human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

消費社会で非消費者的に生きる(1)

今回の連投(予定)は「4行ルール」を無視して書きます。

BookOffに毎週通っていると、棚によるジャンル分けは当然把握していて、加えて「この本はずっと前からある」「この本は初めて見た」といった在庫の推移まで把握できるようになる。
「いつもある本」が分かっていれば、「新しく入荷した本」をすぐ見つけられる。
それも、背表紙の一つひとつを縦に読んでいくのでなしに、棚の一段分をすーっと視線を横に流すだけで見つけることができる。
文庫や新書だと背表紙が出版社で共通なので分からないだろう、と思うかもしれないが、目当ての著者名が頭に入っていれば(というよりその著者名が特定の出版社の新書の背表紙にあって現に並んでいるという過去の経験が映像としてあるので)視線を流して一度通り過ぎる時に、違和感を覚えて引き返すことができるのである。
また単行本だと背表紙に個々の装幀が為されるので、読みたい本の系統によってはその著者を知らずとも「背表紙の装幀の感じ」だけで「自分が読みたいと思うはずの本」の予測が立つし、その予測が当たる確率も経験に応じて上がっていく。

全国チェーンのBookOffは個人経営の古本屋や古書店(古本屋より古書店の方が扱う本が古そうなイメージがある)と比べると軽薄というか、浮ついたイメージをどうしても持ってしまう。
その理由はまずマンガを大量に扱っていること、マンガを立ち読みする客の多さや客層、また店内にかかる音楽などいくつかあると思うが、そのイメージはBookOffが扱う本の系統にも及んでいる。
確かに出版社単位でいうカタい本(例えば岩波文庫ちくま学芸文庫など)の品揃えはかなり貧弱ではある。
しかし全くないわけではないし、ほとんどない理由もそれらが入荷しない、つまりそれらをBookOffに売る人がほとんどいないからである。
それはそれで当たり前なのだけど、当たり前な話を続ければ、カタい本はBookOffに持って行っても本来の(?)価値で見てはくれず、あらゆる他の本と一緒くたに流通事情(例えば売れ筋(だった)かどうか、初版から何年経ったか等)を基準として買い取り値を決められてしまう。
それを嫌い、かつ地理条件が良かったり(近所に古本屋があるとか)車を持っていたりする人は、BookOffではなく敢えて古本屋に売りに行く。
しかし近所に古本屋がない、車もない、そもそも買い取り値なんて気にしない、むしろ出張買い取りをしてくれて処分費がかからないなんて万々歳、という人もやはりいる。
そういう人がどれだけいるか、またその人がどのような本を持っているかは、完全にランダムだと思う。
読書家の親の蔵書を引き継いだ自分はマンガしか読まない若者なんてのは、まず出張買い取りで一気に売り払うのが自然である。

別に長々と話を引っぱる所ではなかったが、要するにあらゆる本がBookOffに出没する可能性はあるし、自分が価値ありと思っていてもマイナーな本であれば、おかしなジャンルの棚に破格で置かれていたりもする。
僕はそのような掘り出し物を毎週手ぐすね引いて待ち構えているわけではないが、それでもたまに「自己啓発書」の棚を見たりして神谷美恵子の本を見つけたりすると(二度経験あり)、「なんと!」と複雑な嬉しさを抱き、すぐにレジに持って生きたくなってしまう。
(別に欲しい本を見つければすぐに買えばいいのだが、僕は習慣としてBookOffに入店してまずその日に買う本を数冊決めてから、マンガを(数時間)立ち読みしに行くことにしている。これはこれで意味があって、後に書ければと思う)

そんな経験は長い間通っていれば何度もあるけれど、今日もその掘り出し物を見つけて、今回は特に「引きの良さ」を感じてさらにカフェで最初の数ページを読んでみると「これはここ数年の自分の(読書傾向の?)テーマそのものだ」と驚き、加えて今読んでいるほかの本とのリンクも繋がっていろいろ興奮したのでこの記事を書こうと思ったのだった。
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左が先に読中だった『実践経験(上)』(P・ブルヂュー)
右が今日手に入れた『境界領域への旅』(新原道信)

まだ導入部分ですが疲れたのでここまで。
書こうと思っていたことを箇条書きにしておく。

・消費者的でない、「値段と価値が相関しない」買い物
・古本屋(図書館)と出版社の確執、あるいは個人と古本屋の立ち位置
・「欲しいものを欲しい時に手に入れる」をとりあえずカッコに入れる
・「境界」を扱う、あるいはテーマにする人々
・「大きな物語」がなくなったあとの物語とその実践