human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

文章の無力さについて

今週の『ア・ピース・オブ・警句』を読んで、黙り込んでしまいました。
もともと無言で読んでいるので口ではなくて「心も黙る」というのか。
文章を他者に向けて書く誰もが自分のこととして考えるべき問題です。
小田嶋隆氏の鋭い舌鋒はもちろん氏自身のライフワークをも範疇に含む。


文章は世の中を動かせない:日経ビジネスオンライン

読んでから言えることですが、記事のタイトルが全てを語っています。
 「文章は世の中を動かせない」
記事で取り上げられた事件の若者たちは、文章で人を動かせると思った。
なぜそう思ってしまうのかは、僕にも想像がつきます。

たぶん、「文章で人が動くさま」を目の当たりにしたのだと思います。
単なる言葉だけで視野が広がったり、考え方ががらりと変わるのは珍しくない。
けれどそれを「文章が人を変えた」と表現するのは相応しくありません。
「間違いではないしこの方が劇的だから」といった言葉の選び方は危険です。

(その危険は日常化してもはや危険と認識されていませんが…)

人が変わる時、その「変わりつつある人」はいつでも主体です。
何に影響されようが、変化をくぐり抜けるのはその人自身です。
つまり「文章が人を変える」でなく「人は文章で変わる」です。
けれど時にそれを自分で体験した人は、この事実を過大解釈してしまう。

「自分は文章で変わった」が、まっすぐ「人を文章で変えられる」に結びつく。
この飛躍は「人はみんな(自分と)同じ」という認識によるのではと思いました。
一つの正しい考え方があり、まともな人間はみなこの考え方を採用しているはず。
このあまりにナイーブな人間理解は、消費社会に特有のものでしょう。


消費者的感性は、過度に内面化すると何かがおかしくなる。
消費者とは、商取引においてのみ演じられる一つの「役割(ロール)」です。
ものの売り買いは、本質的にドラクエと同じロールプレイングゲームです。
日常生活に占める消費活動が増えると、役割がどんどん実体を帯びてくる。

全く話が変わるようですが、マンガの登場人物の無邪気さをふと連想しました。
読み手は単純な主人公に無邪気さを感じ、違和感なく主人公に感情移入ができる。
それは「マンガの世界観」も含めてその主人公になりきる事ができるからです。
そして本来的にこれは長所なのですが、「マンガの世界観」は単純なのです。

たぶんこの事件は「マンガの世界観が現実に闖入した」という見方もできる。
それは微笑ましいエピソードにもなるし、おぞましい事件にもなり得る。
そしてその世界観をもたらした本人は、この効果を自覚しない。
よかれあしかれ、「闖入」の突拍子のなさは、役割の自覚を失したことに起因する。


「文章は世の中を動かせない」ことは、嘆かわしいことでしょうか。
事実を知り、理性と良識に則った思考ができれば世の中は良くなるに違いない。
これは多くの物書きの願いかもしれませんが、大事なのはこのことです。
つまり、これは「願い」以上のものではないし、なってはいけないものなのです。


祈りの本質は、その無力さにあります。