human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「僥倖」の連鎖について

(…)そうしたものに、なぜかこころひかれてくれるひとに出会うという僥倖を少しだけ期待しながら、こころのなかの「のみの市」、「おもちゃ箱」、社会的生を生きる”個々人の内なる社会変動”の「スケッチ」「素描」の地図/「曼荼羅」をつくっていく。
 薄汚れた布の上に、瓦礫の山として積まれている断片の中から、後から来る智者たちによって、”生起したことがら”が掘り起こされ、察知され、理解されるために、メルッチが言うところの「ごくふつうのひととして、自分の器からこえ出て、あふれだしてしまっているような”ことがら”や、”ことがら”についての想念などを、小さな言葉で描きのこす
p.58「他者を識る・”旅”・の始まり」(新原道信『境界領域への旅』)

「ごくふつうのひと」のくだりを見てすぐ、「普通人の哲学」を思い出しました。
鶴見俊輔氏の言葉で、著書で読んでからこの言葉を自分の身に刻み付けています。
グラスルーツの出発点、どれだけ大きな社会のうねりも、ここから始まるのです。
うねりは劇的でわかりやすいですが、社会の沈鬱な停滞だって同じ端に発します。


鶴見氏は思想家ですが、氏の書く伝記には身ごと引き寄せられる所がある。
有名な人も中にはいますが、氏は世間的にほぼ無名の人を多くとりあげる。
けれど有名か無名かなどに構わず、氏が描き出す一人ひとりに心惹かれる。
新書数ページの話に涙したこともありますが、話が感動的だからではない。

そこには「一人の人間」が、淡々と描写されている。
社会で目立たず、あるいは有名になり、個人の生活の範囲で懸命に生き、死ぬ。
その位置(価値)付けする前の生と、ある普遍性とがまっすぐに結びつく。
個人の生から普遍を導く語りの自然さ・強靭さに、思わず涙が流れるのです。


そして伝記作家としての鶴見氏の仕事は、抜粋で新原氏のいう「僥倖」なのです。
誰にとってか、といえば、少なくとも僕はそこに含まれます。
鶴見氏の描く「無名の人の美しさ」は、市井の人間にとってそうであるはずです。
「ごくふつうのひと」がふつうに生きる美しさを、示してくれるのだから。

そして、これはグラスルーツの原理でもありますが、「僥倖」は連鎖します。
ある人に心惹かれる心を持っていれば、その心に惹かれる別の人が必ずいる。
先人の智恵を丁寧に掘り起こせば、「後から来る智者たち」もその後に続く。
連鎖は継起し、連鎖の存在を確信するにはただ一つ、その連鎖に加わること。