human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

中心軸の安定について

「和歩」を始めてから、身体感覚や人の見方が変わりました。
気付きが沢山あって、でもそのほとんどは未整理で混沌としている。
言葉にする手前の「感覚の種」状態のものも多くあると予想される。
発芽前から種をいじくると、発芽が阻害されることもある。

園芸の基本は「土台作り」と「待ちの時間」です。
栄養豊富な土を用意し、日当りを考え、水やりは欠かさず定期的に行う。
やることをやれば、それ以上余計なことはせずに、座して待つ。
種の殻が固いのは、その内側で「中身」がじっくり期を待つためです。

と、比喩だけに適当な想像で書きましたが、まあ文章も同じです。
閃きに浮かれて具体化に先走ると、最初の閃きが全くの別物になることもある。
特に身体感覚を言葉にする時は、元々が跳躍的なので注意が必要です。
とはいえやってみないと分からないのも事実なのでまずはやるしかありません。

という前置きのもと、この数日で確固としてきた感覚から書きます。


まず「和歩」の自然な実践には、身体の中心軸への意識が重要であること。
上半身が左右に揺れながら歩く人(昔の僕ですが)は、軸も左右に揺れている。
(余談ですが、サガ・フロンティアのリュートの歩き方を一時期真似ていました。
 ゲームの主人公の一人で、なかなか楽しそうに歩いていたのでつい…)

軸が左右にブレるのは、前に歩くためにはムダな動きとなります。
それで「スッスッと」スマートに歩く人は身体の中心軸は真っ直ぐです。
運動効率からしても真っ直ぐがよいのですが、この維持に関して気付きがあった。
「和歩」やナンバ歩きより、西洋的な歩き方の方がカンタンなのです。

なぜかといえば、何度も書いていますが「身体をねじるかどうか」に関係します。
物体をねじる時、その動きにおける「回転軸」が存在します。
ねじり動作はまず物体の断面全体に対してかかるので、回転軸=中心軸となる。
つまり、上半身と下半身をねじる西洋歩きは中心軸が自然と意識されるのです。

対して「和歩」は、上半身と下半身の(左右方向の)傾きを一致させる歩き方です。
動きが同質な蝶番のドアで喩えますと、ドアの回転軸は蝶番のついたドア側面です。
「和歩」で軸を意識するとは、ドアを開けながらドアの重心を意識するようなもの。
しかしドアの進行軌跡は円弧ですが「和歩」の進行方向はもちろん直線となります。

また、西洋歩きは腕の振りも軸の安定にふんだんに使うことができます。
「和歩」は…自分が未熟なだけかもしれませんが、腕の振りをあまり頼れない。
これらを一言で言えば、「和歩」は軸をブレさせずに歩くのが難しい、となる。
そしてこのことはきっと、西洋歩きでは使わない身体部位を使うことに繋がる。


もうひとつ、これはまだ言葉にしにくいですが、「すり足」の効果について。
西洋歩きは躍動的という表現が合って、跳ねるような歩きに違和感がない。
ところが「和歩」で身体が跳ねる(浮く)と、どうも軸がブレやすいと感じる。
これは単純に重心が低い(上下移動しない)方が安定するという話かもしれない。


あと重要なことを、以前からずっと書こうとしながら忘れていました。
これは甲野善紀氏の本で得た知見で、意識しながら「なるほど」と思っていた。
「和歩」を始める前の話で、効果も感じていたのですが、続く言葉がなかった。
それが今になって「和歩」の身体の軸の感覚にも繋がったので、もういいかなと。

そのトピックは「臍下丹田の位置」なんですが、これは引用も交えて次回に。


ああ、あと「人の見方」の話もしなかったのでそれも次回に…