そも、機械か人間かではなく、機械は「人にあらざるもの」の一例に過ぎない。
アンドロイドに心があると思えるのは、それが人に近いからではありません。
人は何に対しても魂(有機的なもの)を感じることができます。
何かしらの点で人に近いほど、それを感じやすいというだけです。
日本にいればそれはよくわかる、のかどうかは日本にしかいないので知りません。
ボーカロイドの抽象性は、媒体になり得るのだと思います。
モノに心を宿らせる媒体、ということです。
あるものが媒体として機能する時、それをこちらが直接感じるわけではない。
媒体とはリンク(通り道)のことで、それを通じて、宿った対象を感じるのです。
そして「直接でない」ということは、解釈が開かれているということです。