human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

未知が導く好奇心

『自己チュウにはわけがある』(齊藤勇)を読み始めました。
高一で読んだ本の再読シリーズ第三弾です。

心理学の実験の話(被験者が先生役で、サクラの生徒役に電気ショックを与えるとか)が豊富に出てきて、想像しやすくて書かれた理論(というほど堅くなくて、なんというかハウツー的なのですが)が想像した実験の具体性に裏付けられて「へー」と思いながら今日半分読みました。
直接読んだ記憶はありませんが実験内容にはどれも親しみがあって(=どこかで聞いたことあるなという)、まあそれが読んだ記憶なのかもですが、それで1つ前に読んだ本を読んでいる時に感じたことの続きのようなことを思いました。
何かといえば、その心理学実験というのは具体例としては「意見の異なる集団の中で自分の意見を貫けるか」とか「自分にあまり良い印象を持っていない相手と何を(どう)話すか」といったもので、それぞれに心理学用語つきで抽象化してまとめられるわけですが(たとえば「公的自意識」「私的自意識」とか)、その実験における被験者の感情の動きは実生活の一場面で起こる動きのノイズを取っ払ったものであったり、あるいは起こりうることそのものであったりします。

前に「実際に経験する前にその経験を想像すると未知性が損なわれて行動力が減退する」といったことを書きました。
それはそれで妥当だとも思い、しかし行動を鈍らせる別の文脈もあるなと思ったのです。
要は、
(1)本で読んだ場面(実際には「心の動き」)が実生活でそのまま起きてもあまり面白くない
(2)功利的な動機がなければその面白くないことをやろうと思えない
(3)逆に言えば進んでその場面を実現させることは「何だかはしたないこと」に思えてしまう
ということで、これは実生活の中では無意識に活性化されるもので、そして本に書かれていたことが常識的であるほど、彼は勝手に進んで非常識な振る舞いに至ることになります。

繊細なアマノジャクは始末に負えないということですね。
 しかし逆に考えれば「始末を負える」などという発想は傲慢極まりないとも言えます。
 親は子どもの「始末を負える」から世話を焼くのではなく、
 始末を負い切れない絶対的な事実を呑み込んだ上で、
 それを乗り越えようとして世話をするのです。
 親心は極め付きのお人好しであっても、傲慢ではありません。

話を逸らすべし、という内なる声に従ってみました。

さて、今回の分析はわりと素直な方であって、つまり高校の時に自分が読んで思ったことの再現としても通るように僕には思われるのですが、今の自分は「メタ思考」という強力にして諸刃的なツールを手にしているので、もう一歩先(中?下?)に進みます。
結局は(1)〜(3)も未知性が損なわれることに起因するわけですが、未知でなくなる=既知となる、というのは「判断」なのですね
友だちの作り方、部下の操心術、夫婦円満の秘訣などなど、起こりうること(あるいは実際起こったこと)に対する処方箋を知識として得て、その知識は実際の場面で所望の効果をもたらす。
その「所望の効果」は自分が知識を得る前から望んだものも、知識を得てから望むようになったものも同じです。
既知は判断、と書いたのは、知識の習得が既知という完結をもたらす場合も、新たな未知を生み出す場合もあり、その選択権は彼の好奇心に委ねられているからです。


散漫に書いてしまいました。
結論はなく、過程に拾えるものがあれば幸いです。

お、タイトル七五ですね。