後方向と一致するようにする、という癖がつくまでは常に念頭に置くべきことです。
(ということは「落下側に足場が傾いた崖沿い」みたいな所では足場が幅広でもカニ歩き必須ということになりますね。いやそこは脱ごうよ、と言いたくもなりますが…)


大事なことなので模式図を描きました(左側がその「おぞましい絵面」になります)。
本日の教訓。

「足首がやられる」感じがすごく出ていますね。
もう「いてて」どころじゃなく、「ぼきっ。ぎゃー」のレベルです。

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 × × ×

ちなみに今日は無事「火床」までたどり着けました。
が、とても下る自信がなかったので下りは靴で下りました。
一本歯で下りることを想像しながら歩きましたが、あな怖ろしや、「え、これ、ホンマに下りるんでっか?」的難所が多々確認されました(この想像をしながら下っていると、とても「同じ道をさっき登った」とは思えませんでした)。

しばらくは「山下り」はおあずけとなります。

*1:左手首のすり傷が軽傷だったと言いながらまだかさぶたがとれません。手首を内側に曲げると痛いので早く治ってほしいですが…治りが遅いのはプールに通っているせいかな。