human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「内側から補正するような何か」について

『経済成長という病』(平川克美)を読了しました。

本書の全体について何か言えるほど考えはまとまっていません。
簡単な感想としては、こういうおじさん達の話をもっと聞いた方がいいな、と思いました。


個々の部分で思考を触発され、読中に書き込んだ所がいくつかあります。
その中の一つについてちょっと書いてみます。
抜粋の「事件」とは秋葉原連続殺人事件のことです。
事件の現場が平川氏の通勤の道だったようで、それがきっかけなのか氏はこの事件を他人事にしてはいけないという姿勢で論考を深めています。

 今回のような事件の場合、原因を名指すことの意味もこれ[医者の診断が、対処できる病根の名指しであると共に身体全体の他の部分が無事であることを意味すること]に似ている。異常な犯人。それは、自分も自分たちの社会も、犯人とは別であるということを確認して安心を得るということである。自分と犯人との間に、明確な線を引くということを含意している。
(…)
 この考え方の前提になっているのは、全体は健康であるという信憑である。合理性への信仰の土台には、全体への信憑が隠されている。もし、全体が病んでいるとするならば、この方法はまったく意味をなさない
 これとは、まったく正反対のやり方というものがある。(……)
「第三章 経済成長という病が作り出した風景」p.214

この抜粋の後には「犯人を異常とみなして正常な自分たちと犯人との違いを列挙する」のではなく「犯人と自分たちとの共通点(同質性)に目を向ける」ことの可能性について書かれています。
その可能性の部分がこの事件に対する論考の山場なのですが、僕はちょっと道が逸れて、抜粋部を読んだ時に、この一つ前の記事の話(加藤典洋氏の著書抜粋の部分)を連想しました。

加藤氏の表現をそのまま使えば、あの事件を「人間の許容の限度を超える結果」と考えることはできないか、ということ。
犯人の生い立ちや経歴、事件を起こした直接のきっかけと思われることまで当時は色々と分析がなされていたと思いますが、まず平川氏が言っているのは「その分析が犯人の異常性を際立たせるために行なわれては真相が解明されるどころか闇が深まるだけだ」ということで、分析自体が無意味なことだとは氏は考えていないと思います。
ここで言いたいのは、上の抜粋で下線を引いた部分を踏まえると、この分析が「犯人の異常性」ではなく「自分たちの異常性」をクローズアップする方向性を持っていれば、それが加藤氏のいう「内側から補正する何か」になるのではないか、と。
事件の犯人の話でいえば(記憶で書きますが…)、母親の"異常"な教育熱が挙げられたのなら、そのような母親を生み出す社会の中での親の位置付け(学校は当てにならないから親がしっかりしないと、とか教育は費用対効果のはっきりした投資だ、とか)をクローズアップする、あるいは2chへの食い入るような書き込みが挙げられたのなら、ネット掲示板の匿名性の闇をクローズアップする。
ニュースでもそういう方向性の話題を取り上げることはあっても視聴者が当事者意識を持てないのだとすれば、それは上の抜粋の通り「ニュースで取り上げているのは”(少数の)異常な側”であって、視聴者はじめ大多数は”正常な側にいるのだ」というニュアンスが含まれているからでしょう。

ニュースで報道される事件の問題点を他人事だと思うことは、もちろんその問題の自覚に繋がらない。
そして事件の加害者は、後で反省することはあっても、自分が事件を起こした瞬間には自分が抱えている問題には無自覚である。
もともとは注意喚起のはずが、人(一般)や社会の暗部を直視するのがイヤで上っ面を見るだけ、話は右から左に抜けるようにニュースと接していれば、むしろ「無自覚な事件」を増やすことになる。

ある事件について自分との繋がりを意識すること、「あの犯人は自分でもありえたかもしれない」と思うことは、自分のいる社会が定常的に異常な部分を含んでいて、その異常を直視することに繋がる。
それは不安なことだし、自分だけそんなことを考えていると自分の生活圏において周りに違和感を感じることも増える。
けれどその違和感は、大事にしなければならないものかもしれない。

そこからしか始まらないものが、あるのかもしれない。