human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「歩行器的感覚」について

和歩の話です。

前に「肩で風を切らない歩き方」と書きました。
もちろんこれは慣用句「肩で風を切る」にかけています。
あれはたしか颯爽と、というか「グイグイ歩く」イメージだったかな。
歩く姿に存在感があって、風も進路を曲げざるを得ない、というような。

そんなイメージとは逆の雰囲気を和歩に感じたのです。
「気配のない」とも表現しましたが、これらと実際の動作とはどう対応するか。
これも前に書いた「身体全体で加速方向が一致している」がそれかなと思います。
本記事ではこれに関してもう少し掘り下げて書いてみようと思います。


まず今日気付いた印象に「移動していない感覚」がありました。
臍下丹田を意識しながら目を瞑って歩いてみて、それに気付きました。
(前から引っぱっている臍下丹田については最後に少し触れます→またダメでした…)
臍下丹田が安定した時に「なんだか歩行器の上を歩いているようだ」と感じた

ランニングマシーンといえば、コンベアがガシャガシャ鳴って喧しいイメージがある。
のですが、ここで言いたいのは「コンベアの上を歩いても移動していない」ということ。
体は運動していても、コンベアの下の地面に対して位置的には静止している。
和歩をいろいろ試していてこれを連想した理由について、歩きながら考えてみました。


まず「歩行における”移動のイメージ”はどこから湧くか」を考えました。
歩いていて、視界に入るものが後景に退けば移動していると感じるでしょうか。
けれどHMDの仮想空間で景色が移り変わっても「なんだか違う」と思うはずです。
それは単に仮想空間のリアリティが足りない、というだけではない気がします。

一方、歩行動作を行っていても歩行器の上だと、移動の感覚を完全には得られません。
目を瞑って景色が動くイメージを頭に描いても、やはり臨場感が足りない。
屋外の散歩と全く同じ身体の動きであっても、それは移動ではないのです。
…と引っ張りましたが、まあ散歩していれば誰でも気付くことです。

これだけあれば、というものでもないですが「移動に伴う空気の変化」ですね。
風があり、雨や雪があり、臭いの変化があり、環境音の変化がある。
(これだけではない、とは、歩行と自転車や原付とはまた違うからです)
移動感はこの「空気の変化」と「歩行動作の身体感覚」かなと思いました。

ここまでが準備で、やっと本題に入ります。

「空気の変化」の中で特に「風の変化」に注目してみました。
風が体に当たれば、皮膚はそれを感じるし、服の上からでも空気抵抗を感じる。
(皮膚だと空気抵抗に加えて乾燥(皮膚表面水分の蒸発による)も感じます)
この空気抵抗が今回の論考のキィになります。

散歩していて「歩行器的感覚」を西洋歩きでなく和歩で得たという話でした。
両者で違う点として、最初に触れた「身体各部の加速方向」があります。
西洋歩きは腰をひねり腕を前後に振るため、加速方向が身体全体では揃わない。
一方の和歩は同じ側の肩(腕)と足が一緒に動くので、方向がバラつかない。

もちろん和歩で身体各部の移動方向と同時に速度が揃うことはありません。
動力を備えた乗り物に乗った状態がそれですが、これはたぶん別の話になります。
相対的な話で、西洋歩きより和歩の方が身体各部の加速方向が揃うということです。
この違いが「歩行動作における移動感」に効いてくると考えると次のようになる。

つまり「身体各部が感じる空気変化の違い」が移動感をもたらすのではないか。
腕を振って歩けば、顔や胴より腕の方がより風を強く感じます。
対して全身が同じ方向に進んでいれば、風の感じ方も身体各部で差がなくなる。
だからなんだという話にはなりませんが、まあそういう仮説も立てられるかなと。


言い訳ではないですが、ここまで書いて「論理の実感」を考えてみたくなりました。
つまり言葉がどう身体に響くかという話ですが、もちろん「色んな響き方」がある。
物語を読んで感動するのも、人を中傷する文章に気分を害するのも「響き」です。
がここでは、「AならばBだ」という論理と、身体の実感との関係を考えています。

内田樹氏はブログで「イメージによる身体性の涵養」の例を多く書かれています。
長く合気道の稽古をされる中で、自分の身体を通してその効果を試されている。
たとえば相手の体に触れる手のひらの感覚を研ぎ澄ませるイメージとして、
「雨が降っているかどうか確かめようと軒下から手のひらを差し出すように」。

そういうイメージをする前とした後とで、身体の動きや感覚ががらりと変わる。
といった氏のブログを読んで、自分の身体感覚も開かれる思いがしたものです。
(と述懐調なのは、氏は今はそういった話題をブログに書いていないからです)
このような経験を重ねることで言葉を身体的に実感していくのだと思います。

といったイメージを本記事で自分が書いている内容にも持っています。
上で論理と書いたのは、本記事が「自分の身体感覚における仮説」だからです。
まあ論理もイメージの一種ですが、これは自分の論理に責任を負うことでもある。
責任を伴う「身体に関する論理」は、良し悪しに関わらず自分に影響を及ぼす

内田氏は「弟子をとると術の上達が見違えるようになる」と書かれています。
また同じ意味で、師範である氏の門下生に自分の道場を開くことを勧めています。
つまり「自分の術の理解が他人に与える影響からくる責任感」が原動力になる。
たぶん、僕もこのような「   」に参加したいと思っているのでしょう。

(ちょっと言葉が思い付かず、そして広げると別の話になるので掘り下げません)
話を戻せば、「責任を負う」とは、自分の身体についての言葉を生半可に扱うと、
自分の身体所作もそのような「生半可なもの」になってしまうことを意味します。
それを望まないなら、身体と言葉の関係について真剣に取り組まなくてはならない


話を戻しまして…まあ本記事の仮説がどう展開していくかはよく分かりません。
仮説が正しいかどうかを判定できるのかどうかも、もちろん分かりません。
身体に関する論理は「それによって身体がどう変わったか」でその影響を測れる。
その影響に個人差が大きく出るなら、正しさを問うことに意味はないかもしれない。