human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非消費者的に生きる(2)

とりあえず前回の箇条書きの、上から順に書いていくことにします。

「値段と価値が相関しない買い物」の例として前回に古本を挙げました。
といって古本に限らず、本一般がそうです。
使用する紙がふつうの単行本(カラー用ではない、の意味です)や、文庫や新書ならもっと分かりやすいですが、値段を決めるのはページ数(文字数)です。
翻訳書だと(多分翻訳権とかがからむから)ページ数が少なくても値段が張ることがあります。
また専門書は、部数が少ないからか著者が多い傾向があるから知りませんが、理工系でも文系でも大体が高いです。
本の値段を決めるのは、買い手ではなく売り手の事情です。

ところで、読みたい本がその人の必要や生き方に応じて千差万別であり、同じ本に置く価値が人によって大きく異なるのも当たり前にあります。
本という商品は、その性質からして市場に乗りにくい(「神の見えざる手」が届きにくい」とでも言おうか)のです。

価値が人によって異なるということは、本の価値は本来は読むその人が見出すことを意味します。

「日本中が涙する、一気読み必定!」みたいな惹句は売り手が(マジョリティが共有できる)価値を提示していて、それが実際読んで裏切られたら「買って損した、金と時間を返せ」みたいな文句を買い手が当然のようにするとすれば、そのような「消費されるための本」は、市場に乗せられるように性質を変えられた本です。
一冊の本の値段は他と変わらなくても、発行部数や版数(これの意味が僕は分からないのですが、一刷の部数を減らせば版数なんていくらでも増えそうなものですが…)によって価値(自分が読むべきか、つまり読んで損しないか)が決まるわけです。
このような本は読み手の一人ひとりが価値を見出す必要がなく、本を消費する(=読み捨てる)前と後とで読み手は何も変化しません。
僕はこのような「値段と価値が相関する本」は読まないし、読んでもそれを読書とは呼びません。
良く言って、息抜きでしょうか。

BookOffに108円や200円で並ぶ本というのは、「市場のいう価値」がない本です。
つまり108円棚に並ぶ本は、内容に関係なく、市場価値が等しく低いということです。
最初に書いた「値段と価値が相関しない買い物」とは、その108円棚に並ぶ本の個々に対して、僕自身の物差しによる価値を推し量ることです
もちろんその「自己基準の価値」は確定していないからこそ推し量ることしかできず、選んで読んでみて裏切られることもあります。
ただ裏切られても、自分で判断したからにはそこに「内発的な理由」があります。
それを探れば、同じような判断ミスをしなくなるかもしれないし、価値を判断する自己基準が改訂されるかもしれない。

「自分を賭ける読書」は、一冊読むごとに自分が変わる可能性を秘めています。
そしてそれに投じる金額の大きさが、成功を保証することは決してありません。

鷲田清一氏が著書で、「金のない学生の頃は、本を読むことは至福の時間だった」と書いていたのを思い出しました。
僕がここで書いているのは、たぶん貧乏学生の感性と同じだと思います。
金が無ければ他にすること(できること)がないから本を読む。
そんな必要に迫られたきっかけから昔の学生は本にのめり込んで行きました。
本を読み始めたのは貧乏だったからかもしれないが、貧乏でないと本に没頭できないなんてことはない。
金があっても、本は読める。
いや、もしかすると、金を手にして「値段と価値の相関」に身を投じるにつれ本が読めなくなっていく(つまり上で書いた「自分を賭ける読書」ができなくなっていく)のかもしれない。
僕の経験ではこのことは食についても同じように思えますが、これはまた別の話になります。

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写真は前回書いた神谷美恵子氏の著書二冊です。
神谷美恵子 著作集Ⅰ 生きがいについて』と、
神谷美恵子コレクション こころの旅』です。
どちらもBookOffで105円で買いました。
見つけた時の「複雑な嬉しさ」も理解されるかと思います。
まだ自分が非消費者的には未熟だということなのでしょうが。


以下は派生的余談です。

上を書いていた途中で、下線部を読んで「学校の教室」を連想しました。
なぜだろう、と思ったのでちょっと掘り下げてみます。

今している話と関係のないことが思い浮かぶ時、その「関係のない」という意味付けは一般的な認識であって、「いやそうではなく、ふつう思い付かない点で何か関係があるのだ」というメッセージが含まれていると解釈できます。
それが絵的なものであって論理的には全然関係なかったりすれば「勘違いだった」にもなりますが、とにもかくにもその閃きの中に「何か」はあるのです。
このような場合の掘り下げ作業がうまくいくかどうかは、自分をどれだけ他人に見られるか(=客観的に考える、というよりは他人の頭を覗くように自分の思考を見る)にかかっているように思いますがそれはさておき。

内実が個々に異なるが形式がそろっているものについて、「これらは価値の等しいものです」というラベルがつけられる。
108円棚に並ぶ本を思い浮かべて、それが教室に座る子ども達と結びついたのでした。
たとえば4年1組のクラスメンバーの40人は、全員が「4年生」という役割を負っています。
クラスの担任は、彼らを平等に扱いながら、一人ひとりの個性をしっかり把握しなければなりません。
平等に扱うのは、(教師として)「4年生」という役割に対してであり、個性を把握するのは(一人の大人として)「一人の子ども」に対してです。
僕のいう「値段と価値の相関しない読書」と、子ども一人ひとりの個性の把握が対応している、ように見えます。
けれど教師は、生徒一人ひとりを個別に扱うだけでは成り立ちません。
教師が「子どもたちを平等に扱う」ことと、僕の読書(あるいは本選び)の何かが対応しているはずなのですが、ではそれは何か。

本を読んで、その一冊ごとにどんどん変わっていくけれど決して自分を失くす、自分自身を見失うことはない、ということでしょうか。
前に書いた田口ランディ氏の「影響されるが流されない」ですね)
あるいは、本を平等に扱うということは、「この本は自分にとって本当に価値のあるものだが、この本を全く読みたいとも思わず、暖炉の前に置いてあれば薪と一緒にくべてしまうだろう人もきっといるのだ」と思うこと、かもしれません。
これを抽象すれば、自分の信じる価値が普遍的であることはつい願ってしまうものだけどそんなことはありえないという涼しい認識、になるでしょうか。


もう秋だと思ったら、来週も残暑が厳しそうです。
昼夜の温度差が大きいと夜の(寒さ対策の)油断が生じます。
昼は「熱気を名残り惜しむ」心持ちで過ごそうと思います。

まだまだ続きます、が、平日にこのボリュームで書けるかどうか…。