human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

このブログについて

承前です。

このブログでは、僕自身に関係することしか書いていません。
コンセプトは情報の発信ではありません。

ひとつは「自分の言葉を立ち上げる」ということです。
自分が普段から考えていること、本を読んで感じたこと、身体を動かしていて不思議にあるいは面白いと思ったこと。
けどそれは「自分の言葉」がオリジナルということではありません。
一度自分の中を通った「何か」を言葉にするのですが、その言葉は他から借りてきたものです。
ある本を読んで、その本のある部分が気に入ったから書くとします。
その部分の内容をそのまま引用するのと、自分が理解した通りに書くのでは、書かれた文章は自ずと変わってきます。
理解不足や思い違いもあると思います。
ただ、その「自ずと変わった部分」には自分が含まれていて、「理解不足や思い違い」にすら自分が含まれています。
正しいか間違いかは、本のその内容と自分が書いたその内容に関する文章を比べればわかる。
けれど僕はそこには興味がなくて、自分の文章が正しくとも、間違っていても、そこに「自分」が含まれていることを見たいのです。
その「自分」には、本を読む前の自分と、本を読んだ後の自分が混在している、つまり本を読むことによって自分が変化する過程が含まれています。
そしてそれは、自分が文章を書かないと見えないものです。

この話は読書に限らず、スーパーでの一度の買い物や一回の自炊など、日常生活のあらゆる経験を範疇に含めることができます。

なぜこんなことをするのか、といえば、変化が見えなくなっているからだと思います。
昨日の自分と今日の自分は、何も変わっていない。
当たり前に思えて、それは当たり前ではありません。
変化が見えないということは、何をやっても同じだということです。
単調な毎日に飽き飽きして、パーッと遊ぶ。
パーッと遊んで、戻って来て「ああ、また同じ生活の繰り返しか」と思ったとすれば、それはやってもやらなくても同じだったということです。
けれど、その同じかどうかを決めるのは、実は「何をするか」ではない。
毎日同じことを繰り返す単調な生活であっても、日々の変化を感じ取ることができます。
毎日同じことを繰り返している自分自身が変われば、周りが何も変わらなくても「なにかが変わった」と感じることができる。
このことは、日常生活を何も考えずに過ごしていると、すぐに遠くなってしまいます。
それは、ものを買うことが「何をするか」しか提示しないからです。


ここから少し抽象的な話になります。

「自分の言葉を立ち上げる」方法として、2つあると思います。
 (1)連想を通して語る
何かを知りたいと思えば、今は検索すればすぐに調べられます。
それは、情報そのものに個性がなくなったことを意味します。
情報はもう専有するものではなくなったからです。
情報が専有できた時代は、情報を持っている人とその情報との間に独自の関係がありました。
つまりその人がその情報を持っているという事実が、その人の個性の一つを表していた。
情報を共有する現代では、情報を持っているかどうかではなく、情報の扱い方に個性が表れることになります。
情報の扱い方の一つが、情報同士の関係性を見抜くことです。
膨大な情報にアクセスできても、その情報が自分と関係のないものであれば、自分にとってその情報の価値はありません。
自分に役立つ情報を見つけること、それはハウツー本から学べるかもしれませんが、自分の連想が(ふつうはあまり関係しないような)複数の情報の間に関係性を見つけられたとすれば、その関係性には自分の個性が宿ります。
その「関係性」が自分の役に立つかどうかは分かりませんが、そこには自分が含まれているのです。
つまり役立つかどうかは自分次第で、どう役立てるかは自分が見つけるしかありません。
ものを買う行為とこの話が関連するならば、ものを買う時に「何を買うか」よりも「買ったものを自分がどう使うか」に意識を向けるということになります。

 (2)身体を通して語る
身体と脳は、同じ一人の人間にありながら、いつも違う方を向いています。
脳が身体を無視して無理をしたり、身体が限界にきて共倒れになったりと、両者のバランスは左右に揺れながら人間は運用されています。
言葉は脳の作用ですが、身体も言葉に影響されます。
脳と身体が密接な関係にあるので、一方に刺激が与えられれば他方も影響を受ける。
けれど、脳を上滑りする言葉は身体に届きません。
情報として整理された、あるいは無菌化された言葉は、そのままだと脳を上滑りします。
その一方で、たとえば人と面と向かって話す言葉は、身体に届きます。
その人が話す言葉の内容に関係なく、時には内容がなくとも、受け手である自分に届くものがある。
僕が「自分の言葉を立ち上げる」と書く時、まず「身体に届く言葉」をイメージしています。
けれどそれは、内容がなくとも身体に届く言葉、というのではない。
(人との会話を否定するわけではなく、そもそも場面が違います。上では機能の比較として並べただけで、このブログを僕が独りで沈思黙考しながら書くのと同様に、読み手も独りで考えながら読む場面を想定しています)
内容があって、脳が理解できて、そしてさらに身体にも響く言葉。
僕が触発されて何か書きたくなる文章や本もこのような言葉で書かれています。
そのような文章を自分が書くにはどうすればよいか。
と考えていくと、身体に届く言葉というのは、身体から出た言葉なのではないかと思うのです。
(面と向かっての会話はまさに「身体から出た言葉」のやりとりです)
そうすると、自分の身体から出て来る言葉を文章にすればよいことになります。
自分の身体に入って、ぐるぐる回って、そして出て来る言葉、つまり「自分の身体を通した言葉」もその一つです。
そのような言葉を語るのに適するテーマは「武道」かなと思います。
自分の身体動作を見つめ、言語化することと、その発展とがループを形成する。
その言語化の過程で生まれる文章は、その人独自のものです。
それが万人に共有できるものかどうかは分かりません。
けれど、その文章を読んで、その人自身も身体を動かしてみて「なるほど」と思えたとすれば、その人は共有したと考えてよいのだと思います。
文章を書いた人の身体から、その文章を読んだ人の身体へ伝わった何かがあるのです。
これは、面と向かって会話する二人の「場の共有」と似ているのではないでしょうか。


最後に、読んで下さる方へ。
決して読みやすい文章ではありませんが、「自分で考えること」の一例として読んで頂いて、どこかで「面白そうだ」と思ってもらえれば幸いです。
もちろん自分と同じ考えを持つ人がいれば嬉しいと思います。
けれどきっと、同じ考えを持つ人が増えるよりは、自分と違っていても「自分で考える人」が増える方が嬉しいのだと思います。

自由な思考を担保する場に必要なのは多様性への配慮です。
話が正しいか間違っているかも当然議論の対象ですが、書き手や話し手の人となりが見えれば、話が間違っている場合にも「なぜ間違っているか」が見えてくるはずです。
単に実名が表れないというのでなく、ネットの匿名性に埋もれないような文章が書ければ、とも思います。


なんだかブログの説明なのかよく分からない文章になりましたが、
どうぞよろしくお願いします。

chee-choff