human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「接戦の感覚」について

平尾 こうなったらチャンスが生まれるんじゃないかと瞬時の判断でプレーを選択して、結果としてチャンスとなっている。このチャンスを察知できるというのは、知識ではないんです。実際にグラウンドに出てプレーをしていないと感覚が研ぎ澄まされていかないものだと思う。それも、いいゲームを経験すること、実力差があまりないチームとの接戦を制するようなゲームを多く体験することが必要だろうと思います。
羽生 それはありますね。将棋の場合にも、接戦で勝った方が後につながるということがあります。大差で買った将棋の後はどこか甘い部分が出てしまって、次の対局では苦戦したり、負けたりすることがあります。だから、接戦、接戦という状態で勝っていくのが自分ではベストな戦い方ができる気がしています
「勝負どころを読む力は、接戦でこそ養われる」羽生善治×平尾誠二 p.111(羽生善治『簡単に、単純に考える』)

抜粋した中の下線部は、毎日の生活にも当てはまると僕は考えています。
仕事で「今日のノルマ」を設定した時、それを達成するまでは頑張れる。
けれどノルマが軽いもので早々に出来てしまえば、その後が弛んでしまう。
できるか否かのギリギリ(ちょっと残業込み)のノルマが一日の緊張感を保つ。

と、仕事ならわかりやすいですが、家に帰ってからも同じことです。
僕は読書とブログが(後者はほぼ)日課なので、これらがノルマのようなものになる。
もちろん、単純に毎日これだけ読めば(書けば)良しというものではない。
人がみな持っているはずの向上心を満たすように日課をこなす、ことを考えています。

 さっき読んだturumuraさんの記事に、文化と意味について書かれていました。
 文化は人の構築物で、ほかの動物にはない特性を持っている。
 おそらくそれは自然や野生に反するもので、永遠・不変を志向する。
 文化は意味の集積が織り成すわけですが、この認識はたぶん時代的に「新しい」。

 意味は人が獲得したものであると同時に、手に入れてしまったものでもある。
 高度な文化に育った人は意味の無さに耐えられないように、それは刷り込まれます。
 しかし人も動物であり、人の中に意味以前(変化、循環)を求める部分はあります。
 そして、意味を刷り込まれた人が意味以前を志向するには、意味から始める他ない。

誰もが持つ向上心、僕はそれを「変化の志向」と抽象して捉えます。
昨日の自分と今日の自分は、何かが変わっている。
今日の自分がなすことによって、明日の自分は今日と何かが違っているだろう。
この毎日の向上心の賦活には緊張感が必要で、おかれるべきは「接戦の場」なのです。

最近は「夜走り」を始めたので毎日の生活の布置が過渡的になっています。
これがもたらす緊張感の第一は「今日も走れるかどうか」です。
体調が整っていないとたぶん走れないので、夕食後の振る舞いが慎重になります。
これもひとつ「接戦」だと言えますが、あくまで過渡的な対応だと自覚しておきます。

あと、「走れたらその日は良し」という感覚になることも避けたいです。
行動の中身が問われずその達成のみが目的になると、必ず質が低下します。
走れたら「どう走れたか」、走れなかったら「それはなぜか」と問えるようにする。
それはその日(やその日に至る数日)の行動や(身体、精神)状態を問うことにもなる。

ノルマという言葉は生活向きではないように思えるので、あまり好きではありません。
けれど「接戦の感覚」についてはいろいろ考えておくべきだと思いました。
生活を自分で組み立てるということは、その質が自分の手にかかっていることを意味する。
質の向上を目指すのはもちろんですが、質の向上の仕組みをも理解することが求められる。

ある面においては明らかに、仕事よりも生活の方が緊張感があります。