やる気が出ないことでも、それが何かの「ついで」だと途端に足が軽くなる。
やった方がいいことでもやらなくちゃいけないことでも、同じ傾向が見られる。
タスクの重要性に限らず、また私的な領域だけでなく仕事上でも時々発揮される。
多少の労力や時間を要することが、それ単品で存在するとなんだか億劫である。
ところが、処理の一部を共通化できる別のタスクを見つけると意欲が湧いてくる。
過去に自分のこの性質について解釈したことがありました。
たしか「効率化できる(できた)こと」に無上の喜びを見出す、だったかな。
その同時作業を広い目で見れば効率化できていない場合にも実行されてしまう、
という経験も無数にあることから病的な性質であると自分で認定していました。
ところが、先日あるきっかけで別の解釈を思いつきました。
(タイトルだけメモして放置して、肝心のきっかけを忘れてしまいましたが…)
公的な場面で自意識過剰になると、普段何げなくできることがうまくいかない。
これはよくある傾向で、その自意識過剰の中身もいろいろあると思います。
僕の場合は、想像が先走る(流れを先読みし過ぎる)とダメなようです。
滞りのない流れが想像できても、それを忠実になぞろうとすると緊張に負ける。
仕事においては、手順が決まっているだけにこの失敗を起こしやすい。
単純作業は嫌いではないですが、マニュアル通りの仕事は好きではない。
何が違うのかといえば、ある種の後者には「単純作業の喜び」がないように思える。
流れ作業的にできないからこそで作成されたマニュアルには、強制のニュアンスがある。
例えばひたすらエクセルのマクロを走らせるような「体得し甲斐のない」仕事とか?
話が突然逸れましたが…自分には「手順通り」をあまり面白いと感じない傾向がある。
本質的に面白くない仕事もあるわけで、その意味で自分は不真面目なのかもしれない。
だから(?)、真面目にやろうとすればするほど深層の不真面目が疼き始める。
このことは自分の思うマジメと仕事の求めるマジメの食い違いに起因しています。
私的な場面では責任が自分の内で閉じるので、この傾向は顕著に出ます。
あまりに当然なことを自分がやるとなった時に、時々あまのじゃくが顔を出す。
想定ではスムーズに流れるはずの行動や会話が、突然あるいは不可解に途切れる。
最初からあった(相手が作った)流れに乗る時は、これは滅多にありません。
たぶん、相手の流れに乗る時は余計なことを考えないのだと思います。
流れの把握に集中すると、過度な先走りに気を取られることがない。
その場における成功は「流れに上手く乗ること」で、その内容は二の次なのです。
内容への興味の希薄さは、自分が流れを作る時の内容へのこだわりと表裏一体です。
そのこだわりは「妥当性に対する不安」と言えばわかりやすい。
内容自体に興味のない自分が提示する内容が、相手の気に入るとは思えないからです。
だから、普段は関心の外にある情報を急場でかき集める必要を感じてしまう。
そして、実際の会話が急ごしらえの問答パターンから逸れるとうろたえることになる。
所々誇張して書いていますが、まあ基本的に外で考え過ぎると失敗するわけです。
(「外」というのは他人といる場のことで、ブログを書く今は「内」にいるわけです)
ここでやっと「ついで症」の話で、ひとつこの対策が戦略に含まれていると思ったのです。
つまり、並行作業においては一つの作業に割ける関心を低く抑えることができる。
定石通り、あるいは着実に思考を重ねることで、うまくいくことはあります。
あまり深く考えずにその場の勢いで行動することで、うまくいくこともある。
ある行動や仕事(これは基本前者ですね)がそのどちらに該当するかは内容によるが、
他者がその行動を評価する時は、内容に関わらず前者を重く見る傾向があるように思う。
これはきっと「そういうもの」で、そう評価されると思って本人は行動するのがよい。
言い換えれば、あまり考えずに行動してうまくいくことであっても、
他人から見ればさもちゃんと考えて動いたかのように見せるのも大事なことだ、と。
話がぱらぱらしていますが、これがどう繋がるかといいますと…
「ついで症」は(時に)考える必要のない場面で過度に考えることを抑制する戦略で、
しかしこの傾向(症状)を明示することは相手によくない印象を与える(ことがある)。
誠実でありたいと思うあまり、この「明示」が実行される可能性があるのですね。
自分用にまとめれば「結局"受け身型"なんだから余計なことは喋るな」という…
分かりやすいテーマのはずだったんですが、話が入り組んじゃいました。
自分の性質の深い所をえぐるテーマだったかもですね…はは。