human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「狐の葡萄」にしちゃいけない

『竜の学校は山の上』(九井諒子)という短編集を入手しました。
さっそく表題作「竜の学校は山の上」を読みました。

「竜学部」という語呂が良くて、どこかの大学に本当にありそうですね。
留学部の誤字でパンフに載ってたりして…いや、あっても留学サークルか。

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

あらすじと思ったこと

現代日本で利用価値の失われた竜を活用する道を「現実的」に考える
「竜研究会」というサークルがあり、新入生の主人公はそこに入会します。

その「現実的に」という点がキィで、
食用、愛玩用、配達手段、などの用途に対して採算を検討するのですが、
そもそもそれらの採算がとれないから「利用価値が失われた」と言われている。

つまり、「現実的」に考える対象の選択が"現実的"でない

…でも、僕はこれは一つのまっとうな在り方だと思いました。


サークルの部長は自分で現代日本に竜は不要であることを論文で発表していて、
その自説を覆すために竜の利用価値を模索し続けている。
何か矛盾のように見えて、実際に世間は矛盾に込められた意味を理解できず、
竜を保護したい立場の人々からはその論文は非難されてしまう。

この矛盾を矛盾に見えなくするキーワードは「自覚」です。


上に書いた「まっとう」の意味ですが、

自分が大切にしているものや考え方を守ることが、
自分の生活や仕事の状況と照合した場合に困難であることはよくあります。
いくつものハードルがあり、抵抗が大きい中でその困難を実現しようとすることは、
割に合わない、消耗が大きい、非効率的だ、等々の理由で"現実的"でない。

人にそんな風に考えさせる原因は現実の困難さにあるわけですが、
ここでまず「大切なもの」と"現実"が秤にかけられていることに気づく必要がある。
そして自分が「大切なもの」の方を選ぶのであれば、
順応すべき現実の位相をずらさねばならない。

つまりは、大切なものを守ることを大前提にした上での「現実性」の追求
これが、最初の下線部の肯定的な*1言い換えとなっています。


「自分は本当は何がやりたいのか?」
このことを自分自身でちゃんと分かっている部長のひたむきさに
周囲の人々も「それ」の自覚を促されていく、という物語だと思いました。

そして今の僕にとってとても示唆的な物語でもありました。

*1:2017.5.18追記