human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

統計的思考について

(…)そういうこと[一つ一つの電子がどう動いているかということ]は、何も分る必要がないので、電子の流れ全体のことを知れば、それでテレビも見られるし、電子顕微鏡の写真もとれる。一つ一つの電子の動きは分らなくても、機械の設計もでき、また学問も進めていくことができる。それで十分ではないかという考えも成立する。科学の本質をそういうものとすれば、これで電子の流れの実態が分ったといってさしつかえない。しかしそういう考え方にすれば、少し角度は違うが、生命保険会社で、今年は何歳以上の人はどれくらい死ぬだろう、何歳以下はどれくらい死ぬだろうというふうに、計算していると、だいたいその数どおりに死んでいってくれる。それで保険料金を適当に決めることもできるし、適当な利益も得られる。それで計算どおりにいって、生命保険の事業が成立するという意味では、人間の生命というものは、すっかり分っているとしてよい。それとけっきょくは同じことである。生命の現象は非常に複雑で、とうてい分らないとよくいわれるが、物質でも同じことで、ほんとうのところは分らないのである。急所は問題の出し方にあるので、物質の科学と生命の科学とでは、多くの場合、問題の出し方が違うのである。生命の場合には、電子一つ一つの運動を調べるような場合が多いので、非常に困難になるのである
「六 物質の科学と生命の科学」p.102-103(中谷宇吉郎『科学の方法』)

「統計的思考を行動原理とする人」には、あまり近づきたくないと思っています。
他人を生身の人間ではなく、情報として扱っているように見える。
その思考自体は問題でなく、それが身体化され無邪気に露呈されるのが怖ろしい。
そのことを世間話の話題の選び方や相槌の打ち方といった日常的な場面で感じる。

こんなに当たり前に振る舞われて、それが当然の如く不快になる自分は何なのか。
日常生活の中で頭の隅にあったこの疑問に、光を当てる文章に出会いました。
これは非常に現代的な問題ですが、抜粋した本は古く、初版は1958年です。
歴史は繰り返す、というよりは問題が転移していると考えた方がよいのでしょう。

統計学は"使える"学問だ」といって、少し前に流行った記憶があります。
どう使えるかといえば、マーケティングとか、大勢を対象とする場合でしょう。
アンケート、POSシステム、ブラウザ閲覧履歴等の情報は確かにそれに「使える」。
ただこの統計学が、人付き合いや人の上に立つために"使える"と言われればどうか。

統計学の理解の仕方というのは、抜粋でいう「電子の流れ全体」の把握です。
「一つ一つの電子の動き」のような細かい要素は、掘り下げる対象ではない。
大勢を相手にする場合、そのうち一つの個性が全体に与える影響は無視できる。
ここまでは社会の成り立ち、あるいは経済の回り方として特に違和感はない。

しかし、言うまでもなく人付き合いにおける他者は「電子の流れ全体」ではない。
人付き合いの把握の仕方は「一つ一つの電子の動き」を見るようにするはずです。
それは統計学が本来扱う対象ではない。
逆に言えば、人付き合いを統計学的に扱えるなら、その前提の人間理解がおかしい。

例えば抜粋の「寿命が分れば人間の生命というものがすっかり分った」という理解。
「誰に対しても同じ様に振る舞う人」は、一見平等な価値観の持ち主に思える。
ただ、「振る舞える人」と「振る舞うのが正しいと思う人」だと、話が変わります。
高校生くらいまでは単純にカッコイイと思って、両者の見分けが付きませんでした。

まあ、後者に危険を感じるという常識は、まだかろうじて機能していると思います。