human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

制御の意思について

 刷新されていく体系についてわれわれが制御を獲得することは、多くの理由からぜひとも必要なのだ。というのも、それは与えられるものではなく、偶然に左右され、可逆性をもち、断続的であり続けるからである。いかなる道具も中立的ではなく、必ずや効果を及ぼし、それは失敗することがない。技術の進歩には、社会もしくは文化の退行を伴うか、あるいはそれを助長する可能性がある。解放をもたらす当の体系に隷属することを、代価として支払わないような工学的解放などありえないのだ。
「四 倫理的緊張状態におくこと」(レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』第四章 文化の生態学に向けて)

何かを得ることは、同時に別の何かを失うこととセットになっています。
その自覚の有無で、何が変わるのか。
得ることだけに目を向けていると、失うことに気付かなくなる。
利益と損失のトレードオフの、その判断基準が無自覚におかしくなってくる。

損益分岐点という考え方は、冷静で客観的に聞こえます。
「それを明確に見分けることができる」という自信が垣間見えます。
その自信の根拠には「判断主体たる自分は不変である」がある。
そんなはずはないですが、そうだと思えば、そのように思えてくる。

失うものに限らず、得るものも「新しい体系」の採用前には分からないものです。
それが分かるという建前で経済は回りますが、本音を忘れてはいけない。
その本音を意識しないことが経済の回転効率を上げるとしても、です。
効率主義という偏向した合理性は、徹底する過程でメタ損益分岐点にぶつかる。


面白くない話になったので路線を変えます。
個を維持する価値観と、集団を維持する価値観は異なります。
たとえば、両者の「維持」が想定する期間は大幅に違います。
ところで、この両者の価値観を明確に分ける考え方は近代的なものです。

単純にいえば、昔は「個の維持」の前提として「集団の維持」があった。
それで個人が文句を言わないのは、共同体主義がそういうものだったからです。
一方の個人主義は「集団の維持」より「個の維持」が先にくると考えられている。
しかし当然ですが、集団の全員がそういう考え方をすると集団はもちません。

まだ集団を第一に考える人が頑張っていて、持ちこたえているのかもしれません。
生き残っている共同体主義を復興させないといけない。
けれど、個人主義に染まり切って、そして集団が維持されているとも考えられる。
日本国内を考えれば、ここでは大枠で一色に染まる歴史を繰り返しているのです。

そう考えると、個人主義の内実を考え直す必要が出てきます。
今メディアが煽ったり憂いたりしている個人主義は一亜種に過ぎない。
個人の境界が明確に区切られると、生物的な生命力は減退していきます。
区切られた個人はどこかで反転し、境界を曖昧にしようと動き始めます。

もし、その徴候があって、しかしその方法が整備されていないとすれば。