human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

実践の時間と教育について

互酬性が[、]通常の経験が贈与概念に結びつけているような分散的な体験的行為の「客観的真理」であるとすれば、そうした互酬性が果して実践の真理──実践の主観的真理がこの「客観的」真理と完全に一致した場合に実在するといわれる真理──であるのかどうか疑わしくなる。現にどんな社会にでも観察されることだが、対抗贈与は侮辱になるのを覚悟の上で延期されたり違ったものになったりするだろうし、正確に同じ物を返すことは明白に拒否に等しい。だから贈与交換は、互酬循環の構造の理論的モデルのように同じ瞬間に贈与と対抗贈与をはめ込む「与える-与える」〔ギブ・アンド・テイク〕とは対立する。それは貸付けとも対立する。法的行為によって明示的に保証される貸付けの返済は、定められた行為の予見的可能性と計算可能性を保証しうる契約の設定の瞬間にすでに実行されているようなものだからである。
(…)
贈与と対抗贈与とを分け隔てる時間の間隔は、常に可逆的なものとして現われ可逆的なものとして見られるおそれのある交換関係を不可逆なもの、すなわち義務を負った利害関心のあるものとして知覚できるようにする。「余りに急いで負債を返そうとすることは、一種の恩知らずである」とロシュフフーコーは言っている。
「第一部第六章 時間の働き」p.174-175(P・ブルデュ『実践感覚 1』)

ここには実践における時間の重要性が書かれています。
実践における時間とはひとつ、変化するための時間です。
そして時間変化は本来は不可逆なものである。
現代で流行りの「無時間モデル」は可逆変化を仮想前提しているわけです。

後半の下線部における「義務」や「関心」は、普段と意味が異なります。
たとえばふつう「お金を借りたら返す義務がある」というふうに使われる。
けれど返すのは「貸付け」の決まりのためであって、義務があるからではない。
抜粋にならえば、「貸付け」の決まりはむしろ「義務」からの解放です。

また「借りたものはすぐ返す」とつい思ってしまう理由もここで判明します。
実際は付かなくとも「利子が付く」という感覚が骨身に沁みているからです。
そしてその感覚は「貸付け」の決まりに則った可逆変化を前提している。
この貸し借りは「ギブ・アンド・テイク」であって、贈与にはなり得ません。


というところで流れが自然と寄ってきたので本題に入ります。
最初に書こうと思ったのは抜粋の最初の下線部についてです。
ここを読んで、内田樹氏の「いつもの話」を連想したのでした。
一言でいえば「言葉をいいかげんに使うと危険なのだな」と。

報償があらかじめ示されると、学習意欲は損なわれる。考えれば当たり前のことである。
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益の提示があれば、子どもたちは必死になって勉強するだろうと大人は考えるが、そんなことは夫子ご自身を省みればありえないことが知れるはずである。
(…)
事前に「獲得できる報償」が示されれば、子どもたちは「最短距離」を探す
だが、そうやって最短期間に最高効率で身につけた英語力は、むかしの子どもが何年もかかって英語の小説を読んだり、英語の映画を見たり、英語の音楽を歌ったりしながら、じわじわと身につけた英語力と比べたときに、その厚みや深みにおいて比較にならない。「英語ができるといいことがある」というアナウンスが始まってから英語力が劇的に低下したことの説明はこれでつく。
言語を学ぶことについて (内田樹の研究室)

これは内田氏がおそらく公には『下流志向』からずっと言い続けている話です。
学ぶ理由が学ぶ当人にも理解可能に明示されるようになって、学習意欲が低下した。
変化を前提する学習の目的が、変化する前段階で納得できないと学習に向かわない。
学習(教育)が無時間モデルに適用されて、全く別物(=購買・消費活動)に変質した。

この考え方は恐ろしくも当を得ているとして、でも皆が皆そうなったのではない。
安直な動機付けで学習を始めても、自分が変化していく充実に目覚めることはある。
現代の教育者の一部はそういう成り行きを期待しているのかな、と思っています。
「机にさえ向かわせれば、勝手に勉強の面白さを見つけるだろう」というような。

つまりそれは「子どもにもわかる利益の提示」を方便に使っているということです。
確かにそれが方便として通じる、つまり「本気に取られない」ことも起こりうる。
けれど逆に、「方便を真に受けて利益獲得に邁進する」子どもも必ずいる。
あるいは「方便を真に受けて(はやくも)無意味さに達観する」子どももいる。

利益誘導は、高い学歴や社会的地位や高い年収といった「人参」に魅力を感じない子どもたち、「欲望を持たない子どもたち」には何の効果も持たない。「そんなもの、欲しくないね。僕は家に引きこもって、ゲームをしている方がいいよ」と言う子どもに利益誘導はまったく無効である。
同じように、あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。  
「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである

学校教育の終わり (内田樹の研究室)

教育の問題は、生徒や学生だけが当事者ではありません。
教育の本質が学習者の変化にあるのなら、「生涯教育」という言葉の通りです。
ただ教育の変質や歪みが、生徒や学生の学習態度に先鋭化して顕われている。
子どもが「変化する充実」を知らないのは、大人の「変化の否定」の反映です。

大人が自分の「変化の否定」を意識化したければ、子どもがその鏡となります。