human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

意味が生まれる境界について((5))

連投の続きですが、テーマが変わります。

(1)に連投の発端が書いてあるんですが、箇条書きの最後2つは「非消費者的に生きる」な話とは別の話かなと思っています。
もちろん繋がる部分はあって(何せ「生き方」なもんだから大体の話は包含してしまいます)、ただそれよりももっと限定した話ができるはずだ、と。
大雑把な話と細かい話とはどちらがいいかなんてことはなくて、それぞれに由来があり特徴があり効用があり、それぞれは「極端になると効用が失われる」ものです。
そのそれぞれは掘り下げませんが、それぞれに別の価値があって優劣比較ができないということは「両方とも扱えた方がよい」のであって、その両方扱うことの要諦は「お互いを行き来できること」にあると思います。
話を抽象的にするのは一つの具体例の適用範囲(分野)を広げるためであり、話を具体的にするのは抽象概念の強度を上げるためであって、お互いが相手の可能性を広げるように作用させたい。
もちろん両者とかそれぞれとか言っているのは便宜上であって、具体的と抽象的の間にはアナログなグラデーションがあります。
(全然関係ないんですが、アナログとデジタルの対比という思考の途中でanalog+logic=「アナロジカル」という造語(いや実際「アナロジーを用いた思考」という意味はあるんですが)を思い付いて、対比中なので相手にも造語を用意したくなって、思い付いたのがdigital+vegetalian=「デジタリアン」で、前者は「論理といえばデジタルなところにアナログをもってくる不均衡性」という面白さを感じるんですが後者は「信号主義者」ってなんだかとってもパラノイア的ですね。そういえば下に書いたハルキ小説には「記号士」と「計算士」という対立する2つの職業組織が出てきますが、どっちもパラってますね

で、本題です。
境界の話です。

僕の好きな作家や評論家や随筆家(ってなんだろう?)は大体みんな境界を扱っていて、なぜかといえば「境界あるところに事件(問題)あり」だからです。
個人と他者の境界に始まり文化の違う国同士の境界に至るまで、あらゆるスケールの状況における境界が想定できます(想定、というのは言葉通りで、境界なんてのは「あると思うからある」ようなものです。土地だって私有のルールがなければ、ぜーんぶ「テラ(地球)のもの」です。テラ、一度使ってみたかったんです。『あしがる』(ゴツボ×リュウジ)で初めて知って『11人いる!』(萩尾望都)を読んで「これか!!」と思ってからいつか使ってやろうと虎視眈々…てのは嘘ですが)。
事件や問題のない世界とはどのようなものか、を想像したければ今なら『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)の「一角獣と共存する壁の内側の世界」がまさにそれですと言いたいですが(リアルタイムで読中で、いよいよ今週中にはフィナーレです…長かった。上下巻で3ヶ月かかった計算です)、そこは「憎しみもなければ愛もない」のです。

方向性を戻しまして。
どんな職業であれ「現場」や「前線」に立って奮闘している人はなんらかの境界にいて、「壁」を前に試行錯誤をしています。その試行錯誤の形もいろいろありますが「文章にしよう!」と思い立った人が世に言う文筆家(本を書く人全般、の意味で使ってます)で、その試行錯誤の結論だけを書いた本よりは、試行錯誤込みであるいは結論が出ていなくてもまるっと書いてある本を僕は好みます。
ある問題を解決した結果があって、「これこれこういうケースではこうすればいいだよ」みたいな「ケーススタディ本」(ハウツー本と言えば一般的ですか)は、同じ問題を扱う人にとっては手間が省けるし効率は上がるし結果として余暇ができれば自分のしたいことが沢山できる…という話に魅力を感じないのは、「その人にとっての、その”問題”って何?」と思うからです。
その"問題"は、解くのが速ければ速いほど、手間がかからないほどよいとされる。
きっとそれは「労働」ではあっても、「創作」にはなりえない。
ものづくりや芸術に関わらなくとも、どんな仕事にも「創作性」は見出せませす。
ただ、その創作性に価値を置かれる(要するに「金額換算できる」)仕事と、そうでない仕事があるだけです。
そしてハウツー本の哲学は「金にならない創作性に価値は無い」に集約されるのです(という偏見を僕は持っていますが、記憶上僕は資格取得本しか読んだことがないことを一応書いておきます)。

一言でいえば、「意味は”ある”のでなく”見出す”ものだ」という哲学に貫かれた本が好きなのだと思います。
というのも、文章を書くことの創作性がそれだからです。


具体例をつらつら書こうかと昨日は思っていたのですが、きりがないのでやめておくことにします。
高村薫氏については前に二度ほど書いたことがあります。
氏の小説はほぼ全て「境界」がテーマ(というより地盤でしょうか)であると、そういう目で読めばはっきりと分かります。
最新作は随分傾向が違うようですが…。
昔の記事のリンクを貼っておきます。
 (1)内省する「お前」(深爪エリマキトカゲ)
 (2)変化の名(同上)
こういう話を自分が読んできた作家について同じように書いていけばある意味面白いのでしょうが、分類的な興味がそう思わせるだけかもしれません。
分類にあまり面白みを感じなくなった(作業的なそれに創作性はほとんどありません)のは、保坂和志氏を知ってからのような気がします。

締まりがよくないですが、まあこの辺で。
次でラスト、にしたいです。