human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

倫理的行為の選択について

個人とは簒奪者でなくて何であろう。意識=良心の到来とは──霊の最初の火花とは──私の傍に累々と横たわる屍骸の発見と、殺すことによって存在する自分への恐怖心でなくて何であろう。(…)
 殺害者になることなく存在すること。この責任を回避し、私が責任を負わされている場所を棄て、隠者の救いを求めることも可能である。ユートピアを選ぶことも可能である。だが反対に、霊の名において、その業がその意味を汲み出す諸条件から逃亡しないことも、現世にとどまりつづけることもまた可能である。そしてこれが、倫理的行為を選択するということなのである
「Ⅲ 論争」p.134(エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』)

 倫理的行為をただ行なうことと、選択して行なうことの間には千里の径庭がある。
 それが法に定められているから行なうそれは、前者である。
 皆が行なっているから行なうそれは、前者である。
 いかなる状況であれ、状況が強要するそれは、前者である。

この「選択」が、今の自分にどういう状況で起こりうるかを考えてみようと思いました。
「逆は真ならず」のピットフォールは「それは嘘だ」と言わんばかりにありふれていて、
この話もそうですが、前者の条件を満たさなければ自動的に後者になるわけではない。
けれどそう思えてしまうのは、現実にそういう例しかないと思われているからです。

という予防線を張った上で考えてみます。
……言葉で書けるような状況は、思いつきません。
が、きっと、その選択は「誰か」のためにするだろうと思います。
その「誰か」が、そばにいる人か、もういない人か、まだ存在しない人かは分かりません。

そして「このこと」を考え続けることは、とても重要なことのような気がしています。