human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「和のウォーキング」について

 能楽師の安田登氏によれば、ウォーキングとはもっとも効果的なエクササイズであり、ゆっくり歩くことによって身体はリセットされるのだという。ここでいうウォーキングとは、腕を大きく振って大股で歩くといったスポーツ科学に基づいたものではなくて、スタスタとすり足でゆったり歩くこと。周囲の景色を眺めながら時速4kmでゆっくり歩くそれを、従来のものと区別する意味で「和のウォーキング」と呼んでいる。

 この「和のウォーキング」には大きく2つの効用がある。
 ひとつは「全身協調性」が高まること。たとえば特定の部位にだけ負担がかかり、その部位が過緊張を起こしている状態が肩凝りと腰痛だ。これらは「全身協調性」の崩れによって引き起こされるもので、つまりこの「和のウォーキング」は、ほとんどの日本人が慢性的に抱えている症状を解消する効果がある
第29回 歩くということ|近くて遠いこの身体|みんなのミシマガジン

平尾剛氏の連載から抜粋しましたが、この「和のウォーキング」という言葉に触発されて、先週くらいから徒歩通勤の間にいろいろと試していました。
僕は普段から早歩きで、足を出す側と逆の腕を前に振る「西洋の歩き方」でずんずん歩いています。
今年の初めから歩くときの手の形を「鷹取の手」にしていて、すると手にもエネルギィが集まるので、腕振りの遠心力が増してさらにスピードアップした、ようなしていないような。
スピードはよく分かりませんが、鷹取の効果で歩く時に足(下半身)だけでなく手(腕)もそれなりに使えているかな、という思いはあって、抜粋の「全身協調性」が向上したような気はしていました。
ただ手首が慢性的に腱鞘炎ぎみ(手首を曲げるストレッチをやると、曲げ限界にいく手前で痛みが走る)なのは、一日中PCの前に座る仕事柄だけではなく、鷹取で手首を緊張させているせいもあるかもしれません。
それはいいのですが、今年の夏前くらいからは「鷹取ウォーキング」の進化形として「左右の手の振りを連続的に行う」ということをしていました。
それはなにかといえば、西洋的な歩き方は踏み出す足と前に振る腕が逆になるとは上に書きましたが、それは踏み出す足が変わる時に前に振る腕も変わることを意味します。ふつうの歩き方(としか言えませんが)だとその変わり目に「断絶」がある気がしていて、つまり腕の振りの方向転換の際に一瞬「流れが切れる」のではないか。ふつうに歩く時は腕に力なんて入れないのでその断絶に意識は向きませんが、鷹取をやると腕振りのモーメントが全体的に増すような感じになるために、ふとある時にその断絶に気付いたのでした。歩く行為は体全体として連続的に流れるように進んでいるので、身体の一部でも流れの断絶があるよりは内包がよいと思い、歩く時に腕を「前後に振る」というよりは「前後方向の軸が長い楕円を描く」ことをイメージしてみようと思い付きました。
それが「左右の手の振りを連続的に行う」ことなんですが、この効果としては、身体の動きが複雑になったというか、使う部分が増えたというか、歩きの推進力が増した(速くなったというのではなく、身体の中で歩きに関するブレーキになる部分が減ったといえばいいでしょうか)というか、敢えて言葉にしてみるとそんな感じですが、これは今あらためて考えるとよく分かりません。


「今あらためて考えると」というのは、今日はそれとは別のことを考えて歩いていたということで、つまりここからが本題です。

土曜日は毎週「寮→BookOff戸室店→本厚木駅前のVeloce→スーパ→寮」というコースを歩いていて(去年までは細かい部分で道を変えていましたが、そういえば今年は毎週律儀に同じ道ですね)、僕の足で2時間弱の道のりです。
目的地までの最短コースではなく、車通りの多い道を避けてうねうね進んだり遠回りしているので余計に時間がかかっているのですが、まあ歩くこと自体がひとつの目的なので「歩いて気持ちの良い道を歩く」のは当然です。
それでそのいつものコースは人通りが少ない道がほとんどなので、まあ色々試そうと思えば遊べるわけで、先週に読んだ「和のウォーキング」の記事が念頭にあったので、今日は普段(最近の普段(変な言い方ですが)が上記の「鷹取ウォーキングの進化形」になります)と違う歩き方をしてみたのでした。

抜粋の下線の部分が「和のウォーキング」実践の手がかりとした内容で、今週の通勤の間に「歩幅を小さくすり足でスタスタ歩く」というのはやっていました。
それをやっている間に、たぶん「すり足」から連想したんですが、「ナンバ歩き」と関係があるのではと思っていました
敢えて確認しないで書きますが(という書き方は本ブログの基本方針で、前に書いた「本ブログは情報発信ではない」の意味するところです。僕の記憶や現時点での理解を頼りに書いているので事実誤認や間違いはゼロではありえません)、ナンバ歩きについては甲野善紀氏の著書で軽く紹介していたのを読んだことがあります。踏み出す足と同じ側の腕を振り出すと言えば絵的にわかりやすいですが、ポイントは「身体をねじらない、ひねらない」点にあったはずです。
動きの質として「相撲のすり足」と同じだと思いますが、あれをそのまま歩く姿勢に適用できるかといえば難がありそうで、たぶんあんなに腰を落とす必要はないし、張り手はいらないし、外股(がに股?)もきつ過ぎる。
とはいえ応用はできるはずで(発祥とか知らないので全くの想像ですが、相撲よりは歩き方の方が基礎のはずで、つまり「相撲の身体動作がナンバ歩きの応用である」ような気がしますが)、今日歩いていてまずは「踏み出す足と同じ側の肩を入れる」をやってみました。
肩を入れる、というのは右肩か左肩のいずれかを前に出すということなのですが、バスケなどで上半身から敵の身体に割り込ませる時にこのような表現を使うはずです。
つまり肩を入れると、(前傾もしますが)身体の正面がまっすぐ前から少し右(または左)に傾きます。
これの目指すところは、踏み出す足と同じ側の肩を入れることで「上半身と下半身のねじれ」を起こさないことです。
というのも、足も片側が踏み出せば、下半身の正面が(足が踏み出した側と逆の方向に)傾くからです。

それで歩きながらこれをやり始めて、しばらくやって慣れて来ると、面白いことに気付きました。
最初の印象として「なんだか身体が静かだ」と思ったのでした。
腕の遠心力を使っていないので(言い忘れましたが、「肩入れ」をやる時に肩を意識するために、腕はまったく振らないようにしたのでした。手は鷹取にして、身体の横から前後に振れないように意識していました)、ふつうの歩き方よりもスピードは出ません。けれど、歩く速さが遅くなった静かさとは別もののような気がしました。
これは何だろう…とやはり歩きながら考えて、これが「身体全体がまとまって動いている」ということではないかと思い付きました。
つまり、身体各部にかかる加速度の方向が一致しているのではないか、と。
よく考えると、西洋の歩き方というのは、身体各部の進行方向は一致していないのです。
まず(踏み出す足と同じ側の)腕を後ろに振るなんてのは進行方向の真逆にあたるわけですが、それはもう一方の腕との連携なので除外して考えても、上半身と下半身がねじれる時点で、身体の各部が違う方向を向いているのは明らかです。
どうも西洋の歩き方は「斜めのベクトル2本を合成して真っ直ぐの1本にしている」、図式的にはひし形の2辺と対角線のイメージが近い気がします。
同じイメージをすれば、ナンバ歩きは「ベクトルは最初から1本だけど真っ直ぐではない」、つまり進行方向に対してジグザグを描くように進む。(あるいは「左右両側に蝶番のついたドアを交互にどんどん開けていくイメージ」の方が近いかもしれません…というこの表現は非現実ですが、つまりは「ジグザグを構成する一本は線分ではなく円弧」と言いたかっただけです)
と書くとあまりに図式的で、実際ジグザグに歩くわけにもいかないのであくまでイメージの話ですが。

それで話を戻しまして、この「歩いている身体の静かな感じ」が意外というか面白くて、ふわふわ浮いているような感じでもありました。
最初に引用した記事の中にも、歩くことに対してこのなんともいえない静寂性の心地よさという表現が使われています。
僕は歩くことに対しては「躍動性」を感じていたので(特に「鷹取ウォーキング進化形」はそうで、競歩のようなイメージをもっていた)、今日の歩きではいつもとは真逆の心地を味わえたことになります。

それから、「腕を振らない肩入れ」の歩きに慣れてから、腕の振りを追加してみました。
この腕の振りとはもちろん、踏み出す足と同じ側の腕を振り出すことです。
まだ小さい振りしかできませんが(と言って、大きければよいかどうかも知りませんが)、違和感なく振れていたような気がします。
ただ何かに気をそらされると、無自覚のうちに「西洋歩き」に戻ってしまいます。
まあそれは生まれてこのかたこのフォームだったから当然ですが。

というか、話を戻すというか総括に向かいますが、今日会得し始めた歩き方が平尾氏(が紹介している、安田登氏)の「和のウォーキング」と同じかといえばまあ違うのでしょうが、触発されたからこそ生み出されたのは確かなのでとりあえずこれを「和歩」(わほ、というとするっと口から出る語呂ではないですが…かずほ、という女性はいそうですね)と呼ぶことにして、とりあえずの目標は、和歩を自然な歩行姿勢として身体に定着させることと、ふつうの歩き方と和歩をするっと切り替えられるようになること
最初の抜粋にあった「全身協調性が高まると肩凝り・腰痛が解消する」という点も注目で、自分の肩と首の凝りもマシになればいいなあ、とこれはふうわりと思っておきます。
「全身協調性」についてはまだ何ともいえないので、今後の実験課題とします。


そう、そういえば「実験」なんです。
この身体論の記事の「怪しさ」というかバックボーンのなさというか、実質的な意味で「権威」がないんですが、それは本ブログ全体が「自分を被験者とした、でも評価者も自分である実験」というコンセプトで成り立っていて、その点で身体論の記事はさしずめ「人体実験」(「身体実験」の方が穏当ですかね)の実験ノートです。
たぶん保坂和志氏のエッセイを読み始めてから自分にこのようなことに興味があることを自覚したんだと思いますが、そういえば村上春樹もそうなんだよな、とは今日BookOffで見つけた本のまえがきを見て思い出したのでした。
この「実験」に没頭する人間はみんな、自分が変わることに興味津々で、それは少なくとも「変化を否定しない」ことであって、非常に大事な感覚だと思うのです。

(…)今ここにある自分の偏った読書傾向、教養体験をそのままのかたちで保持し、より深く追求していくことによって、その結果小説家としての自分がいったいどのような地点に行き着くのか、それが知りたかったということになります。一種の好奇心です。僕はそんな風にいろんな曲面で、自分の精神や身体をひとつの実験室(ラボラトリ)として捉える傾向がどうもあるようです。それも長時間をかけてあるひとつの傾向習慣を、もう取り返しがつかなくなるくらいまで深く持続させることに、すごく関心があるらしい。(…)でもたとえ世界中の人々に非難されても首を傾げられても、僕にはそれ以外の生き方がなかなかできないのです。
まずはじめに p.12(村上春樹『若い読者のための短編小説案内』)