human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「豆腐学的思考」について

 地中深く一辺が一〇〇メートルの立方体の中に炭坑の坑道が、縦方向、横方向、斜め方向に幾重にも穿たれている状態をイメージするなら、Nスペースの豆腐とは、一辺が一〇〇メートルの立方体を指し、そこにNスペースの豆腐におけるオブジェクトとも捉えられる坑道が幾重にも穿たれている状態だ。つまりそれは、ソリッドとヴォイドを反転する考え方である。
「第5章 -[14] Nスペースの豆腐への眼差し」p.183(矢萩喜従郎『平面 空間 身体』)

「鍋の中のどじょうが、お湯が熱くなる前に豆腐の中に逃げ込む状態」
からこの抜粋の「豆腐」のイメージが膨らんだかもしれないと矢萩氏は書いています。
豆腐ならその質感も身近であり、そして身近であるだけに少し拘りたくなります。
モロモロと崩れる木綿ではなく、コシと弾力のある絹ごしだろうか、とか。

今日仕事で「バルク」という言葉をようやくまともに知りました。
半導体業界では頻出で何度も目にしていたのですが、その都度流していたのでした。
表面状態や他の物質との境界面の影響を受けない、物質内部のことらしいです。
覚えたてのこれを使うと、絹ごしの表面の質感をバルク状に敷き詰めたような…

分かりにくい喩えですね。
Nスペースについては前に(別の文脈で)同じ本から抜粋して少し書きました。
モノのある空間において、モノ(ソリッド)以外の空隙(ヴォイド)を意識する。
その意識化を促す具体的なイメージが抜粋した章に紹介されています。

その具体的なイメージはすっ飛ばしまして、結論部分を抜粋してみます。

Nスペースの豆腐が自在に穿たれるものとイメージ出来ることとは、我々に一つのイメージの広がりを与えてくれるものである。つまり日常の中で、ある内部空間の中に身を置いても、イメージの中でNスペースの豆腐の内部空間にいると考えられれば、両脇の壁や天井も、自在に広げたり、高くしたりすることで、より快適な内部空間になる可能性を検証することが出来るのだ。
「同上 Nスペースへの感応」p.187

確かに、空隙は何かで敷き詰めた方が把握しやすくなります。
把握しやすくなるというよりは、別物として把握できるようになる。
モノにしても、モノの表面形状とその金型の表面形状は異なります。
沿わせればぴったり合うとしても、機能だけでなく、イメージも異なる。

この「ソリッドとヴォイドを反転する考え方」に応用の可能性を感じました。
そもそもこれで十分抽象的で、つまり「ないものをあるように考える」ということ。
これは空気やら雰囲気やらを実体的に扱う日本人に馴染みやすい感覚かもしれない。
そして「反転」というからには、「あるものはないようになる」…のでしょうか?

元の形を変える、ともとれるし、認識対象として後景に退く、ともとれます。
つまり、ソリッドもヴォイドも元から変わるので、把握するのはそのものでなく、
その手がかり、足がかりとして効果を発揮するということですね。
(「足がかり」は梯子のイメージですが、これを踏まえると「手がかり」も梯子ですね)


例えば、豆腐的空間把握は系譜学的思考と繋がりがあるかもしれません。
歴史に"if"はない、が歴史主義で、対して系譜学は無数の"if"の枝葉を伸ばす。
起こらなかった出来事を起こったものと考えて、歴史がどう変わったかを想像する。
「ないものをあるように考える」と、「あるものはその形を変える」。

この連想は、今朝読んだ内田樹氏の大瀧詠一氏追悼記事の影響ですね。
ああ、似てるじゃないですか。
系譜学的思考」と「豆腐学的思考」
歴史が発酵すると、茸が森の地下に張り巡らせるように、無数の菌糸が時間を駆け巡る。

ちなみに僕は毎晩、豆腐(キムチ乗せ)と納豆を交互に食べています。

大瀧詠一の系譜学 (内田樹の研究室)

この記事を読んだ日に「豆腐学的思考」を思いつきました。どうも。

2015/02/28 00:18